第26話 はじめて
「お邪魔します」
美玖の家に入ると、女性だけが住む家特有のいい香りがした。
これがフェロモンと呼ばれているものなのか、単にシャンプーなどの匂いなのかは分からないが。
美玖は俺を居間に案内すると、急いでシャワーを浴びに行った。待っていると、彼女の泣き声が聞こえてきた。俺は心臓が締め付けられる思いだった。
シャワーから出てきた美玖は、少し落ち着いた様子で隣に座った。
「ヒロっち……今日は本当にありがとね。あなたが来てくれなかったら……」
言葉を詰まらせる美玖を見て、俺は優しく頭を撫でた。
「もう大丈夫だ。安心して」
俺はそう言うと、俺の肩に頭を乗せてきた美玖を撫で続けた。
何分経ったのだろうか。
しばらくすると、彼女は、潤んだ瞳で俺を見てきた。
「ねぇ、私、キスされちゃったの」
「そ、そうか」
「初めてだったのに……嫌だって言ったのに……」
美玖の目に涙が溢れそうになっていた。
俺は彼女を優しく抱きしめた。
「大丈夫だから。そんなの、キスなんて呼ばないから」
美玖は俺の胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「うん………
ねぇ、ヒロっち……私の本当の初めてになって……」
彼女がゆっくりと俺の正面に来る。
丁度膝の上に乗る形だ。
「お願い。ヒロっちで上書きして?
そうじゃないと私……」
そう言って瞳を潤ませながら、顔を近づけてくる。
俺には彼女を突き放すことができなかった。
これで突き放したら、それこそ彼女のトラウマになってしまうかもしれない。
お互いにゆっくりと目を閉じる。
嫌な思い出なんて消えてしまえばいい。
その力に俺がなれるのなら。
そう思って唇を重ねた。
「ん……はぁ…………」
どれだけ唇を重ねていただろうか。
いったん呼吸のために唇を離した彼女は、とろける様な目でこちらを見ている。
そしてもう一度目を閉じると、また唇を重ねた。
自分でもなぜいきなりこんな事をしたのか分からないのだが、俺は舌をゆっくりと突き出し、彼女の唇をゆっくりとノックするように動かした。
彼女は少しびくっとなって驚いたが、やがて同じように舌を出してくる。
繋がり合った口腔内で二人の舌がゆっくりと絡まり合う。
唇を離した時、ツーっと唾液が糸のように伸びて消えていった。
彼女の目は完全にとろけていた。
「これがキス……なんだね」
「ああ」
「それじゃ、私がされたのはキスじゃなかった。
だから、私のファーストキスはヒロっちだよ……」
「ちゃんと上書き、出来たか?」
「うん」
彼女は先ほどまでとは違い、潤んだ瞳で自然に笑えていた。
「ねえ、ヒロっちも初めて……?」
「いや、俺は初めてじゃないよ」
言ってからしまったと思った。
彼女に対して、今は正直でいようと思ったのだが、俺がキスをしていたのは大人の世界での話だ。
中学三年生の時点ではキスはしていない。
「……いつ? 誰と?」
彼女は先ほどとは違ってムッとしたような顔をしている。
どうしようかと思っていたら、ふと思い出した。小さい頃の思い出を。
「ああ、幼馴染と、幼稚園の頃に」
「……ぷっ、それさすがにノーカン」
「そ、そうかな?」
「それから先は?」
「ないよ」
「そう。それじゃ、ヒロっちもファーストキスは私だね」
「そうなるのか?」
「そうだよ」
美玖は満足したようで、満面の笑みを浮かべている。
それから少しの間、俺と美玖は見つめ合っていた。
沈黙を破ったのはやはり美玖だった。
俺の手を掴むと、ゆっくりと自分の胸に押し当てる。
「お、おい」
「お願い。ここも触られちゃったの。
本当に気持ち悪くて。
だから、ここもヒロっちで上書き……して?」
上目遣いで見てくる美玖は本当に綺麗で。
この時、俺は美玖が中学生である事なんて完全に忘れていた。
他の子よりも発育の良い美玖の体、そして事件のこと、キスのこと、そういうのが続いて冷静に判断が出来ていなかったんだと思う。
「わかった」
俺がそういうと、美玖はゆっくりと上着を脱いだ。
月明かりに照らされた部屋に、衣擦れの音だけが聞こえる。
「……綺麗だ」
「もう、現場で見た……でしょ?」
「ああ。だけど……」
言葉は要らない。俺は───
◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢
朝になった。
美玖の母親はまだ帰っていないようだ。
結局、俺達は最後まではしなかった。胸を少し触っただけだ。
あの後、美玖は服を着て、彼女のベッドで一緒に寝た。
今も美玖が俺の腕にしがみついている。
頬をつつくと瑞々しい肌が俺の指に反発してくる。
しばらくそうしていると、美玖の目が開いた。
「おはよう」
「おはよ」
目が合うと二人とも顔が真っ赤になる。
だーーーー!
