第17話 家族のかたち

 そうして俺はとりあえず布団を購入した。

 ショッピングセンターを歩きながら、これから始まる新生活への期待と不安が入り混じる。買い物カートには、シンプルな無地の布団セットと、娘の好きそうな花柄の枕カバーが入っていた。


 正直娘の好みがわからないので、他に買い物があればまた買いに行けばいいだろう、と自分に言い聞かせる。まだ必要なものは山ほどありそうだが、今日のところはこれで十分だ。


 そして、夕食にデリバリーの寿司を発注した。

 案の定、助手席に布団を乗せたら他に人が乗るスペースは無かった。


 家に帰ると、娘の亜里沙が待っていた。廊下の照明に照らされた彼女の顔には、不安と期待が入り混じっていた。


「お帰り!」


 亜里沙の声には、少し緊張が混ざっていた。新しい環境への戸惑いが感じられる。その声は、いつもより少し高く、震えているように聞こえた。そして俺自身は『お帰り』という言葉をかみしめていた。

 お帰りと言ってもらえる生活って良いな。


「ただいま」


 と答えながら、買い物袋を床に置く。


「とりあえず布団を買ってきたぞ。今日はこれで寝られるな」


 亜里沙は小さく頷いた。

 俺は亜里沙の使う部屋にどさりと抱えた布団を置いた。


「でだ」


 俺は話を続けた。


「本当に暮らすことになれば色々と家具を買わなきゃならんのだが、由紀奈と連絡はついたのか?」


 由紀奈の名前を口にした瞬間、空気が重くなるのを感じた。亜里沙の表情が曇る。


「とりあえず既読はついたんだけど……」


 亜里沙の声がやや暗くなる。その声には失望が混ざっていた。


「はぁ…また問題か?」


 俺は眉をひそめる。


「うん」


 亜里沙は深いため息をつく。


「あー、例の気持ち悪い人、ダイスケって言うんだけどね。うーん……見た方が早いかも」


 そう言ってスマホを見せてくる亜里沙。画面に映し出されたLIMEのやり取りに、俺は目を凝らした。

 そこにはこう書かれていた。


-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


お母さん

『まさかダイスケさんがこんな人だったなんて……

 これじゃ怖くて暮らせないよね。

 ごめんなさい。

 ダイスケさんとは別れるわ。

 私もこんな気持ち悪い人は無理だもの。

 ところで、あの人の所に行くってどういう事?

 ちゃんと別れるから戻ってきてくれるよね?

 あの人の実家じゃ狭いから暮らせないよ?』


ありさ

『ごめん、気持ち悪いのはダイスケさんだけじゃなくて、三回も不倫してたお母さんもだよ……

 きっと三回だけじゃないんでしょ?

 それに、また他の男の人が来るかもしれないと思ったら帰りたくないです』


お母さん

『ごめんね……

 三回だけじゃないのはその通りだけど、それはあの人も悪かったのよ。大した稼ぎでもないのに家族をほったらかしにして……』


ありさ

『でも不倫して良い理由にはならないよね?

 あと、お父さん実家をでて、今はタワマン最上階で暮らしてるセレブだよ?

 部屋も空いてるから住んでいいって言ってくれた』


お母さん

『え?

 タワマン最上階?

 セレブ?

 何があったの?

 ちょっとお父さんと話がしたいな。

 亜里沙、会って話せないか聞いてみてくれない?』


-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


「こんな感じ。既読スルーしてある。

 ってかマジでお母さん何なの?

