九十六日目

 夜になっても、俺はPC画面の光だけを灯りにして部屋で作業をしている。

 気分が乗らなくても、状況が悪くても、生きていかなければならない。生きていくためには稼がなければならず、稼ぐためには働かねばならない。洋の東西や古今はどうか知らないが、現代の日本においてはそれが普遍にして当然の営みとなっている。俺はそんな小難しいことを考え、雑念だらけの頭でPC画面に向かっていた。俺にとって幸か不幸か、依頼はきている。金銭的にも当面問題ないであろう程度には大きなプロジェクトで、納期にも多少余裕はある。しかし、この家に引っ越してきてから自分や家族に降り掛かった悪夢のことが頭から離れず、俺は目の前のファイルに集中できなかった。

 こんな時は、動画サイトで延々えんえんとトランス・ミュージックを流して自分の世界に没頭する。ヘッドセットをかければ外界とおのれとが遮断され、心地よい旋律の雨が俺を包みこんでくれる。その雨が作り出した流れに身を任せ、下準備を進めながら必要な資料を整理、または手配してスムーズな本作業への移行ができるように備える。クロノアもだいぶ落ち着いているようで、こまめにお腹の毛づくろいをしている様子が微笑ましく感じられた。

 今の俺に必要な言葉は〝一心不乱いっしんふらん〟〝一意専心いちいせんしん〟かもしれない。色々なことに気を取られて結局何も考えられない状態がここのところずっと続いていた気がする。俺が感じていた不穏な空気、不気味な視線、怪しい気配も、あれこれと考えすぎたり悩みすぎたりして、肝心な時に明奈あきなにきちんと相談できなかったことも、俺があちこちに気持ちを散らされていたからだ。

 美桜みおのことだってそうだ。幼稚園の先生から時々美桜の様子がおかしいと聞いていたのに、俺はなんだかんだと彼女にちゃんと向き合うのを先延ばしにしてきていた。それがあんな形で報いを受けるなんて思いもしなかった。

 ……こんな針のむしろのような空気でなく穏やかな春の太陽に照らされた野原のような優しさに包まれた生活を、一刻も早く取り戻す。俺は今その一念だけでこの家にしがみついている。


 ――針のむしろ……か。

 確かにこの家は俺を含めて家族全員にとって辛いことばかり起きすぎた。今すぐではないがこの家を引き払うことも、検討しなければならないのかもしれない。ただ、やっぱり現実的に考えると、この家を買うために支払った出費が大きすぎた。今はもうおいそれとそんなことを決断できるような状況ではなくなっているのも理解している。


「――もう一度、おはらいを真剣に考えてみてもいいかもしれない」


 思わず口をついて出た言葉は、まるで天啓てんけいのような響きで俺の鼓膜と心を叩いた。そうだ、気休めにしかならないだろうけど、神社かお寺か――正直どこでもいいができることは何でもやってみよう。最上さんは何の力もない人だったと今は思っているが、世の中には強い霊力を持っている人だっているかもしれない。いないかもしれないけど、探さなければ分からない。気は心、大いに結構じゃないか。とにかく何でもいい、何かにすがりたい。

 そう考えると、それまで塞ぎ込んでいた気分が少しだけ晴れていく。そしてその時になって初めて、聴いていたトランス・ミュージックが途切れてCMに入っていることに気がついた。しかも時間が五分をオーバーしている類の奴で、男女の会話が聞こえてくる。ボイスドラマにまったく興味のなかった俺はCMをスキップしようとしてブラウザを最大化し、真っ黒なまま音声だけ流れている動画画面を見て、眉をひそめた。そんな動画……初めて見たぞ。


《――と少しだねえ》


 ――ん?

