第28話 幸せの上書き
カラオケボックスはすぐに見つかった。駅前の雑踏を抜けると、ネオンサインが輝く5階建ての建物が目に入る。
「2時間くらいでいいか?」
俺は入り口で申し込み用紙を書きながら言った。
「えー!?
もっとゆっくりしたいよぉ……」
美玖は少し残念そうな表情を浮かべる。その大きな瞳が物欲しげに俺を見上げてくる。
「俺は構わないんだが、美玖、宿題は終わってるのか?」
「はっ!?
ぐぬぬ……2時間でお願いします」
「ぐぬぬって……
宿題、けっこう多かったぞ。分からない所があったら電話よこせ。これウチの番号」
小さなメモ用紙に自宅の電話番号を書き、美玖に渡す。
俺たちはまだ携帯電話は持たされていない。この時代、中学生が携帯を持つのはまだ珍しかった。
「わかった。ありがと」
美玖は嬉しそうに紙を受け取ると、大切そうにカバンにしまった。
そうして二時間とワンドリンクの注文をすると、二人で小さな部屋に案内された。扉を開けると、薄暗い空間に蛍光灯とモニターの光が浮かび上がる。
「ふふ、二人っきりだね」
美玖が微笑みながら言う。頬が少し赤くなっているのが、薄暗い中でもわかった。
「まあ、二人できたからな」
俺は素っ気なく返す。
「あー、ムード! そういうところだよ!?」
美玖は俺の腕を軽く叩きながら抗議する。
「なんだよそれ」
そう言うと俺はすっと立ち上がり、美玖の隣に腰を下ろす。ソファーが軋む音が響く。
そして肩を抱き寄せ瞳を見つめて言う。
「そうだね、やっと二人きりになれた」
低く囁くような声で言った。
言った途端に顔を真っ赤にする美玖。
おーい。冗談だぞー。
と言いたくなったが、美玖の反応を見ていると、なんだか胸がドキドキしてきた。
「さて、せっかくカラオケに来たんだから歌おうぜ!」
雰囲気を変えようと、俺は明るく声を上げた。
曲のリストが書かれた本を手に取ると、俺は十八番の曲を探していく。
そう、この当時はリモコンだけで曲を選べる機種も出ていたが、普及は完全ではなく、本で曲の番号を探すところがまだまだあったのだ。ページをめくる音だけが静かな部屋に響く。
そして、本を眺めながら冷や汗が噴き出す。
歌手名が…無い…だと……!?
あの曲、まだ出てないじゃん!!
そう、俺が得意としている曲のアーティストは、この時代、まだデビューすらしていないのだった。
変な顔をして冷や汗を流している俺の姿を見て、美玖が「あ、私先に入れて良い?」と言ってくれたのでリモコンを渡す。
どうしよう。
陰キャだった時代の曲なんて殆ど知らない。
だって音楽なんて微塵も興味が無かったんだもの。
俺が初めてカラオケに行ったのは大学時代。
それで由紀奈と話すようになり、由紀奈の好きな曲やアーティストを調べて歌うようになったのだ。
そうこうしているうちに美玖の曲が始まった。
イントロのギターの音が部屋中に響き渡る。
普通に上手いな。
手拍子をしていると、間奏中に美玖が言った。
「ほらヒロっち、早く曲入れて!
にしし、実は歌が苦手だったり~?」
挑発してくる美玖にキッと視線を送ると、適当にパラパラと本をめくっていく。
ふと特集を見ると、知っている曲を見つけた。ミネソタ☆シルドレーンというグループで、通称ミソシルと呼ばれている男性グループの曲だ。
曲を入力すると画面に曲名が表示される。
「お、ミソシル! 私その曲好きだよ!」
と美玖が言った。その目が期待に輝いている。
美玖が歌い終わり、俺は拍手をする。パチパチという音が狭い部屋に響く。
「美玖、上手いじゃん!」
「ありがと。あんま高音は得意じゃないんだけどねー」
「十分出てたよ!」
前奏が始まり、俺の番になる。
「はい、マイク」
美玖がマイクを差し出す。
「サンキュ」
俺が歌うのはミソシルの『美の銭湯ワールド』という曲だ。曲のタイトルは意味不明だが、アップテンポでノリの良い感じなので、カラオケの初めの方に歌うには良いと思ったんだ。
歌い始めると、美玖の動きが止まる。
なぜかポカーンとした顔になっている。
サビに入るとキラキラした目でこちらを見てくるようになった。
そして、一曲歌い上げる。最後の音が消えると、一瞬の静寂が訪れた。
美玖は大きな拍手をしててくれた。パチパチという音が、先ほどより大きく響く。
「すんごい! すごいよヒロっち!!
