第18話 由紀奈を救え

「うん、容疑者、の、名前……お母さんの彼氏、だよ?」


 亜里沙の震える声が、静寂を破った。部屋のシーリングライトが彼女の青ざめた顔を不気味に照らしている。俺は急に目の前が真っ暗になったような気分になった。頭の中が真っ白になり、どう反応すべきか分からなくなる。

 リビングの空気が重く、息苦しくなる。テレビからは相変わらずニュースが流れ続けているが、もはや何を言っているのか聞こえない。ただ、アナウンサーの声が遠くからこだみ、不吉な余韻を残している。

 急いで由紀奈に連絡を試みるが、繋がらない。コール音が虚しく響くたびに、胸が締め付けられる思いがする。


「お父さん、警察に連絡した方がいいんじゃない?」


 亜里沙が小さな声で提案する。彼女の目には不安と恐怖が混ざっている。

 俺は深呼吸をして落ち着こうとし、警察に電話をかける。受話器を耳に当てながら、リビングの窓から外を見る。街を一望できるタワーマンションからの景色。だが、いつもの風景が広がっているのに、何もかもが違って見える。


「もしもし、警察ですか。本日夕方の殺人事件の件で……被害者の家族かもしれないのですが……」


 電話口の警官は冷静だが、同情的な口調で応対してくれる。詳細な身分確認を求められ、遺体の確認を依頼された。その言葉を聞いた瞬間、胃の中が裏返るような感覚に襲われる。


 警察署に向かう途中、街の喧騒が妙に静かに感じられた。車のエンジン音も、人々の話し声も、全てが遠くに聞こえる。頭の中では、由紀奈との思い出が走馬灯のように駆け巡る。




 警察署に到着し、遺体安置所へと案内される。扉を開ける瞬間、時間が止まったかのように感じた。

 そして、目の前に横たわる遺体を見て、現実を突きつけられる。


 由紀奈だ。顔や首にも刺し傷が残っているが、見間違えるはずが無い。仲違いし、離婚したとはいえ、かつて愛した女性の生気のない姿。胸が張り裂けそうな痛みと共に、怒りが込み上げてくる。

 話しかけてくる警察官を無視して、俺は心の中で『ロード』を選択した。

 元夫婦だ。今でも愛している、というわけではないが、一度は心の底から愛した女性だ。それに、亜里沙の母親でもある。


 絶対に救ってみせる。


「変なヤツにひっかかりやがって……」


 そうつぶやきながら、俺は由紀奈との会話をやり直すことを決意した。時間を巻き戻し、彼女を救う方法を見つけ出す。それが俺にできる最後の義務だと思った。



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 ロードした先で再びあのやりとりを繰り返した後、亜里沙をタクシーでマンションに帰らせると、俺は由紀奈について行った。


 夕暮れ時の街は、オレンジ色に染まっていた。人々は急ぎ足で家路を急ぎ、街灯が一つずつ灯り始める。

 おそらくあの男はストーカーのように彼女を付け回し、口論になったのか突然かは分からないが、人気の無い所で襲い掛かったのだろう。護衛が着いていればきっかけを潰し、大丈夫だと思ったのだ。


「由紀奈、大丈夫か?」


 と俺は声をかけた。

 由紀奈は少し驚いた表情を浮かべながら答えた。


「ええ...ありがとう。でも、なぜついてきてくれたの?」


「心配だったんだ。あのダイスケという男、危険かもしれない」


 由紀奈は深いため息をついた。


「そうね...私も少し怖いわ」


 案の定、家に着くまで何事もなく、由紀奈は無事に荷物をまとめる事ができた。アパートの部屋は、思い出の品々で溢れていた。写真立てには、幸せそうな家族の写真が飾られている。由紀奈はそれを見つめ、少し寂しそうな表情を浮かべた。

 大きなキャリーケースをもって、家を出てホテルに向かう。夜の街は、ネオンサインと車のヘッドライトで彩られていた。


「由紀奈、周りをよく見てくれ。誰かついてきてないか」


 と俺は注意を促した。


「ええ、分かったわ。今は……平気みたいね」


 由紀奈は少し緊張した様子で答えた。




 ホテルにも無事に到着した。後ろからつけてくる人やタクシーがいないか、細心の注意を心がけた。ロビーは高級感あふれる大理石で装飾され、シャンデリアが柔らかな光を放っている。