 この声は――どこかで聞いたことがある気がする。


明信あきのぶさん、酔ってらっしゃるのね。今焦っては大魚を逃がしてしまいますわよ》


 この女性の声にも聞き覚えがある。そして今出てきた名前にも――


 ~~~~~~~~~~~~~~~~


「まさか土田つちださんに木下きのしたさん、金本かねもとさんまで次々と亡くなるだなんて思いもしなかったよ」

「明信さん、あまり人様の死を嬉しそうに語るのは趣味がよろしくありませんよ」

「嬉しい訳じゃないさ。でも少なくとも、自治会を手中に収める時期が早まったのは事実だ。まだまだ根回しは必要だけどね、少なくともこれまでのような長いスパンで待つ必要はない」

「でも土田さんたちが亡くなったあの症状って、確か」

「うん、そうだね。あの家にかけられているのろいそのものだね。どうしていきなり土田さんや木下さん、それに金本さんまでそうやって死んだのかは分からないけど、家にはこない」

「どうしてそう言い切れますの?」

「前にも教えただろう? 僕は本来、本家筋の人間なんだよ。あの家ののろいを避けるために、分家へ養子に出され、五つを迎える前に遠くへ引っ越したんだ」

「あの家ののろいって、確か――」


〝この家に住まう男児おのこは数えで五つを生きられぬ〟


「――でしたわよね。確かにそれは以前に聞かせていただきました。けれど、だからといって何故それで大丈夫と言い切れるのかと」

氏神うじがみ様はね、本家の血筋を持つ人間には手が出せない決まりになっているんだよ。勧請かんじょうした時の縛りだとか何とか、本当の父から聞いているからね……ああ、夏美なつみさんは分からないか。なに、心配することはないよ。名前と由来ゆらいさえ知らなければのろわれることはないから」

「……本当に怖い話をおっしゃること。でも分かりました。私は聞きません」

「うん、それがいいよ。夏美さんのためにも、火戸ひど家のためにも。本家には色々としきたりがあるから、本当に大変だよ。当代当主と次代当主の間でのみ、口伝くでんで継承される話に関わってくる話は、たとえ相手が妻だろうと一切口外してはならない決まりだからね」

「……面倒なしきたりですこと。気になりますけれど……でも承知しました」

「気になるのかい? それならね、肝心な所をぼかしさえすれば、かいつまんで由緒ゆいしょや歴史を語るくらいならできるよ。夏美さんは聞きたいかい?」

「聞かせていただけるなら。でも明信さん、今酔ってらっしゃいますけど大丈夫ですの?」

「なあに、それくらいの分別はつけられるよ。試しに語ってみようか」

「本当に大丈夫なら、お願いします」

「じゃあちょっと長くなるからね。ええと――」


 江戸時代末期、文政ぶんせいの時代、一帯を納めた豪農がひょんなことからとあるモノを捕まえた。それを大いに利用して自分の家を繁栄させ、余力で集落全体に富と食料をもたらした。農業も飛躍的に拡大し、収穫が大幅に増えたことでさらなる金と名声が集中した。

 しかしある時、一帯を水害が襲うようになった。雨が集中して降り続き、日照時間が減って川や水路の氾濫はんらんが増えた。一帯は地理的に川にほど近い開けた低地であり、当時の治水技術が未熟だったこともあって豪農は水害を抑えるのに頭を悩ませた。困り果てた豪農は集落のおきなが勧める近くの神社へ相談し、この土地へ特別に水を司る氏神うじがみ様を勧請かんじょうした――


「――というのが表向きの話。水害があったのは本当だけど、それを抑えるために勧請かんじょうしたというのは二の次で、本当の目的は別にあった――というのが裏の話」

「本当の目的――」

「そこも口外はできないから、勘弁してくれ。それで――」


 水害も収まり、一帯はますます栄えた。しかし今度は明治の世に、勧請かんじょうした氏神うじがみ様を巡って問題が発生した。今度は以前のように神社を頼る訳にもいかなかった当主は、考え抜いた末に屋敷の土地を分譲して分家筋に継がせた。それから石碑を各家に建立こんりゅうして氏神うじがみ様を抑えた。


氏神うじがみ様を抑えた――ということは、家の庭にあるあれって」

「うん、そのための石碑だよ。やはり詳しい話はできないんだけど……簡単に言えば結界さ」

「……それで合点がいきました。何故あの土地があんなにいびつな形をしているのか」

「――ふう、長々と説明したら目が回ってきたかもしれない」

「本当に酔ってらっしゃいますのね。飲み過ぎはダメですよ」

「まあ、たまにはね。ここの所本当に忙しかったし。そういえば美桜ちゃんなんだけどさ――やっぱり夏美さんからみても美桜ちゃんは特別かい」

「ええ。あれだけの記憶力を持ち、美術や音楽への才能にすぐれた子は見たことがありません」

「それで思い出した。あの子が描いた絵を僕も見させてもらったけど、本当にすごいね」

「でしょう? 五歳で、何も見ずにあそこまで描けるのは普通ではありません」

「いや、すごいのはそこじゃないんだよ。あの子が描いた〝家〟なんだけど、僕の記憶が確かだったら、あの絵は――昔のあの家だよ」

「えっ、あの家って――」


 前の家主が息子夫婦を迎え入れて一緒に暮らすために、フルリノベーション工事を行った。旗竿地はたざおちで接道条件を満たしていない土地での建て替えはできないため、主要な柱を数本残してあとはすべて作り変えた。中央の太い大黒柱、四隅の柱が残っていれば、法律的には問題なく立て直しが可能だった。


「――その大黒柱と四隅の柱さえ残っていれば機能としては問題ないんだ、あの家はね」

「……ごめんなさい、何の話を?」

「ああごめん。あの家がリフォームされる前は、ちょうどこの絵のような感じだったなって」