めちゃウマじゃん!! ってかプロじゃん!?」
興奮した様子で、美玖が叫ぶように言った。
そうなのだ。
前の人生では別に上手くもなんともなかったのだが、今の俺は大人の世界でプロによる指導を受けており、こっちの世界でも中一からずっとボーカルトレーニングをしているのだ。
2年間+αの努力は伊達では無い。
「ヒロっちスゴすぎなんですけど……
勉強もできてスポーツ万能、優しくて料理もできて、さらに歌まで上手いって!
どうなってんのさ。
なにかできないことなんてあるの?」
美玖の目が驚きと尊敬の色に染まっている。
「そう言って貰えて光栄だけどさ、俺にはできることしかできないよ。きっと大人になったらできないことばっかりだよ」
照れくさくて、思わず目をそらしてしまう。
「これだけ凄くて調子に乗らないのもすごいよね」
「まだまだ世の中上には上がいるって知ってるからね。それに、努力しないとどうなっちゃうかも知ってるから」
「えー、ヒロっちのことだから、小さい時には神童なんて呼ばれてたんじゃない?」
「全然違うよ。俺が努力し始めたのは小学校5年生から。それまでの俺を言葉で表すなら、ヒョロガリ、陰キャ、ぼっち、いじめられっ子、そんな感じのダメ人間だったから。
ガッカリだろ?」
そう言うと美玖の目は強く輝いた。
「ううん、ますますすごいなって思った。だって、ヒロっちこんなにすごいから、小さいころから天才だと思ってた。きっと才能の塊なんだって。私たちとは最初から違うんだって」
あ、うん、才能は無いけどチートです……
無限に努力できる現代チートなんです……
「全然違ったんだね。努力で全部作ってきたんだ。それってスゴすぎだよ!」
「ありがとう。
そこまで言って貰えるとさすがに照れるな……」
頬が熱くなるのを感じる。
まあ、努力はしまくってきたので、全部が全部、嘘というわけではない。
「ってことは歌が上手いのも練習!?」
「そうだね。ブレストレーニングとボイストレーニングは毎日してる。ボーカルトレーニングの前に必須なんだ」
「それ、私にも教えてくれる?」
美玖の目が期待に輝いている。
「ああ、いいよ。
簡単なことから始めてみようか」
「やった! 私、もっと歌が上手くなりたかったんだ」
そんな話をしながら、数曲歌うと2時間はあっという間だった。
カラオケを出た俺たちは、手を繋いで駅まで歩く。
電車は途中から別方向だが、俺は家まで送っていくつもりだった。
美玖は遠慮していたが、昨日あんなことがあったばかりだ。心配なので送らせてくれと頼んだたら、渋々了解してくれた。
夕暮れの街を、二人の影が長く伸びていく。
美玖のアパートの前まで来た。街灯の淡い光が二人を照らしている。
「ヒロっち、今日はありがとう。
すっごく楽しかった。ってゆーか夢を見てるみたいだったよ」
頬を染め、上目遣いで俺の方を見てくる美玖。その瞳に街灯の光が映り込んでいる。
「俺も楽しかった。あ、そうだ、これ……」
ポケットから小さな袋を取り出して美玖に手渡す。紙袋の中で何かが静かに揺れる音がした。
「直感で良いなって思ってさ、つい買っちゃったんだ。初デート記念のプレゼント。貰ってくれるか?」
中からブレスレットを取り出して見せる。
「うわ、これも素敵……
ほんとに貰って良いの?」
美玖は驚いた表情で受け取る。その手が少し震えているのがわかった。
「気に入ってくれると嬉しいんだけど。それに、お揃いだからさ」
「え!? お、お揃い!?」
驚いた美玖の目から雫がこぼれる。街灯に照らされて、その涙がキラリと光っているように見えた。
「い、いやだった!?」
涙を見て慌てて聞く俺。
「ううん、逆だよ。超嬉しい」
美玖は袖で涙を拭いながら答えた。
「美玖……ごめん、また泣かせちゃって」
「これは嬉し涙だよ。今日一日でたくさん夢が叶っちゃった。昨日の不幸が、全部今日の幸せで上書きされちゃったよ。
……ヒロっち、大好き」
そう言うと美玖は、つま先立ちで唇を重ねてきた。
「ちゅっ」
軽い口付け。柔らかな感触と甘い香りが、一瞬だけ俺の感覚を支配した。
エヘヘとはにかんだ美玖。彼女の頬は真っ赤になっている。
「ねえヒロっち」
俺の首に手を回したまま美玖が言った。
その手が少し冷たくて、俺の首筋がゾクッとする。
「これでただの友達っていうの、さすがに無理じゃない? やっぱ付き合っちゃう?」
そう、俺もとっくに気がついていたのだ。
これは既にカップル、いやすでに、いわゆる『バカップル』であろうということに。
アパートの前という公衆の面前で抱き合ってキスをしているのがその証拠だ。
「あー、今日だけは特別……そう、今日だけ特別なんだからねッ!