 ひとまずは安心だ。


「明日また連絡を取り合おう」


 と俺が言うと、由紀奈は少し安心したような表情で頷いた。


「ええ、ありがとう。本当に助かったわ」


 そして、一旦別れ、俺は家に帰った。

 マンションに戻ると、亜里沙が心配そうな顔で待っていた。


「ただいま」


「お帰り、お父さん。お母さん大変な事になっちゃったね」


 亜里沙の声には心配と安堵が混ざっていた。


「ああ、自業自得とは言え何とか力になってやりたい」


 俺は疲れた表情で答えた。

 亜里沙は少し躊躇いながら聞いた。


「これがきっかけでよりが戻ったり?」


 俺は少し考えてから答えた。


「……それは無いかな。由紀奈を助けたいのは、最後の義理を果たしたいって感じだからな。それに……お前にこんな事を言うのはどうかと思うんだが、どちらかと言えば好きよりも嫌いになっちゃってるからな。お互いに」


「そっか、そうだよね。だから離婚するんだもんね。でも、昔は大好きだったんでしょ?」


 亜里沙の目には複雑な感情が浮かんでいた。


「当たり前だ。だから結婚したんだし、お前も生まれた」


 俺は少し懐かしそうに答えた。


「なんだか悲しいね。きっと世界中の離婚した人たちも、最初はラブラブだったんだよね」


 亜里沙の声には少し寂しさが混じっていた。


「まあ恋愛結婚ならそうなんじゃないか? 世の中には結婚といっても色々あるから、全部が全部そうとは言えないと思うけどな」


「どうしてそんな風になっちゃうのかな……」


 亜里沙は窓の外を見つめながら呟いた。


「父さんと母さんはな、きっとコミュニケーションが決定的に不足していたんだ。きっと多くの離婚した人たちがそうなんじゃないのかな。ため込んでため込んで、自分が一番不幸だって思い込んで、そのうち相手に原因を求めて自分を守ろうとするんだ。そうなる前に、しっかりと話し合うべきだった。お前は今の彼氏とそんな風になるなよ。どんな些細な事でも、我慢せずにすぐ話し合え」


「うん、気を付けてみるよ」


 亜里沙は真剩な表情で頷いた。

 そんな話をして、いつものように寝て、朝を迎えた。



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 日曜日の朝、陽光が窓から差し込み、部屋を明るく照らしていた。珍しく亜里沙が早起きしていて、キッチンで何かを準備している音が聞こえる。

 リビングに入ると、亜里沙が明るい笑顔で迎えてくれた。


「あ、お父さんおはよう! コーヒー淹れてみたよ!」


 キッチンカウンターには、湯気の立つコーヒーカップが置かれていた。その香りが部屋中に広がり、心地よい朝の雰囲気を醸し出している。

 俺はカップを手に取り、一口味わうように飲んだ。


「お、ありがとう! 娘に入れてもらう朝のコーヒーは格別だなぁ~」


「ふふ、機械なんだから味は変わらないでしょ。でもそっか、お父さん、一人で毎朝早かったもんね」亜里沙は少し申し訳なさそうに言った。


「お前も、お前の彼氏も、絶対にあんな会社で働くんじゃないぞ」


 俺は真剣な表情で言った。


「はーい、気を付けまーす。朝食はシリアルでいい?」


 亜里沙はキッチンの棚を指さした。


「ああ、さて、ニュースでも見るか」


 テレビのリモコンを手に取り、電源を入れる。朝のニュース番組が始まったところだった。


 プッ


『昨夜未明、東京都〇△区のホテルXXで、宿泊客の女性が、部屋の入口で刃物のような物で刺され、死亡しているのが見つかりました』


 アナウンサーの冷静な声が、突然部屋の空気を凍らせた。


「「え?」」


 俺と亜里沙は同時に声を上げた。亜里沙の手から、シリアルを入れようとしていたボウルが落ち、床に大きな音を立てた。


「これってお母さんの泊まってるホテルじゃない!?」


 亜里沙の声は震えていた。


『被害者の女性は西森由紀奈さん38歳で、警察は防犯カメラの映像などから犯人を追って……』


 テレビからの声が、まるで遠くから聞こえてくるように感じられた。世界の音が遠くなる。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなる。


 何故だ?何故場所がバレた?