 お金の匂いがするからよりを戻したいっていう風にしか見えなくて、キモすぎるんですけど」


 亜里沙の声には怒りと失望が混ざっていた。その表情は、大人びた冷めた目つきになっていた。



 スマホを返しながら、俺は言葉を探す。


「なるほど……由紀奈も大変そうだな」


「お父さん、怒らないの?」


 亜里沙の声には驚きが混ざっていた。


「あまりお母さんを悪く言うな。俺が悪かったのは本当なんだから」


 俺の言葉に、亜里沙は首を傾げる。


「でもお父さん怒らないの?不倫も3回じゃなくてもっとしてるって言ってるし」


「終わったことだからな。今は申し訳ない気持ちしか残っていないさ」


 俺は肩をすくめる。この余裕も、おそらく金銭的な余裕ができたからなのだろう。


「そっかー。私は彼氏が浮気したら絶対許せないけどなー」


 亜里沙の声には、大人びた冷めた調子が混ざっていた。


「ちょっ!? おま、彼氏いるのか!?」


 突然の告白に、俺は思わず声を上げてしまった。父親としての驚きと、娘の成長を実感する複雑な気持ちが胸の中でぶつかり合う。


「あ、お父さん知らないのか。家じゃほとんど話さなかったもんね」


 亜里沙の表情が少し和らぐ。


「いるよ、彼氏。付き合ってもうすぐ一年になるんだ」


 亜里沙の目が少し輝いた。その表情は、初恋の甘さを思わせるものだった。俺は娘の幸せそうな顔を見て、胸が温かくなるのを感じた。


「そ、そうかー。お父さんも今度挨拶しないとな」


 言いながら、内心では娘の成長の速さに戸惑いを覚える。そして自責の念も。娘がこんなに大きくなっている間に、俺は一体何をしてきたのだろうか。


「もし、ここで暮らすつもりなら彼氏も呼んでパーティでもしようか」


「ホント? 良いの?一周年パーティ、ここでしちゃおうかな!?」


 亜里沙の声が弾んだ。その表情は、まるで子供のようにはしゃいでいた。


「サプライズはダメだぞ。親に挨拶って、心の準備がかなり必要だからな」


 俺は苦笑しながら言う。


「それに、場所が場所だけに彼氏にドン引きされるかもしれないぞ」


「そ、それもそうだね。うん、分かった。ちゃんと話すよ」


 亜里沙は少し恥ずかしそうに頷く。


「あと……お母さんどうしようか?」


 亜里沙の表情が再び曇った。その目には、複雑な感情が浮かんでいた。


「俺としては話す事は何もないんだけどな。一度会って話をしようか。亜里沙はどうする?」


「お父さんがそうするなら私も行くよ。ちゃんとお父さんと暮らしたいって言うから」


 亜里沙の声には決意が感じられた。


 それから約一週間後の土曜日に合う約束を取り付けた。一体何を話すというんだろうか。不安と期待が入り混じる中、新しい生活の第一歩を踏み出す準備が整った。



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 土曜日の午後三時、俺は亜里沙とファミレスに来ていた。店内には、コーヒーの香りと、軽い食事を楽しむ家族連れの話し声が漂っている。窓の外では、陽光が柔らかく街路樹を照らしていた。


 もうすぐ元妻の由紀奈が来るはずだが、なかなか現れない。時計を見るたびに、緊張が高まる。


 先にドリンクバーを頼んで時間を潰していると、ようやく由紀奈がやってきた。彼女の顔には疲れの色が濃く、目の下にはくまができていた。髪は少し乱れ、服装も普段よりも乱れているように見えた。


「ごめんなさい、遅れてしまって」


 由紀奈の声には、疲れと緊張が混ざっていた。


「大丈夫だ。時間に正確な由紀奈のことだし、何かトラブルでもあったんだろうと思っていたよ」


 俺は、できるだけ穏やかな口調で答えた。


「ええ、ちょっと家の玄関を出たところで待ち伏せされてしまって……」


 由紀奈の声が震えた。その目には恐怖の色が浮かんでいた。


「例のダイスケって奴か」


「そうなの。話は聞いてると思うけど……」


 由紀奈は俺の反応を窺うように言った。


「まあ大体は」


「お、怒らないのね……」


 由紀奈の声には驚きと安堵が混ざっていた。


「ん? 俺たちはもう夫婦じゃないしな。それに、予想もしていたし、原因は俺にあるのもわかってる。申し訳ない気持ちはあっても、責めたい気持ちはないよ」


 俺は淡々と答えた。


「……ただ、変態だというのは予想外だったが」


「ええ、それでさらに困ったことになっていて……」


 由紀奈の表情が暗くなる。その目には、深い恐怖と疲れが宿っていた。


「何があったんだ?」


 俺は身を乗り出して聞いた。


「亜里沙の動画を見せてもらった後、すぐにその動画を彼にも送って別れ話をしたのよ。そうしたら……」


 由紀奈の声が途切れる。


「別れたくないって?」


「ええ……それだけじゃなくて、ストーカー化しちゃったのよ」


 由紀奈の声は震えていた。


「真正のド変態だったか……マジで亜里沙に何か起きる前でよかったよ」


 俺は思わず呟いた。


「お母さん、私その話を聞いて、絶対に戻りたくないって思いが強くなったからね」


 亜里沙が割って入った。その声には決意が感じられた。


「ええ、今では私もそう思うわ。戻ってこないでちょうだい。本当に危ないから」


 由紀奈は亜里沙に向かって言った。


「今日なんて『俺から逃げられると思うなよ?』なんて言ってきたのよ」


 由紀奈の声が震える。その目には恐怖の色が濃くなっていた。


「宏樹…さん、亜里沙をお願いできるかしら」


 由紀奈は俺に向かって言った。その目には、懇願こんがんの色が浮かんでいた。


「もとよりそのつもりだ。安心しろ」


 俺は頷いた。


「というか由紀奈も安全を確保した方が良いな。お前、勤務先の会社はバレてるのか?」


「ええ……」


 由紀奈の声は小さくなった。


「会社に相談して一時的にでも転勤するか、転職も考えた方が良いかもな」


「そこはもう相談してあるのよ。大阪の支社に転勤させてもらう事が決まっているわ」


「そうか。対策が早いな」


 俺は少し安心した。


「ええ、最低限の荷物だけをもって、大阪に引っ越すつもりよ。それであなたには申し訳ないんだけど、亜里沙の事と、アパートの部屋の荷物の処分をお願いしたいと思って」


 由紀奈の声には、申し訳なさと不安が混ざっていた。


「わかった。引き受けよう」


「ありがとう。費用は後で払うから」


「大丈夫だ。今更で本当に申し訳ないんだが、お金の心配はしなくて良い。償いという訳ではないが、由紀奈も何かあったら頼ってくれていい」


「……ありがたい申し出だとは思うけど、あれだけの事をしてきたんだもの、甘えるわけにはいかないわ」


 由紀奈の声には、複雑な感情が混ざっていた。


「そうか。でも、何かあったら相談してくれ。元夫婦だ。遠慮するな。友達以上には相談に乗ってやれる」


「……ありがとう」


 由紀奈の目に、かすかに涙が光った。


「あ、それと、これは新しい連絡先。今のスマホは今月いっぱいで解約しちゃうから」


 由紀奈はメモを手渡した。その手が少し震えているのが分かった。


「それじゃ、明るいうちに荷物をまとめたいからそろそろ行くわね」


「ああ」


「それじゃ、また連絡するわ」


 そうして由紀奈は食事代をテーブルにおいて出て行った。その後ろ姿には、疲れと不安が滲んでいた。




 由紀奈が去った後、俺は複雑な思いに包まれた。怒りや恨みはもうない。ただ、家族を守れなかった自分への後悔と、これからどう娘と向き合っていくべきかという不安が入り混じっていた。