いつもしてあげるわけじゃ無いんだからッ!」
思わず大きな声が出てしまい、近所迷惑になっていないか心配になる。
「ヒロっち……男のツンデレは需要ないよ?」
美玖はクスクスと笑いながら言った。その笑顔が、街灯の光で柔らかく輝いている。
「わかっとるわ!」
二人で笑ったあと、バイバイをして家に帰った。
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次の日は月曜日だったので、学校に行く前にいつものルーチンワークをこなす。軽いジョギング、筋トレ、そして冷水シャワーで目を覚ます。準備を済ませて学校へ向かう。
電車を降りて改札を通る。そこでは美玖が待っていた。
「おはよ」
美玖が明るい声で呼びかける。
「お、おはよう美玖。どうした?」
予想外の再会に、少し驚いた声が出る。
「ヒロっち、ここから来るかなーって思ってさ。ちょっと待ってみたらほんとに来た」
嬉しそうに美玖が言う。その表情に、昨日の余韻がまだ残っているように見えた。
約束もしてないのに、どれだけ待つつもりだったのだろうか。
「教室に行けば確実に会えるだろ」
冷静を装って言うが、内心では嬉しさが広がっている。
「学校まで一緒に行きたいなーって、突然思いついちゃったんだもん。しょーがないよ」
美玖は少し照れくさそうに髪をかきあげる。
「なんという行動力……
まあそれじゃ行こうか」
「うん!」
「……待っててくれてサンキュな」
小声でつぶやく。
「えへへ」
美玖の笑顔が、朝の光の中で輝いている。
俺たち二人はごくごく自然に手を繋いで歩き始めた。朝の空気が、二人の間でほんのり甘く感じられた。
たわいもない話をしていると、慶鳳中学校の校舎が見えてくる。レンガ造りの校舎が、朝日に照らされて温かみのある色を帯びていた。
「おしゃべりしてるとあっという間だったね」
美玖が少し名残惜しそうに言う。
「だな。やっぱ楽しい時間って過ぎるのが早いよな」
「ふふっ」
「どうした?」
「ヒロっちも楽しいと思ってくれてるんだって思ったら、嬉しくなっちゃったの」
美玖の頬が、ほんのり赤くなる。
「楽しくなけりゃ、一緒に行こうなんて言わねえよ」
素直な気持ちを伝えようと思い、少しぶっきらぼうに言ってしまう。
「そっか」
美玖の笑顔が、さらに明るくなる。
エントランスの下駄箱で上履きに履き替えると、二人で教室を目指した。廊下に響く足音が、妙に大きく感じられる。
教室に入ると、クラス皆の視線が俺たちに集中する。朝の教室特有の騒がしさが、一瞬で静まり返った。
ん? なんで見られてるんだ?
しばらく
ずっと手を繋いできちまったああああぁぁぁぁぁ!!
二人同時に気が付くとバッと手を離し、「それじゃまた後で」と、顔を赤くした美玖は自分の席に荷物を置き、先ほどから手招きをしている女子の所に行った。
そこでは数人の女子が集まって「きゃあぁぁぁ!」「どういうこと? どういうこと~!?」などと盛り上がっている。その騒ぎが教室中に広がっていく。
その姿を横目に、俺は席に荷物を置く。
すると、前の席から何かドス黒いオーラが垂れ流されている。真奈美だ。
真奈美は席から立ち上がり、無言のままゆらりと俺に近づくと、まるでホラー映画のように俺の耳を掴み、教室の外へと引っ張り出した。その表情には怒りと悲しみが入り混じっているように見えた。廊下に足音が響く。
そして俺は、朝からまた、人気の無い所に連れていかれたのである。
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