完全牛乳

中原恵一

完全牛乳

 「完全牛乳」——ゲノム編集により動物性食品であるのに野菜としての性質も併せ持つこの薄緑色の牛乳は、栄養学的に完全にバランスがとれている、ということからその名前がつけられた。

 完全乳業の製造する「完全牛乳」はスーパーやコンビニ、学校給食などあらゆる場所で消費され、今やテレビをつけても、パソコンを見ても、街を歩いていても、どこにいてもその広告を目にする。実際、この国に住んでいる人のほとんどがこの牛乳を飲んでいるらしい。


 僕はそんな牛乳を製造する牛乳工場で働いている。

 僕の仕事は毎日朝から晩までパックに詰められる牛乳を計量して、重さが均一になっているか確認するだけだ。僕は頭がよくないので、他の仕事は一切やらせてもらえない。それでも働かないとお金がもらえないので、仕方なくやっている。

 僕には養うべき家族がいる。愛する妻と子供が一人だ。

 彼らもまた、毎日僕の工場で生産された「完全牛乳」を飲んでいる。

 しかし僕はこの牛乳工場に勤め始めてから、この牛乳が完全ではないことを知ってしまった。


 ●


 ある日の朝、いつものように牛乳工場に出勤すると、いつもは鍵が閉まっているラボの扉が開いていた。

 どうやら、研究員たちが社長と話しているようだ。何やら不穏な雰囲気に、僕は彼らに気づかれないように部屋のそばに近寄ると聞き耳を立てた。

「……しかし、これではただの——」

「いいから製造するんだ。ウチの商品を待っている消費者が全国に何百万、何千万人といるんだぞ」

「ですが……」

「見てくれだけでもいいから整えろ。分かったな?」

 研究員たちは社長の提案に全く気が進まないように返事をした。

「……分かりました」

 社長が急にバタン、と扉をあけて出てきたので、僕は慌ててただその場に通りかかったフリをした。

「こんなところで何をしている? 早く仕事に戻れ」

 社長は僕を不審そうな目で見たがそれ以上追及することはなく、僕は持ち場に戻った。

 あれは一体何だったんだろう。

 あの後、僕はいつものように仕事しながらも頭の片隅でそのことについてぼんやり考えていた。


 ●


 次の日、昼食を取っていたとき、僕は思い切って配達員の佐藤さんに聞いてみた。

「ねえ、佐藤さん。昨日、たまたま立ち聞きしたんだけど……」

 僕は昨日の社長と研究員たちの会話について佐藤さんに打ち明けた。

「どう思う?」

 佐藤さんはあまり興味がなさそうだった。

「別に。どうでもよくない?」

 彼女は僕と目も合わせず、はげかけたネイルの並んだ指で配給のクラッカーを掴んで頬張った。

「どうでもよくはないでしょ」 

 僕は食い下がったが、彼女は面倒臭そうに、

「イヤなら、飲まきゃいいんじゃない?」

 そう言って席を立ってしまった。

 何か悪いことを聞いただろうか。

 この日、僕は牛乳パックの重さを測り続けながら、彼女の言葉の意味について考え続けた。


 ●


「ただいま」

「おかえりなさい」

 家に帰ってきた僕は、妻にこのことを話した。

「でも、アナタの工場の牛乳、毎日飲んでるわよ」

「分かってる」

 僕は、冷蔵庫に入っていた完全牛乳を取り出してグラスに注いでみた。

 このアロエヨーグルトのような薄緑色の液体が最初に登場したとき、消費者の中には気持ち悪いという意見もあった。だが優れた栄養性が評価されて、次第にそうした声はかき消えた。

 この牛乳、一体何が入ってるんだろう。

「ちょっと国に持ち込んでみるか」

 僕は妻と子供にしばらく完全乳業の製造する乳製品の購入を控えるように伝え、仕事の休みの日に消費者の権利に関する問い合わせをしてみた。

 結果は失敗——僕はわざわざ工場で製造された牛乳を持っていったのだが、まともに取り合ってくれなかった。

 僕はますます頭を抱えた。


 ●


 僕はこの牛乳の本当の成分が知りたかっただけだった。

 今日もテレビをつけると、白衣を着た完全乳業の研究者が「最新の食品合成技術により、牛乳に緑黄色野菜の幹細胞を加えて培養し、ビタミンCやβカロテンなどの成分を強化しました」などと笑顔で誇らしげに語っているCMが流れていた。

 この映像があまりにもそれらしいので、今まで何百回も見たのに一度も疑いもしなかった。

 でも、もしかしたら。

 あれからしばらくして、僕は工場の奥にある自分の持ち場ではない部署にやってきた。

 そこには何かの粉が入った袋が大量に積まれ、巨大な管を通って牛乳に流し込まれていた。

「……これ、何を入れてるんですか?」

 僕は白い服を着た作業員に尋ねた。

「何って……、着色料だよ」

 彼は当然のようにその緑色の粉を機械に入れながら答えた。

「ホラ、発色をよくしてるんだよ。ただの白い牛乳じゃ、消費者は納得しないだろ?」

 彼は全く悪気がなさそうだった。

 確かに、ただの着色料なら人体に害はない。

 しかし、そういう問題なんだろうか。

 あまり頭がよくない僕でも、これがよくないことだとは薄々感じてはいた。


 あれからしばらく僕なりに考えたが、内部告発しても僕には何の得もないように思わた。僕はそのままこの何が入っているのかよく分からない牛乳を製造する工場に勤め続けた——その間、何百万、何千万という人がこの牛乳を口にした。

 あの時のためらいは、僕自身と家族を守るためだった、と言いたい。


 ●


 やがて、完全乳業は食品偽装で摘発された。

 この国の一つの産業とも言える巨大企業の倒産に、何十万人という元社員たちが路頭に迷った。そして僕たちの大半は食品偽装に加担したとして社会的信頼を失い、再就職が難しかった。

 僕はただ、牛乳パックの重さを測っていただけだったし、直接何かしたわけでもない。そもそも告発しようともしていた——そんなことを言っても、世間は聞き入れてはくれなかった。

 さらに、完全牛乳を飲んだ人の中から健康被害が報告された。毎日飲んでいた妻と子供も例外ではなかった。

 失業保険はすぐに底をつき、病気になった妻と子供を養うこともできず、僕は途方に暮れた。

 僕は悪くない。

 自分にそう言い聞かせて、罪悪感から目を背けようとしてもみた。

 だが、そんな欺瞞も限界に近づいた。

 ある日、僕はかけていた生命保険に一縷の望みを託し首を吊った。

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