まてまてまて!
俺まで中学生になった気分になってどうする!
いや中学生なんだが!!
などと完全にテンパっていると、美玖は「ふふっ」と笑って昨日とは違って軽い口づけをしてきた。
「昨日は……ありがとね」
「ああ、無事でよかった」
「そういうことじゃないんだけどな」ぼそっと彼女がつぶやくと、少し寝癖のついた髪を整えるため、洗面所に向かった。
彼女が軽く身支度を整える間に、キッチンを借りて簡単な朝食を作る。
許可を得て冷蔵庫を開けさせてもらって作ったメニューはこれだ。
トースト、ベーコンエッグ、レタスと人参のサラダ、玉ねぎのスープだ。
テーブルにそれらを並べていると美玖が洗面所から戻ってきた。
「え?」
「ん?」
「ヒロっち、まさか料理もできるの?」
「あー、まあ少しはな」
「神?」
そうか、一般的な中学生男子は何もできないのか。
俺だって中学生の時はカップラーメンくらいしかできなかった記憶がある。
いや今まさに中学生なんだが……って、ややこしいな!
「そんな事より美玖。お母さんは帰ってきてないようだが。
いつもこんな感じなのか?」
「ああ、どうせまた男の人の所に行ってるのよ。いつもの事。お母さん、夜の仕事って言ったでしょ」
「そ、そうなのか……平気か?」
「私は平気。だってお父さんがいなくなって、お母さん一人で私を育ててくれたんだよ。もともとそんな仕事もして無かったのに、私が中学に入って一人で留守番できるようになってから。『お母さん頑張って稼いでくるから、ちゃんといい子にしててね』って。
軽蔑しちゃったかな。こんな家の娘で」
「するわけないだろ。お母さん、頑張ってるんだな。たった一人で娘を育てて」
大人を実際にやっていた俺だから分かる。
女性が一人で子供を育てるなんて、並大抵の努力ではない。
俺だって一人で亜里沙を中学生まで育てるなんて、どう考えても無理だと思った。
「うん。凄いお母さんだよ。
やっぱり、ちゃんと生活するためにはたくさんのお金が必要なんだよ。私、本当は高校に行かないで働くつもりだったんだけど、『何も心配しないで、あんたは高校で好きなように青春してきなさい』って言ってさ。今やってる仕事はたくさん稼げる仕事なんだーって。実際にけっこう稼いでるんだよ。私を慶鳳に余裕で通わせられるくらいにさ。でも自分では贅沢しないで、私にばっかりお金使って。あんたは幸せになりなさいよっていつも言うの。
私は誇りに思ってるよ。誰に何を言われようと。」
「それ、結婚式の手紙のエピソードで読んでやれよ。仕事はちょっとボカしてさ。絶対に泣くぞ」
「ふふ、それいいね。ヒロっち、いつ結婚する?」
「ば、ばか、俺はしねぇよ」
「ええー! でもそっか、まずはお付き合いからか。
ねえ、ヒロっち。やっぱ私たち付き合おうよ」
「……俺は中学の間は誰とも付き合わねえよ」
「キスしたのに?」
「すまん」
「裸も見たのに?」
「マジですまん…」
「おっぱいも触ったのに?」
「それはもっとすまん……」
「私、お嫁に行けないよ?」
「返す言葉もございません……」
「ふふふ、ヒロっちは優しいもんね。私が壊れちゃいそうだったから、言うとおりにしてくれたんでしょ?」
「ああ……優しいかはわかんねえけどな」
「優しいよ、ヒロっちは。
うん。でも私もこんな同情でものにしたって納得いかないから」
「ものにするって……言い方………」
「真奈美ちゃんには負けない。
私、これからも攻め続けるから。
覚悟しといてよね」
「なんだそりゃ。
俺は獲物か」
美玖は思ったほど昨日の事を引きずっていないように見えた。
良かった。
「そう言えば今日って日曜日じゃん?」
「そうだな」
「どっか遊びに行かない?」
「ええー、俺は帰りたい。
あんま寝れてないし、着替えたいしシャワー浴びたい」
「まだ一人は怖いの……」
潤んだ瞳、上目遣いで見てくるが、これは明らかに昨日とは違う。
「あざといッ!