 亜里沙の方を見ると、彼女も似たような表情をしていた。親の離婚、母親との別れ、新しい生活……

 彼女の中でも様々な感情が渦巻いているのだろう。


「そっか、お母さん大阪に行っちゃうんだ」


 亜里沙の声には複雑な感情が込められていた。その目は遠くを見つめ、何かを考えているようだった。


「行きたくなったら、いつでも行って良いんだぞ」


 俺は優しく言った。娘の気持ちを尊重したいという思いと、できれば一緒にいてほしいという願いが胸の中で衝突する。


「うん……」


 亜里沙は小さく頷いた。その声は少し震えていた。


「寂しいか?」


 俺は慎重に尋ねた。


「ちょっと、ね」


 亜里沙の目に、かすかに涙が光った。その姿を見て、俺の胸が痛んだ。


 しばらくの沈黙が流れた。ファミレスの喧騒が遠くに聞こえる。俺は何か前向きな話題を見つけようと必死に考えた。


「こう考えたらどうだ?」


 俺は明るい声を装って言った。


「自由に使える拠点が東京と大阪にあるって」


「え?」


 亜里沙は少し驚いた表情で俺を見た。


「大阪のワールドスタジオジャパンにも、東京デスティニーランドに行くにも便利だぞ」


 俺は笑顔で言った。


「うわぁ、そっか! それってすごいね!」


 亜里沙の目が少し輝いた。その表情に、俺は少し安堵した。


「高校生になったら自由に行ってこい。欲しけりゃ年パスも買ってやるぞ」


 俺は調子に乗って言った。

 俺の言葉に、亜里沙の目が一瞬輝いたが、すぐに真剣な表情に戻った。その変化に、俺は少し戸惑いを覚えた。


「お父さんは金銭感覚に気を付けて」


 亜里沙は厳しい口調で言った。


「う……でもそれくらいは大丈夫な位あるから心配しなくても……」


 俺は少し狼狽えながら答えた。


「私がその金銭感覚に毒されちゃったら、まともにお付き合いも結婚もできなくなっちゃうでしょ!?」


 亜里沙の声には真剣さが滲んでいた。


「自分で稼げもしないくせに金銭感覚だけ狂った女なんて、地雷どころじゃないんだから」


 思った以上に娘はまともらしい。その姿に、少し誇らしさを感じる。同時に、自分の浅はかさを反省せざるを得なかった。俺は深く息を吐き、真剣な表情で亜里沙を見た。


「そうだな。亜里沙の言う通りだ。俺も気をつけないといけないな」


 俺は素直に認めた。

 亜里沙は少し照れたように目を逸らした。


「べ、別にお父さんのためじゃなくて、私のためなんだからね」


 俺の娘はツンデレだったらしい。


「分かってるよ」


 俺は微笑んだ。


「さあ、そろそろ帰ろうか。今日は俺が夕食を作ってみるよ」


「え?お父さん、料理できるの?」


 亜里沙は驚いた表情で俺を見た。


「まあ、昔は少しはね。これでも大学時代は一人暮らしだったんだぞ」


 俺は自信なさげに答えた。


「大学時代って、何年前の話よ……」


 亜里沙は不安そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変わった。


「ま、楽しみにしてるわ」




 そして、家に帰り夕食を作り始める。キッチンに立つのは久しぶりだ。包丁を持つ手が少し震える。スーパーの袋から買ってきた食材を取り出し、中身を確認する。幸い、調味料は揃っている。


 少し戸惑いながらも、なんとか肉じゃがを作り上げた。包丁を使う感覚が戻ってくるまでに時間がかかり、野菜の切り方が不揃いになってしまった。味付けも、記憶を頼りに適当に調整した。


 具材は茶色く煮込まれ、じゃがいもはかなり形が崩れている。これぞ『男の料理』といった感じの色だ。ただ、香りはちゃんと肉じゃがのものだ。俺は少し緊張しながら、できあがった料理を食卓に運んだ。


 テーブルに着いた亜里沙は、俺の料理を見て少し困ったような顔をしていた。その表情に、俺は少し落胆した。


「お父さん、やっぱり料理はあんまり得意じゃないんだね」


 亜里沙は遠慮がちに言った。


「ああ、まあな」


 俺は苦笑いしながら答えた。


「でも食べられないことはないはずだ」


「うん……がんばったんだね」


 亜里沙は優しく微笑んだ。そして遠慮がちに箸をつける。一口食べると、少し驚いたような表情を浮かべた。俺は息を詰めて、その反応を見守った。


「意外と……美味しい。ちょっと濃いめだけど」


 亜里沙は少し驚いた感じで言った。


「そうか?よかった」


 俺はほっとした表情で答えた。


 会話をしながら食事を進める。最初は戸惑っていた亜里沙だが、少しずつリラックスしていくのが分かる。俺も、娘と一緒に食事をする時間の大切さを実感した。この瞬間、新しい生活の始まりを実感した。


 食事を終えると、冷蔵庫からケーキを取り出した。


「うわぁ、絶対美味しい奴だ!」


 やはり女の子はスイーツが好きだ。

 二人でケーキを食べながら、何となくTVを付けニュースを見る。

 アナウンサーの声が静かな部屋に響く。


『速報です。今日の夕方、〇✖区の路上で女性が刺され、死亡するという事件が発生しました。警察は、容疑者を元交際相手の加藤大輔(43)と断定して指名手配をしており、現在も行方を追っています』


 ん? と思った程度だったが、娘を見ると顔が青ざめ震えている。ケーキを食べていた亜里沙の手からスプーンが落ち、金属音が静寂を破る。


「ま、まさか......」


 俺は思わず声を上げた。背筋に冷たいものが走る。


「うん、容疑者の、名前......お母さんの彼氏、だよ?」

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