第17話 かのじょさん

「ただいま」


 優は和紗を連れて、とりあえず帰宅をしていた。


「片付いてないですけど、上がってください」


 靴を脱ぎながらそう言うと、少し顔を強ばらせて緊張している和紗が「あ、うん」とぎこちなく頷く。

 廊下に上がって数歩進めば、パジャマ姿の菜乃果がリビングのから満面の笑みでひょっこりと顔を覗かせた。


「お兄ちゃん! おかえ――だ、だれ?」


 しかし、和紗を目にした途端にその表情を曇らせてしまう。

 前々から考えを変えてしまうのが嫌だったから、優は和紗がお出掛けに同伴することを菜乃果に伝えていなかった。


「兄ちゃんのお友達だよ。あっ、いや、お友達っていいのかは兄ちゃんも分からないんだけど……」


 慌てて訂正して振り返ると、和紗は少し照れ臭そうにはにかむ。


「お友達でいいよ。――初めまして、菜乃果ちゃん」


 菜乃果に視線を移した和紗は、しゃがんで目線を合わせると先ほどのはにかみとはまた違う柔らかな笑みを浮かべた。

 しかし菜乃果はまだ心を開いてくれないのか、表情を曇らせたまま優の影に隠れてしまう。


「……おねえちゃん、だれ?」

「私は雨野和紗。和紗お姉ちゃんって呼んでくれると嬉しいな」

「かずさおねえちゃん……」

「可愛い……」


 つい漏れ出てしまった言葉なのだろう。

 恍惚とした表情を浮かべながらそう呟いた和紗を見て、菜乃果は照れたように頬を染めながら優のズボンをきゅっと握った。


「って、そうじゃないよね……ねぇ、菜乃果ちゃん。私もお兄ちゃんと菜乃果ちゃんのお出掛けについて行ってもいいかな?」

「かずさおねえちゃんが?」

「うん」

「どうして?」

「ど、どうしてって……それは……」


 答えに困ったらしい和紗が、助けを求めるように優を見上げる。

 しかし優自身も菜乃果にそう聞かれたときの答えを考えていなかった。


「え、えっと……」


 慌てて思考を回転させていると、不意に菜乃果が声を上げる。


「かのじょさん?」

「「へっ?」」

「かずさおねえちゃんは、お兄ちゃんのかのじょさんだからいっしょにいきたいの?」

「ち、違うよ! 和紗お姉ちゃんは兄ちゃんの彼女じゃ――」

「佐伯くん」


 菜乃果の言葉に優が慌てて訂正を入れようとするも、和紗にそれを制される。

 和紗は戸惑う優に頷くと、再び菜乃果に視線を移してニコッと微笑んだ。


「そう、私はお兄ちゃんの彼女さんなの。だから菜乃果ちゃんたちのお出掛けに私も連れて行ってほしくて」

「そうなんだ」

「ダメ、かな?」


 菜乃果の反応が芳しくないせいか、不安げな表情を浮かべながらも笑顔は崩さずに問いかける和紗。

 それを受けた菜乃果は視線を下げて少しだけ黙り込むと、微かに微笑んでコクリと頷いた。


「いいよ。だって、かずさおねえちゃんはお兄ちゃんのたいせつな人なんだもんね?」

「それは、そうだけど……」


 確かに大切な人ではあるが、決して彼女という訳ではない。

 それにどうしてかは分からないが、和紗は他人に必要以上に干渉することを避けていた。

 和紗の事情を知っているせいで上手く肯定できず、優は言葉を濁してしまう。


 すると菜乃果はそんな優に向けて、ふわりと微笑んだ。


「お兄ちゃんのたいせつな人に、わるい人はいないもん」

「菜乃果……」


 目を見開く優。


 少しだけ、不安だった。

 母親から引き剥がされたことに、菜乃果は怒っているのではないのか。

 自分に見せてくれている笑顔も、本当は偽物ではないのか。


 度重なる菜乃果の心労に、優の心労も刻一刻と溜まっていた。

 その影響か、そんなあらぬ不安まで募っていた。


 でも菜乃果は今、こうして優を思っている。

 優を信頼しているのは事実で、純粋な笑顔を優に見せている。


 それだけでなんだか胸が熱くなり、優も菜乃果に安堵の笑みを返した。


「本当にいいのか?」

「うん。なのか、三人でおでかけいきたいっ」

「……分かった。じゃあさっそく準備しよう」

「うん!」


 菜乃果が元気よく頷いてリビングへと走っていく。

 それを見送った優は、和紗の方に振り向くと申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。


「ありがとうございます」

「菜乃果ちゃん、元気が出たみたいでよかった」

「もしかして、あれを見越して僕の彼女だなんて言ったんですか?」

「菜乃果ちゃんが佐伯くんのことを大切に思ってたら、私のことも信じてくれるかなって思ってね」

「……すみません」


 本当なら自分の彼女だ、なんてことは言いたくなかったはずなのに。

 また和紗の事情が頭をぎり咄嗟に謝るが、和紗は首を横に振った。


「ううん、別に嫌なわけじゃないから。それに、佐伯くんの彼女ではないけど……お友達、ではあるでしょ?」

「お友達……」

「こんな私じゃ務まらないかもしれないけど――」

「そんなことないです!」


 自身を卑下する和紗の言葉を、優が声を上げて遮る。

 和紗が好きな優にとって、どうして自分を卑下する必要があるのか全く分からなかった。


「……嬉しいです」


 心から嬉しく思い笑み崩れる優。

 それを目にしてぽうっと顔を赤くする和紗だったが、やがて口元にゆっくりと笑みを浮かべるとそれを優に向けるのだった。


「お兄ちゃん、準備しないの〜?」


 ふとリビングから聞こえてきた声にお互い目を見開いて視線を外す。


「あっ、うん! 今行く!」


 菜乃果に応答した優は「上がってください」と再度和紗を誘ってから菜乃果の元へ向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る