でもまあ、いいぜ。今日一日付き合ってやるよ。
その代わり一回家に帰らせてくれ」
「やった! それじゃ、私もヒロっちの家に付いてっていい?」
少し悩んだが、もし万が一待ち合わせ中にナンパでもされたら面倒だ。
美玖の精神的にもよくない。
今日くらいはずっと一緒にいた方が良いだろう。
「あー……そうだな。一緒に行こうか」
◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢◤◢
美玖が外出の準備をしている間、俺は仮眠をとった。
時間的には30分ほどだったが、『セーブ&ロード』を使って俺は熟睡した。
二人でアパートを出て、俺の家を目指す。
電車を乗り継ぎ、駅から15分ほどの距離に家はある。
二人は自然に手を繋いでいた。
なぜこんなにも自然に手を繋いでしまっていたのか。
小学生の時の真紀のような感じだったからだろうか。
美玖と手を繋いだまま、俺は家の門をくぐった。
「これがヒロっちの家かー」
美玖の声には好奇心が混ざっていた。
俺の家は、落ち着いた茶色の外壁に白い窓枠が映える二階建ての一軒家だ。玄関前には小さな花壇があり、母が大切に育てているパンジーやマリーゴールドが色とりどりに咲いている。
「うん、普通だけどね」
俺は少し照れくさそうに答えた。
「でもやっぱり一軒家だし、すごいよ」
美玖は感心したように家の外観を見上げていた。
玄関に向かって続く石畳の短いアプローチの脇には、手入れの行き届いた低木が並んでいる。右手には父が休日にくつろぐときによく使うウッドデッキがあり、そこにはガーデンテーブルとチェアが置かれている。父さんの数少ないこだわりだ。
玄関のドアを開けると、少し広い玄関となっていて、左手に玄関の割には大きな下駄箱がある。床は落ち着いたベージュ色のタイルで、清潔感がある。
「お邪魔します」
俺が靴を脱いで玄関を上がると、美玖はそれに続いて丁寧に挨拶をした。
玄関を上がるとすぐに階段があり、その奥にはリビングがある。玄関の右手の壁には母さんの趣味で家族写真がいくつか飾られており、俺たち家族の歴史を静かに物語っている。
階段は濃い茶色の木製で、手すりには艶のある塗装が施されている。二階へと続く階段には天窓があり、明るい日差しが差し込んでいる。
「家の中もきれいだね」
美玖は周囲を見回しながら言った。
その時、ちょうど妹のあかねが階段を降りてきたところだった。
「ただいま」
俺が声をかけると、あかねは驚きのあまり言葉を詰まらせた。
「!?!?!?!?!?
あばっ!
あばばばばばばばば!?」
俺は、人がこのような声を出すのを初めて聞いた。
「あかね?」
「お、おじゃまします」
美玖が丁寧に挨拶をする。
あかねはゆっくりとフリーズが溶けていくように、動きを取り戻していった。
「お」
「お?」
「おがあじゃあああああん!!
お兄ちゃんが朝帰りで彼女連れてきたああああああぁぁぁぁ!!」
その日、数軒先のご近所様に届くボリュームで、妹の叫び声が響き渡るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます