九十六日目
夜になっても、俺はPC画面の光だけを灯りにして部屋で作業をしている。
気分が乗らなくても、状況が悪くても、生きていかなければならない。生きていくためには稼がなければならず、稼ぐためには働かねばならない。洋の東西や古今はどうか知らないが、現代の日本においてはそれが普遍にして当然の営みとなっている。俺はそんな小難しいことを考え、雑念だらけの頭でPC画面に向かっていた。俺にとって幸か不幸か、依頼はきている。金銭的にも当面問題ないであろう程度には大きなプロジェクトで、納期にも多少余裕はある。しかし、この家に引っ越してきてから自分や家族に降り掛かった悪夢のことが頭から離れず、俺は目の前のファイルに集中できなかった。
こんな時は、動画サイトで
今の俺に必要な言葉は〝
……こんな針の
――針の
確かにこの家は俺を含めて家族全員にとって辛いことばかり起きすぎた。今すぐではないがこの家を引き払うことも、検討しなければならないのかもしれない。ただ、やっぱり現実的に考えると、この家を買うために支払った出費が大きすぎた。今はもうおいそれとそんなことを決断できるような状況ではなくなっているのも理解している。
「――もう一度、お
思わず口をついて出た言葉は、まるで
そう考えると、それまで塞ぎ込んでいた気分が少しだけ晴れていく。そしてその時になって初めて、聴いていたトランス・ミュージックが途切れてCMに入っていることに気がついた。しかも時間が五分をオーバーしている類の奴で、男女の会話が聞こえてくる。ボイスドラマにまったく興味のなかった俺はCMをスキップしようとしてブラウザを最大化し、真っ黒なまま音声だけ流れている動画画面を見て、眉をひそめた。そんな動画……初めて見たぞ。
《――と少しだねえ》
――ん?
この声は――どこかで聞いたことがある気がする。
《
この女性の声にも聞き覚えがある。そして今出てきた名前にも――
~~~~~~~~~~~~~~~~
「まさか
「明信さん、あまり人様の死を嬉しそうに語るのは趣味がよろしくありませんよ」
「嬉しい訳じゃないさ。でも少なくとも、自治会を手中に収める時期が早まったのは事実だ。まだまだ根回しは必要だけどね、少なくともこれまでのような長いスパンで待つ必要はない」
「でも土田さんたちが亡くなったあの症状って、確か」
「うん、そうだね。あの家にかけられている
「どうしてそう言い切れますの?」
「前にも教えただろう? 僕は本来、本家筋の人間なんだよ。あの家の
「あの家の
〝この家に住まう
「――でしたわよね。確かにそれは以前に聞かせていただきました。けれど、だからといって何故それで大丈夫と言い切れるのかと」
「
「……本当に怖い話をおっしゃること。でも分かりました。私は聞きません」
「うん、それがいいよ。夏美さんのためにも、
「……面倒なしきたりですこと。気になりますけれど……でも承知しました」
「気になるのかい? それならね、肝心な所をぼかしさえすれば、かいつまんで
「聞かせていただけるなら。でも明信さん、今酔ってらっしゃいますけど大丈夫ですの?」
「なあに、それくらいの分別はつけられるよ。試しに語ってみようか」
「本当に大丈夫なら、お願いします」
「じゃあちょっと長くなるからね。ええと――」
江戸時代末期、
しかしある時、一帯を水害が襲うようになった。雨が集中して降り続き、日照時間が減って川や水路の
「――というのが表向きの話。水害があったのは本当だけど、それを抑えるために
「本当の目的――」
「そこも口外はできないから、勘弁してくれ。それで――」
水害も収まり、一帯はますます栄えた。しかし今度は明治の世に、
「
「うん、そのための石碑だよ。やはり詳しい話はできないんだけど……簡単に言えば結界さ」
「……それで合点がいきました。何故あの土地があんなにいびつな形をしているのか」
「――ふう、長々と説明したら目が回ってきたかもしれない」
「本当に酔ってらっしゃいますのね。飲み過ぎはダメですよ」
「まあ、たまにはね。ここの所本当に忙しかったし。そういえば美桜ちゃんなんだけどさ――やっぱり夏美さんからみても美桜ちゃんは特別かい」
「ええ。あれだけの記憶力を持ち、美術や音楽への才能に
「それで思い出した。あの子が描いた絵を僕も見させてもらったけど、本当にすごいね」
「でしょう? 五歳で、何も見ずにあそこまで描けるのは普通ではありません」