 由紀奈が連絡をとった?


 いや、連絡をとるはずがない。ホテルから出た?いや、出るわけがない。出る必要もない。


 すかさずロードしようとして、すぐに思い直す。警察から情報収集をしよう。

 リビングの空気が重く、息苦しくなる。亜里沙は泣き崩れ、俺は呆然と立ち尽くしていた。窓の外では、いつもと変わらない日曜の朝の風景が広がっているのに、世界が一変したように感じられた。




 それから警察と連絡をとり、由紀奈の遺体を確認して話を聞く。警察署は緊張感に包まれ、刑事たちが忙しく行き来している。遺体安置室は冷たく、無機質な雰囲気が漂っていた。


 警察の話をまとめるとこうだ。


 逃走中の容疑者、加藤大輔は、ホテルの裏口から侵入。堂々とスタッフの制服を盗んで着替え、ルームサービスを持っていく担当と入れ替わり、由紀奈がドアを開けた途端に滅多刺しにしたらしい。


「どのようにして宿泊場所を特定したのでしょうか?」


 俺は刑事に尋ねた。

 刑事は眉をひそめ、「それが分かれば……現在調査中です」と答えた。


 しかしどうにも不可解だ。何故宿泊場所が分かった?


 宿泊場所を突き止めたとして、由紀奈がたまたまルームサービスを頼み、それを持っていく担当とたまたま入れ替われるものなのか?


 警察署を出ると、曇り空が広がっていた。重苦しい雰囲気が街全体を覆っているように感じられる。

 何かがおかしい。遺体や荷物には触れないようなので、これ以上は考えても無駄と思って、俺は再びロードした。



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 ロードした先で、再び由紀奈に着いて行って荷物をまとめさせると、俺はある提案をした。夕暮れ時のアパートの廊下で、由紀奈の不安そうな顔を見つめながら言った。


「なあ、由紀奈。いやだったら断ってくれてもいいんだが、安全のため、俺の家に来ないか?色々あってタワーマンションの最上階に住んでいてな。コンシェルジュもいるし、エレベーターも専用キーが必要だし、セキュリティは申し分ない」


