第13話 平穏……平穏?

 ――自室に戻ってきた和紗は、ベッドに身を投げ出してただひたすらに眉を寄せていた。


(佐伯くんと、出掛ける……)


 よくない妄想が頭の中に浮かび上がり、それを枕に押し付けることで発散させる。

 変な興奮で荒くなっている息を落ち着かせると、和紗は枕から顔を上げてまた自分を落ち着かせるために口を開いた。


「分かってるよ、大丈夫……」


 優は清掃ボランティアが終わった後に、久々に妹と出掛けると言っていた。

 和紗には、その荷物持ちをお願いしてきたのだ。


 優とその妹はこの街に越してきたばかりで、特に妹は環境変化による負担が大きい。

 だから少しでも気晴らしをするために、ショッピングでもしようかと優は話していた。


 だから、これは決してデートなんかではない。

 ただいつものラブコメ脳が暴走しているだけだ。


 そもそも和紗は優をそういった目で見たことはない。

 いい人だと思うことはあっても、恋愛対象として見ることはなかった。

 それに、向こうだって自分をそういう目で見ているわけではないだろう。

 ああいうタイプの人間は、変な下心ではなく純粋な気持ちで他人を気遣えるのだ。


 優があの子とそっくりな人間であるがゆえに、和紗はそう確信していた。


「……まぁ、だからこそ気を許したりしちゃいそうになるんだけど」


 口に出して恥ずかしくなり、また枕に顔を埋める和紗。

 顔にこもった熱を枕に移そうとぐりぐりと押し付ける。


 特定の男子に思いを馳せて一喜一憂する姿はまさしくラブコメ物のヒロイン。

 それを自覚してしまうからこそ、和紗は余計に興奮していた。


「……何もないといいけど」


 荒く息をつきながら、当日の平穏を密かに願う和紗なのだった。



          ◇



「――もういっちゃうの?」


 玄関で靴を履くと、後を追いかけてきた菜乃果が不安げな表情を見せた。

 優はそんな菜乃果を安心させるように優しく微笑む。


「お昼過ぎないうちに帰ってくるから、いい子でお留守番してて。兄ちゃんが帰ってきたら、約束通りお出かけに行こう」


 瞬間、菜乃果が顔をぱぁっと明るくする。


「うん! なのか、いい子でまってる!」

「よろしくね。じゃあ、行って来ます」

「いってらっしゃい、お兄ちゃん!」


 手を振る菜乃果に見送られて、優は微笑んだまま玄関の扉を閉め、鍵をかける。

 一人になったのを認識すると、顔から力を抜いて大きく息をついた。


「……やっぱり、間違いだったかな」


 菜乃果は優が進学する際に、母親の手から逃れるために連れてこられた。

 とはいえ優から見ても勉強以外は優しい母親だったため、菜乃果は常時母親にくっついているほどのママっ子だった。

 それがいきなり離れ離れにされたものだから、転校が重なったこともあってより神経質になっている。


 優が連れてこなければ菜乃果は仲のいい友達と離れることはなかったし、ああして不安を感じることもなかった。

 自分のしたことは無駄だったのだろうかと、急な不安に襲われる。


「……でも、俺がしっかりしないと」


 もう連れてきた事実は変わらない。

 だからそれから目を逸らさずに、菜乃果としっかり向き合っていかなければならないと、優はそう感じていた。


 そのためには、まず清掃ボランティアを早く終わらせないといけない。

 マンションを出ると、優は沈んだ気持ちを上向かせるために公園まで走っていくことにした。


 ――清掃ボランティアをすることになっている七星公園は、駅から徒歩五分のところにある大きな公園だ。

 木々が生い茂る静かな公園で、中央には公園の名前でもある北斗七星を模したオブジェがある。


 散策スポットとして人気があり、優は一度来てみたいと思っていた。

 線路を跨ぐプロムナードを出ると、駅前は休日の午前八時半にも拘わらずたくさんの人が行きかっている。


 流石、都会だと感心するが、田舎者の優にはやっぱり静寂が恋しくなり落ち着かせていた歩調を再び速めようとした。


……その時だった。


「すみません、急いでるので」

「いいじゃないの。君、青鸞の子だろう? 新学期始まって、いろいろ大変なんじゃない? よかったら相談のるよ?」


 最近聞き慣れた声と誰かが揉めている声が聞こえてくる。

 それが和紗だとすぐに分かった優は、目を凝らして声の元を辿った。


 すると前の方で和紗と中年の男が話し込んでいる姿が視界に入った。


「お気遣いありがとうございます。でも、本当に急いでるので……」

「ちょっと待ってよ。時間なかったら番号渡すからさ」

「や、やめて……」


 その場を去ろうとした和紗の細い手首が、中年の男に掴まれる。


(会長……!)


 危険を察知した優は急いで駆け寄ると、中年の男の腕を払いのけて間に割り込んだ。

 そのまま和紗を庇うように左腕を広げる。


「佐伯くん……」

「……なに?」


 腕を払われた男はこちらを睨みつけている。

 顔が赤らんでいるところを見るに、どうやら酒が回っているようだった。


 優も負けじと男を睨み返した。


「嫌がってます」

「人聞きの悪いことを言わないでくれるか? ただの親切だというのに」

「嫌がってるのは事実です」

「君には関係ないだろ」

「関係あります」

「じゃあなんだい、自分はその子の彼氏とでも言うつもりかい?」


 男としては揺さぶりをかけるつもりでそう言ったのだろう。

 しかし今の優にとって、その言葉は逆効果だった。


 優は和紗の手を取って、それを掲げる。


「そうです、彼氏ですよ。迷惑ですから、早くどこか行ってください」


 繋がれている手を見て、男は優を彼氏だと思い込んだらしい。

 舌打ちをすると「青鸞生が。大したことないくせにお高くとまりやがって」と捨て台詞を吐きながらどこかへ行ってしまった。


 危機が去って安堵の息をつくと、優は手を離す。


「すみません、急に手を取ってしま――先輩?」


 優が聞き返すと、和紗はビクッと体を震わせながら真っ赤な顔に両手をかざして弱々しく言うのだった。


「み、見ないで……」

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