「いや、すごいのはそこじゃないんだよ。あの子が描いた〝家〟なんだけど、僕の記憶が確かだったら、あの絵は――昔のあの家だよ」
「えっ、あの家って――」
前の家主が息子夫婦を迎え入れて一緒に暮らすために、フルリノベーション工事を行った。
「――その大黒柱と四隅の柱さえ残っていれば機能としては問題ないんだ、あの家はね」
「……ごめんなさい、何の話を?」
「ああごめん。あの家がリフォームされる前は、ちょうどこの絵のような感じだったなって」
「……言われてみれば、確かに昔はこの
「うん。でもそこはそんなに大事なものじゃなくてね、とにかく大黒柱と四隅の柱。これらがあれば問題はなかった。僕も前の家主さんや息子夫婦さんとは懇意にさせて貰ってたからさ、いい工務店を紹介できてよかったよ」
「それで、それが美桜ちゃんの絵とどう繋がるんです?」
「いやね、あの家も昔は
「でも、結局前の家主さんの所も色々あって慌ただしく引っ越してしまいましたわね」
「まあ、それは仕方ない。僕たちが心安んじて繁栄するためには必要な犠牲だから」
前の家主の息子夫婦が引っ越して以降その子供だった兄弟が二人とも五歳の誕生日を迎える直前に
「そういえば、この前の
「ああ、死亡診断書を書かせて貰ったけど、まったく一緒だったね。死亡日の翌日が玲央君の五つの誕生日だったよ」
「まあ――そう聞くと痛ましいお話ではありますわね」
「かといって、本当のことを彼らに話してごらんよ、僕たちはきっと
「〝毒を
「ふふっ、それが賢明だね。僕だけでなく自治会の役員たちは全員、いわくを知っていてなお自分たちの繁栄のために〝
「明信さん、言い方に
「ただ――さっきも言った美桜ちゃんは何とかしたかった。あそこのご夫婦がどうなろうとも僕たちには関係のない話だけど――美桜ちゃんのような非凡な子はね」
「私たちには子供がおりませんからね。養子にしたかった気持ちは分かりますけれど」
「でも、行方知れずになったってだけでさ、死んだって決まった訳じゃないんだろう?」
「まあ、それはそうなんですけれど。でも明信さん、
「ふふっ、言い
「ええ、そうですね――」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――な、何だ今のは――」
意味不明な音声だけの動画が終わり、今はトランス・ミュージックが流れている。ずいぶん長い間音楽を聞いていなかった気分にさせられたが、心地よいリズムにのった音楽が流れても俺の心は熱した鉛か水銀が流し込まれたかのように重く、苦く、痛い。
……あの音声だけの会話を鵜呑みにすればだけど、作り物にしては話がリアルすぎる。一体何がどうなっているのか、俺には分からない。
……今の会話が火戸さん夫妻のもので間違いないとするのなら。
俺たちがこの家に引っ越してきてから経験してきた怪奇現象の数々は、この家にかけられた
時折現れる突き刺すような視線も、床下から立ち上る異臭も、風呂場の排水管から
救急隊員や刑事さんが〝やっぱり〟といった理由も、最上さんがおかしくなった理由も――全部この家が
美桜の行方が分からなくなり、明奈の心が砕け散って、俺たち家族がバラバラになったのもすべてこの家が
――そして、
特に、今の火戸さんの語り口には
「水島さんの――言うとおりだったのか……?」
〝あの人が一番得体の知れん人や〟
〝わしはあの人が一番恐ろしゅう感じとるよ〟
もう分からない。俺はあの人を味方だと思っていた。でも違った。あの人は俺や家族の皆を平気でよく分からない
「――そうか。玲央を殺し、美桜を奪い、明奈を壊して俺を潰すか。火戸さん、あんただけは味方だと思っていたけど――最初から敵だったんだな。よく分かったよ」
どうやらこの土地に俺たちの味方は一人としていない。それが分かっただけでもよかった。心置きなく、俺も敵対してやる。俺たちの平和をかき乱す奴は誰だろうと許さない。
今まで俺たちの身に降り掛かった様々な悪夢、災難の数々。それは俺の心をズタボロにしてどす黒く荒ませるのに十分だった。こうでもしないと、自分を保てない気がした。
その時、傍らのスマホがメッセージを着信する。画面を見るとたった一言〝シチゴサン〟と書かれたシンプルなメッセージだった。
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