第31話 お父様
こうして俺たちの勉強会は始まった。
静かな会議室に、ノートや筆記用具を準備する音が響く。
そんな会議室の静寂を破り、真奈美が口を開いた。彼女の声には、いつもの強気な調子の下に、かすかな緊張が感じられた。
「それじゃ、まず各自の苦手科目と目標点数を教えてもらえるかしら」
真奈美が春樹を見る。彼の表情には少し恥ずかしそうな色が浮かんでいた。
「俺は数学が苦手で、目標は60点かな。特に図形問題が苦手なんだよね」
香苗も続く。彼女は髪を軽く掻き上げながら言った。
「私は英語がちょっと……70点は取りたいかな。リーディングは何とかなるんだけど、ライティングが本当に苦手で...」
健太と美結も順番に自分の苦手科目と目標点を述べた。
健太は国語が苦手で、目標点は50点。特に長文が苦手だという。
美結も数学が苦手だが、目標は80点だそうだ。「特にこれが苦手というのは無いのだけれど…」と彼女は付け加えた。
俺は皆の話を聞きながら、それぞれの弱点と目標を頭の中でマッピングしていった。そして、一つの案が浮かんだ。
「よし、じゃあそれぞれの苦手科目に合わせて、個別指導でやっていこうか。お互いの得意分野を活かせば、効率よく勉強できるはずだ」
俺が提案すると、みんなが頷いた。その瞬間、部屋の空気が少し軽くなったように感じた。
「私が国語を担当するわ」
真奈美が言った。彼女の目には自信が輝いていた。
「俺は英語を見るよ」
と俺。大人の世界でも学んでいたこともあり、英語には自信があった。
「じゃあ私は数学を担当するね!」
美玖が元気よく言った。彼女の明るい声に、春樹と美結の表情が少し和らいだ。
こうして、それぞれの得意分野を生かした指導体制が整った。
指導しやすいように席順も入れ替え、それぞれの教科ごとに集まった。
俺の担当は英語が苦手な香苗だ。彼女は少し緊張した様子で俺の隣に座った。
「宏樹くん、よろしくね」
「ああ。よーし、じゃあ暗記系統は家でやれるとして、テスト範囲の文章をみていこうか。まずは、この長文を一緒に読んでみよう」
俺と香苗は教科書を開いた。
静かな会議室にペンの音が響く。時折誰かが質問し、それに講師側が答える。
雑談にならないのは流石に進学校の生徒だ。
そうしてしばらく勉強を進めていくと、香苗が聞いてきた。彼女の目には好奇心が輝いていた。
「ねえ、いつも授業の時も気になってたんだけどさ、宏樹くん、発音よすぎない?
完全にネイティブじゃん?」
「あー、結構長い事現地に行ってたからな」
「え、嘘!? いつからいつまで行ってたの!?」
言ってからしまったと思った。俺の中で警報が鳴り響く。この中学生としての「俺」には海外経験などあるはずがない。ましてや、『セーブ&ロード』の話なんてできるはずもない。
苦し紛れに出た言葉を、必死に取り繕おうとする。
「……駅前留学って知ってるか?」
「ぶーーーっ!!
現地ってノウバの事!?
アハハハハハ、宏樹くん、真剣な顔で笑わせないでよ!
アハっ、アハハハハ!!