「……言われてみれば、確かに昔はこの千木ちぎも鰹木もあった気がしますわね」

「うん。でもそこはそんなに大事なものじゃなくてね、とにかく大黒柱と四隅の柱。これらがあれば問題はなかった。僕も前の家主さんや息子夫婦さんとは懇意にさせて貰ってたからさ、いい工務店をよかったよ」

「それで、それが美桜ちゃんの絵とどう繋がるんです?」

「いやね、あの家も昔は大社造たいしゃつくりで建てられていた――それが言いたかっただけなんだ」

「でも、結局前の家主さんの所も色々あって慌ただしく引っ越してしまいましたわね」

「まあ、それは仕方ない。僕たちが心安んじて繁栄するためには必要な犠牲だから」


 前の家主の息子夫婦が引っ越して以降その子供だった兄弟が二人とも五歳の誕生日を迎える直前に肺水腫はいすいしゅ様の症状で亡くなった。息子夫婦、特に妻がそのことで神経を参らせてしまい、数年後妻の実家へ引っ越すという結果になった。その後家主の妻も病気の療養中に亡くなり、独居生活になった家主は息子夫婦が新たに購入した家へ引っ越していった。


「そういえば、この前の玲央れお君も確か――」

「ああ、死亡診断書を書かせて貰ったけど、まったく一緒だったね。死亡日の翌日が玲央君の五つの誕生日だったよ」

「まあ――そう聞くと痛ましいお話ではありますわね」

「かといって、本当のことを彼らに話してごらんよ、僕たちはきっとなじられ恨まれるだろう。下手をしたら命を狙われてしまうことにもなるかもしれない」

「〝毒をらわば皿まで〟ですわね。もちろん口外するつもりはありません」

「ふふっ、それが賢明だね。僕だけでなく自治会の役員たちは全員、いわくを知っていてなお自分たちの繁栄のために〝人身御供ひとみごくう〟としてあの家に住む人を見捨てているのだから」

「明信さん、言い方にとげがありましてよ」

「ただ――さっきも言った美桜ちゃんは何とかしたかった。あそこのご夫婦がどうなろうとも僕たちには関係のない話だけど――美桜ちゃんのような非凡な子はね」

「私たちには子供がおりませんからね。養子にしたかった気持ちは分かりますけれど」

「でも、行方知れずになったってだけでさ、死んだって決まった訳じゃないんだろう?」

「まあ、それはそうなんですけれど。でも明信さん、流石さすがにあのご両親がどうなってもいいとおっしゃるのは、人聞きが悪くはありませんこと?」

「ふふっ、言いつくろったって仕方がないだろう。夏美さんしか聞いている人がいないんだから。さあて、長話しすぎたね。そろそろ風呂にでも入って明日の準備をするか」

「ええ、そうですね――」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「――な、何だ今のは――」


 意味不明な音声だけの動画が終わり、今はトランス・ミュージックが流れている。ずいぶん長い間音楽を聞いていなかった気分にさせられたが、心地よいリズムにのった音楽が流れても俺の心は熱した鉛か水銀が流し込まれたかのように重く、苦く、痛い。

 ……あの音声だけの会話を鵜呑みにすればだけど、作り物にしては話がリアルすぎる。一体何がどうなっているのか、俺には分からない。


 ……今の会話が火戸さん夫妻のもので間違いないとするのなら。

 俺たちがこの家に引っ越してきてから経験してきた怪奇現象の数々は、この家にかけられたのろいだった。そして玲央はそののろいの犠牲になって死んだ。それだけでなく、火戸さんも他の自治会役員の面々も、そうなることを分かっていながら俺たちを生贄いけにえに差し出した。

 時折現れる突き刺すような視線も、床下から立ち上る異臭も、風呂場の排水管からあふれ出る髪の毛も、すべてこの家がのろわれていたから。

 救急隊員や刑事さんが〝やっぱり〟といった理由も、最上さんがおかしくなった理由も――全部この家がのろわれていたから。

 美桜の行方が分からなくなり、明奈の心が砕け散って、俺たち家族がバラバラになったのもすべてこの家がのろわれていたから――

 ――そして、のろわれていたことを知っていて、彼らが俺たちを見捨てたから。

 特に、今の火戸さんの語り口には酷薄こくはくな意図があからさまににじみ出ていた。


「水島さんの――言うとおりだったのか……?」


〝あの人が一番得体の知れん人や〟

〝わしはあの人が一番恐ろしゅう感じとるよ〟


 もう分からない。俺はあの人を味方だと思っていた。でも違った。あの人は俺や家族の皆を平気でよく分からない氏神うじがみとやらに差し出し、どうなっても構わないと言い切れる人だった。今の時点で確実に言えることが一つある。火戸さんは悪意と下心の冷たく鋭い刃を腹中に隠し能面のうめんのような笑顔を貼り付けて俺たちと接していたことだ。


「――そうか。玲央を殺し、美桜を奪い、明奈を壊して俺を潰すか。火戸さん、あんただけは味方だと思っていたけど――最初から敵だったんだな。よく分かったよ」


 どうやらこの土地に俺たちの味方は一人としていない。それが分かっただけでもよかった。心置きなく、俺も敵対してやる。俺たちの平和をかき乱す奴は誰だろうと許さない。

 今まで俺たちの身に降り掛かった様々な悪夢、災難の数々。それは俺の心をズタボロにしてどす黒く荒ませるのに十分だった。こうでもしないと、自分を保てない気がした。

 その時、傍らのスマホがメッセージを着信する。画面を見るとたった一言〝シチゴサン〟と書かれたシンプルなメッセージだった。

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