 由紀奈は少し驚いた表情を浮かべ、しばらく考え込んだ。


「そうね、ホテルもそこそこ安心だとは思うけど……もしよかったら泊めてくれる?」


「ああ、予備の布団が無いから亜里沙と一緒に寝てもらう事になるが」


 由紀奈は少し照れくさそうに微笑んだ。


「そうね、あなたと一緒でもいいのだけれど……」


「それは勘弁してくれ」


 俺は即座に返した。


「冗談よ……そうね、とりあえずお邪魔させてもらうわ」


 そうして俺たちは、周囲に気を付けながらタクシーに乗り込むと、自宅マンションへと帰った。街灯が次々と灯り始め、夜の街が活気づき始めていた。


 マンションのエントランスは広々としており、高級感漂う大理石の床が足音を吸収していく。コンシェルジュが丁寧に挨拶をし、エレベーターまで案内してくれた。


「ただいま」


 俺が玄関で声をかけると、リビングから亜里沙の声が聞こえてきた。


「お帰り、お父さん!って、お母さんもいるの!?」


 亜里沙は驚いた表情で由紀奈を見つめている。リビングの大きな窓からは、夜景が一望でき、東京の街が宝石箱のように輝いていた。


「ええ、安全だからってお父さんが勧めてくれて。それにしても凄い所ね、ここ」


 由紀奈は部屋を見回しながら感嘆の声を上げた。高級家具が並ぶ広々としたリビング、最新のキッチン設備、そして息をのむような夜景。


「ね、凄いでしょ!?」


 何故かふんぞり返る亜里沙。彼女の顔には少し誇らしげな表情が浮かんでいる。


「亜里沙が得意になってどうするのよ。でも本当に何があったの?」


 由紀奈は俺に向かって尋ねた。その目には好奇心と、少しばかりの羨望が混ざっているように見えた。


「説明は難しいんだが、働いていた知識やコネを総動員して、仮想通貨で馬鹿みたいに稼ぐことが出来たんだよ」


 嘘だけどな、と心の中でつぶやく。


「詐欺とかじゃないでしょうね!?」


 由紀奈の声には疑いの色が濃かった。


「そんなんじゃないぞ!?ちゃんと全部合法だ」


 ただし、この世のことわりからは外れているんだけどな、と再び心の中で付け加えた。


「はぁ……あなたをずっと信じて良い妻でいられたなら、私もここに住んで幸せになれていたのかしら」


 由紀奈のため息交じりの言葉に、部屋の空気が一瞬重くなった。


「お母さん……」


 亜里沙が心配そうに由紀奈を見つめる。


「冗談よ。その資格がないこと位わかってる。ここに入れてもらえたのだって、宏樹さんの気まぐれみたいなものだと思うもの。きっと、変なストーカーが居なければ、ここには来れてない」


 由紀奈は自嘲気味に笑った。その表情には、複雑な感情が浮かんでいた。


「……まあ、そうだな。正直やり直す気は無い。その話は終わっているからな」


 俺は窓の外を見つめながら言った。夜景が美しく輝いているが、その光景が今は少し虚しく感じられた。


「ええ、私も長居するつもりはないわ」


 由紀奈の声には諦めと決意が混ざっていた。


「とりあえず一週間くらい様子をみよう。俺の顔はバレていないんだろ?俺はいま無職だし、家の周囲で張り込んでそいつがこないか見張ってみるよ」


「ええ、お願いしようかしら。でも気を付けてね?」


 由紀奈の目には心配の色が浮かんでいた。


「ああ、大丈夫だ」


 俺は頷いた。窓の外では、東京の夜景が相変わらず美しく輝いている。しかし、その光の海の中に潜む闇を、俺たちは感じずにはいられなかった。



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 次の日、張り込みに必要なものを鞄に詰め込んで、マンションを出る。朝の澄んだ空気が頬を撫でる。


 張り込むには車が必要だよな。真っ赤なフェ〇ーリではダメだ。目立つなんてもんじゃない。まずはレンタカーショップを目指すことにした。当たり障りのないプリ〇スあたりが目立たなくて良いだろうか。

 そんな事を考えながらマンションの外に出たところで、小汚い恰好をした男が、俺の先を歩いていた女性に話しかけていた。朝の清々しい空気とは不釣り合いな、不穏な雰囲気を漂わせている。


 若くはない。40代くらいだろうか。髪はぼさぼさ、無精ひげは伸び放題。そして極めつけのダサいサングラス……まるで不審者のお手本のような出で立ちだ。


「ったくナンパするならもう少し綺麗な格好をして来いよな……」


 俺は呟きながら、その男を横目で見た。やはり成功しなかったようだ。女性は不機嫌そうな顔でさらに早足になって行ってしまった。その姿が人混みに消えていくのを見送る。

 しかし、俺の娘に声をかけるのは絶対にやめて欲しい。このマンションの女性を狙っているならコンシェルジュに相談すべきだな、などと思っていると、そいつの横を通り過ぎようとしたとき、なぜかそいつが話しかけてきた。


「ねえ、お兄さんこのマンションに住んでる人?」


 随分距離が近い。嫌悪感を感じる距離だ。男の息が顔にかかりそうなほどだ。朝の清々しい空気が一瞬にして濁ったように感じる。

 気持ち悪いな、そう思いながらも答えてしまった。


「そうですが、何か?」


「みぃつけた」


 そいつはにやりとした笑みを浮かべると、さらにすっと一歩近づいてきた。その目は狂気じみた輝きを放っている。


 その途端、腹部に激痛が走る。


「ってぇ!?」


 刺された!?突然刺したのか、こいつは!?

 痛みで視界が歪む。周りの景色が渦を巻いて見える。


「声で分かったよぉ!俺の亜里沙と由紀奈はどこだよぉ!?」


 男の叫び声が耳に響く。俺は突き倒され、そいつは俺に馬乗りになる。ザクザクっと何度も刃物を突き立てられる。アスファルトの冷たさが背中に伝わる。


 痛い……がそんな事を言っている場合じゃない。


 ヤバいヤバいヤバい!!


 意識が吹っ飛びそうな痛みの中、消えかける意識を何とかつなぎ止め、俺はロードを選択した。

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