ヒーーっ、苦しい……」
どうやら香苗のツボに入ってしまったらしい。彼女の笑い声が部屋中に響き渡る。
「そこっ! 真面目にやらないなら出てって!」
真奈美の厳しい声が響いた。しかし、その目には少しだけ笑みが浮かんでいるように見えた。
「はあい、ごめんなさい」
香苗は笑い過ぎて涙目になっている。彼女は深呼吸をして、なんとか笑いを抑えようとしていた。
その後はしっかり勉強して、気が付けば正午になっていた。窓の外では、初夏の陽光が庭園の木々を明るく照らしていた。
「ちょっと休憩しましょうか」
と真奈美。彼女の声には、少しだけ疲れが混じっていた。
「あああぁ、マジ疲れたーー!!」
立ち上がって伸びをする健太。彼の背中がバキバキと音を立てる。
「でもすっごい進んだし、すっごい理解できた気がする!」
美結が嬉しそうに言った。彼女の目は輝いていて、勉強の成果を実感している様子だった。
「ホント。マジで宏樹くん教えるの上手いと思うよ」
香苗が俺に向かって微笑んだ。俺は少し照れくさくなり、目を逸らした。
「真奈美の説明もすげぇわかりやすかったぜ」
健太が真奈美に向かってサムズアップをする。真奈美は少し照れた様子で、髪を掻き上げた。
「ミクちゃんの説明もめっちゃわかりやすかったぜ!」
春樹が美玖にお礼を言う。美玖は嬉しそうに頬を染めた。
「さて、お昼はどうしようか? ささっと何か作るか?」
俺が何気なく言うと、美玖以外のメンバーが、『何言ってんだコイツ?』みたいな目で見てくる。その視線に、俺は少し戸惑った。
「皆知らないの? ヒロっち、料理もめっちゃうまいんだよ!?」
美玖が得意げに言った。彼女の言葉に、他のメンバーの目が驚きで見開かれる。
「えええ? 嘘でしょ?」
美結も驚く。彼女の声には、少し羨ましそうな調子が混じっていた。
「マジかよ。俺カップラーメンしか作れないわ」
健太、それは多分みんな知ってる。彼の言葉に、部屋中から笑いが起こった。
「知らなかったわ。宏樹の料理はとても気になるのだけど、今日はウチで昼食を用意してるの。食堂に行きましょう?」
「いいのか?」
「ホストだもの。それくらいは準備するわよ」
「ありがとー、マナミン!」
美玖が元気よく言った。その言葉に、真奈美の頬が少し赤くなったように見えた。
俺たちが食堂に移動すると、そこには広いテーブルがあって、昼食と呼ぶにはいささか豪華すぎるメニューが並んでいた。テーブルには白いクロスが敷かれ、銀の食器が並んでいる。窓からは庭園の眺めが広がり、まるでホテルのレストランのような雰囲気だった。
「こ、これは!?」
既に視覚と嗅覚だけで胃袋を掴まれてしまった健太。彼の目は皿の上を次々と移動し、何を食べようか迷っている様子だった。
「マナミンいつもこんなの食べてるの!?」
美玖が驚きの声を上げた。彼女の目は輝いていて、まるで宝石を見るかのように料理を見つめていた。
「いえ、今日は初めてお友達が来るということで、料理番の方がいつも以上に頑張ってしまって」
真奈美が少し恥ずかしそうに言った。彼女の声には、友達を招いた喜びと、少しだけの緊張が混じっていた。
「それでこんなに豪華になたのか」
俺が言うと、真奈美は小さく頷いた。
「さて、突っ立っててもしょうがない、座ろうぜ」
春樹の一声で皆が席に着く。テーブルを囲んだ友人たちの顔には、期待と喜びが溢れていた。
「それじゃ、いただきますっ!」
全員で声を合わせ、食事が始まった。
……堀北家の昼食は、控えめに言って最高でした。
フランス料理をベースにした繊細な味付けの料理の数々。前菜のサーモンのカルパッチョから始まり、メインディッシュの柔らかな牛フィレ肉のステーキ、デザートのクレームブリュレまで、どれも絶品だった。
とてもランチとは思えないメニューだった。
食事の間、会話が弾んだ。健太は料理の感想を熱く語り、香苗は真奈美に料理のレシピを聞いていた。春樹は静かに食事を楽しみつつ、時折感想を述べる。美玖は料理を楽しみながら、俺の反応をうかがっているようだった。
食事が終わると、皆満足げな表情を浮かべていた。
「ごちそうさま。本当に美味しかったよ、真奈美」
俺が言うと、真奈美は嬉しそうに微笑んだ。
「お口に合って良かったわ。さ、少し休憩したら、また勉強を始めましょう」
昼食の後は、二回ほど休憩を挟み、講師と生徒をシャッフルしながら夕方まで勉強をつづけた。
午後の部では、午前中に学んだことを復習しつつ、より難しい問題にも挑戦した。皆、午前中よりも理解が深まっている様子で、質問も的確になっていった。
こうして俺たちは、一日目の勉強会を終えたのだった。
「真奈美ー、今日は本当にありがとね!」
「私も、これならいい結果を残せそうだよー!」
香苗と美結は、もともと悪くない分、かなりの自信につながったようだ。二人の目には、明日への期待が輝いていた。
「私も、教えながら結構自分の勉強になったよ~」
講師の美玖も教えるのが上手かった。彼女の顔には達成感が溢れていた。
「俺は帰ってから暗記をやらないとな」
とは春樹。
自分の得意不得意がはっきりしてよかったのだとか。彼の表情には、これからの勉強への決意が見えた。
「俺も帰ってから他の教科をやるわ」
と健太。
俺が、今日一番伸びたと思ったのは健太だ。
もともとこの超高難易度の私立に入っているんだ。地頭が悪いはずがないのだ。彼の目には、新たな自信が宿っていた。
その後、春樹は香苗を送って、健太は美結を送って行った。それぞれのペアが別れを告げる様子を見ていると、何となく微笑ましい気持ちになった。
「それじゃ、俺達も帰ろうか」
俺が美玖に声をかけた。
「うん」
自然な流れで手を繋いで美玖を送っていく。夕暮れの街を歩きながら、今日の勉強会の出来事を振り返る。街灯が次々と灯り始め、二人の長い影が歩道に伸びていく。
「ねえ、ヒロっち」
美玖が俺の手を少し強く握った。
「なんだ?」
「今日の勉強会、楽しかったね。みんなの成長が見られて、教える側としても嬉しかったよ」
美玖の声には心からの喜びが溢れていた。俺は彼女の横顔を見つめ、その輝く瞳に見とれてしまう。
「ああ、そうだな。特に健太の伸びが凄かったよ。あいつ、やる気になれば結構できるんだな」
「うん! それに、真奈美のお家ってすごかったね。あんな豪邸に住んでるなんて……」
美玖の声には少し羨ましさが混じっていた。俺は軽く咳払いをして、話題を変えることにした。
「そうだな。でも、家の大きさより、中身が大事だと思うぜ」
「えっ?」
「真奈美のご両親は、ああいう家に住んでいても、真奈美をちゃんと育ててるってことだろ? 俺たちみたいな友達と勉強会をさせてくれるし。普通、あんな家に住んでたら、もっと調子に乗って偉そうな子供になってそうだからな」
美玖は少し考え込むように黙った後、にっこりと笑った。
「そうだね。ヒロっち、たまにはいいこと言うじゃん」
「たまにはって何だよ」
俺たちは笑い合いながら、美玖のアパートに到着した。
アパートの前につくと、美玖が振り返って首に手を回してくる。
キスだと思った俺は、
「だ、ダメだぞ、前回は特別だったんだからな」
と言って、彼女の頭を押さえる。心臓が激しく鼓動を打つのを感じる。
「ケチ。ちょっとくらいいいじゃん」
美玖は頬をぷーっと膨らませて言った。その仕草が可愛くて、俺は思わず目を逸らしてしまう。
「……ちょっとじゃ止まらなくなっちまうだろ………」
目を逸らして言った俺の小さなつぶやきは、彼女に聞こえていたようで。
「あれー!? もしかして意外と効いてる!?
にしし……ヒロっち、覚悟しなさい!
あたし、攻め続けるから!」
美玖の目が怪しく輝いた。
いつか落とされてしまうんじゃないか、そんな懸念が俺の中に広がっていく。
それと同時に、落とされてしまっても幸せなんじゃないかと思う自分に気づき、驚いた。
「じゃあ、また明日ね」
美玖が軽くウインクをして、アパートの中に消えていった。俺は深いため息をつきながら、家路につく。
夜の街を歩きながら、俺は今日の出来事を振り返っていた。勉強会での皆の頑張り、真奈美の家での豪華な昼食、そして美玖との甘酸っぱいやり取り。全てが鮮明に脳裏に焼き付いている。
そして、ふと思い出した。明日は勉強会2日目だ。今日の成果を活かして、もっと効果的な指導ができるはずだ。そう考えると、少し緊張しながらも期待に胸が膨らんだ。
「明日は何を教えるかな」
そう呟きながら、俺はベッドに横たわった。
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勉強会2日目の午後。
昼食後の眠気と戦いながら、みんなは真剣に問題に取り組んでいた。窓の外では夏の日差しが眩しく、時折そよ風が木々を揺らす。
そんな中、突然、会議室のドアがノックされた。
「はい?」
真奈美が応じると、ドアがゆっくりと開いた。
そこに現れたのは、凛々しい風貌の中年男性。スーツ姿で、物腰の柔らかな紳士だ。
「お父様?」
真奈美が驚いた様子で立ち上がる。彼女の声には、少し緊張が混じっていた。
「ああ、娘の友人たちに挨拶しておこうと思ってね」
部屋の空気が一瞬で緊張に包まれた。真奈美の父、そして株式会社ディグノース、代表取締役社長の堀北征十郎だ。
「「「お邪魔しています」」」
みんなで声を揃えて挨拶をする。
征十郎の目が部屋を巡り、最後に俺に向けられた。その鋭い眼差しに、俺は思わず背筋を伸ばした。
「君が西森宏樹君かな? いつも娘が世話になっているようだね」
「はい、西森です。お世話になっております」
俺は慌てて立ち上がり、丁寧に挨拶した。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「たまにしか娘とは話せないんだが、その時は必ず君の話題になるよ」
「ちょっと、お父様!?」
真奈美の顔が赤くなる。征十郎は穏やかな笑みを浮かべると、俺に向かって言った。
「少し話をしようか。ここでは皆の邪魔になる。廊下でいいかな」
「はい」
なぜ俺が、と俺は戸惑いながらも、征十郎の後に続いて廊下に出た。
廊下の窓からは、手入れの行き届いた庭園が見える。征十郎は窓の外を眺めながら口を開いた。
「西森君。真奈美とはどういう関係かね?」
突然の質問に、俺は一瞬言葉に詰まる。しかし、すぐに冷静さを取り戻した。
「え? あ、はい。クラスメイトで、友人です。それから、生徒会では副会長として、私を支えてくれています」
「ほう。娘の話では、君はとても頭が良くて、信頼できる人物だそうだ」
「そんな、大したことは…」
征十郎は微笑んだ。その表情には、何か深い意味がありそうだった。
「謙遜する必要はないよ。真奈美は滅多に人を褒めない子でね」
少し間を置いて、征十郎は続けた。
「君の将来の夢は何かね?」
俺は悩んだ。
人生をやり直している今、サラリーマンや誰かの下について働く人生など無い。
しかし、やりたい事か……
「未だ、漠然とはしているのですが、会社の経営者になりたいと思っています」
「ほう、経営者か。何か特別な理由があるのかな?」
俺は少し考えてから答えた。
「会社や色々な組織の中で、歯車のように構成要素として役割を全うするより、そういったものを作り、自分のやりたいようなシステムを作り上げたい、そう思ったんです。本当にまだ具体的なことなど何もないのですが……」
征十郎は感心したように頷いた。その目には、何か期待のようなものが浮かんでいるように見えた。
「素晴らしい志だ。そのために今から準備しているのかな?」
「はい。学校での勉強以外にも、経営学の本を読んだり、株式投資の勉強もしています。……実は父と一緒にすでに実践的な投資もしているんです」
「その年で株式投資? 面白い。どんな銘柄に興味がある?」
話が盛り上がってきたところで、真奈美が廊下に顔を出した。彼女の表情には、少し心配そうな色が浮かんでいる。
「もう、お父様。いつまで話してるのよ。宏樹、みんなが待ってるわ」
「おっと、そうだったな」
征十郎が笑う。その笑顔には、少し残念そうな色が混じっているように見えた。
「最後に一つだけ。君は我が社ディグノースを知っているかね?」
俺は少し躊躇したが、正直に答えることにした。
「はい。実は、一応株主なんです」
征十郎の目が大きく見開かれた。その表情には、驚きと興味が入り混じっている。
「ほう! それは意外だ。うちの会社をどう思っている? 正直に言ってみたまえ。君のような若者にはどのように見えているのか」
その瞬間、俺は決意した。正直に自分の考えを伝えようと。たとえそれが、不快な真実だとしても。
「今から申し上げることは失礼にあたると思うのですが、あえて言わせて頂きます……最近の経営には少し疑問を感じていまして。株式を手放すことも考えています」
征十郎の表情が一変した。その目に、怒りの炎が灯る。
「何だと? どういうことだ?」
真奈美が心配そうな顔で俺を見ている。しかし、もう引き返せない。俺は深呼吸をして、言葉を続けた。
「決算書を拝見しました。うまく説明できないのですが、違和感を感じていて……場合によっては不正会計の可能性もある、そう思っています」
征十郎の顔が怒りで真っ赤になった。その目には、激しい怒りと、何か別の感情...恐れ、だろうか...が混じっている。
「何!? 不正会計だと!? 証拠もなしにそんな発言をするとは何事か!」
「お父様!」
真奈美が必死に止めようとするが、征十郎は聞く耳を持たない。彼の怒りは、まるで嵐のように激しさを増していく。
「黙りなさい!」
征十郎は真奈美にも怒りをぶつける。真奈美は驚いて一歩後ずさり、悲しそうな目で父親を見つめている。
「お前ももう、こんな無礼な小僧と付き合うんじゃない!」
そして俺に向かって言い放った。その声には、怒りと共に、何か焦りのようなものも感じられた。
「即刻、この屋敷から出て行きたまえ!」
俺は言葉も出ず、ただ頭を下げるしかなかった。
「申し訳ありませんでした。失礼します」
そう言って、俺は踵を返した。
背後で真奈美が「宏樹!」と呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。
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