百日目・進
俺はもうずっと寝られていない。眠気もこない。体も頭も精神も疲れ果ててしまっているが休息をしたくても恐怖と不安と
俺が不気味で不可思議な〝ラジオ放送〟を聴いたあの晩に、
――絶対に俺のせいだ。
思い返せば最初からおかしかった。
一体何が引き金になって彼らの生命が奪われてしまったのか俺は必死に考えた。あの時俺が〝シチゴサン〟のメッセージを受けとった時にしていた行動で、土田さんにたち関係する話。確かあの時は
「いや――」
『とにかくあの人たち、特に土田さんには本当に困ったもんだ。どうにかしたいな……』
――そうだ、土田さんを名指しでどうにかしたいと言っていた……気がする。その後部屋でこのメッセージを受けとったんだ。
木下さんの時はどうだったか。あの時は
あの時も俺は明奈と二人で頭を抱えながら話していた時に
『まさかあんな人だとは思わなかった。いずれにしても、本当にどうにかしないとな――』
ここまででももう、状況が怖いくらい似すぎている。どうにかしたいと心から思い、念じ、言葉に乗せて
――俺は先に進むことに少し
『こっちから関わり合いになることは
考えれば考えるほど自分が一連の悲劇、いや惨劇の引き金になっている気がしてならない。だが、何故ここまで短期間でこんなことになってしまっているのか、俺には分からなかった。まるで疑念と憎悪を呼び起こさせるような、あまりにもタイミングのいい災難と不運の数々。
「……分からない。何でこんなことに――」
頭にかかった濃いもやを追い払うように頭を振って卓上時計を見ると、深夜二時ちょうど。火戸さんが亡くなったと水島さんから連絡があってから、一睡もできていない。葬儀へ列席を頼まれたが、断った。もう何も信じられない、何も分からない。何も考えたくない、もう何もしたくない――疲弊しきった脳と神経とが悲鳴をあげ、体は一切空腹の警鐘を鳴らさない。
またスマホが〝ポコン〟と音を鳴らす。俺はその音へ過敏に反応し、慌てて画面のロックを外してSNSを開く。
かえりたい
メッセージの送信者はアカウントを削除したのか、誰なのか分からなかった。
「〝メンバーがいません〟……だって?」
――そもそも、これは一体誰が送ってきたものなんだ? それに、俺はどうして今になるまでこのことを疑問にすら思わなかったんだ……?
送信者がアカウントを削除したことで、俺からは返信が何もできなくなっている。送信者が誰のかを問い詰めようにも、実行手段が向こうから遮断されてしまっていたのだ。
「……もうダメだ。この家にはもういられない――」
お金に余裕がないとかそんなことは言っていられない状況だ。命の危険すら感じるこの家に居続けたら、本当に
俺はクロノアとただ一匹生き残った三毛の子猫をキャリーに入れ、最低限の荷物だけ抱えて玄関に向かった。しかし俺の前に立ち塞がったのは、引けば軽く開くはずの引き戸だった。
「えっ――何故開かない? 鍵も開いてるだろ――」
引き戸をどれだけ揺すっても叩いてもうんともすんともいわなかった。蹴っても体当たりをしてもびくともせず、ガラスにもひび一つすら入らない。さながらコンクリートの分厚い壁を殴っているかのような感覚で、それは激痛となって俺の手足に伝わってきた。
「ち、ちくしょうっ!! 何なんだよおい!」
いくらわめいても何も変わらなかった。俺は玄関を諦め、寝室の
「あっ、明奈に助けを――いや、警察を――」
パニックになった俺は握りしめていたスマホのロックを外し、緊急連絡のボタンを押して、電波が繋がっていないことに気づいた。〝通信サービスはありません〟の無情な表示が、俺の意識を蝕んでいく。固定電話を手にとったが、発信音はなかった。
その時、リビングのシャッターが風に揺られたのか〝ガタガタ〟と大きな金属音を出した。俺はその場で電話機を放り投げ、椅子にへたり込んだ。情けない声をあげていたのだろうが、俺にはもう自分の声すら認識できない。
「も、もうやだあ……」
いくらあがいても逃げ場はない。二階を確認しても同じだった。下に降りる前は開いていた窓にシャッターが降りている。絶対に逃さないという異常なほどの執念を感じる。俺の部屋はPCの白いスクリーンライトに照らされている。俺は不安と
「とっ、とにかく一旦落ち着け。何が起きているにせよ――ひっ!?」
突然背後――美桜の部屋から気配がする。猫は二匹ともキャリーの中で丸まっているから、この家には現在、他に気配を出せそうな人もモノもいないはずだ。しかし今俺の背中を射抜く凍てつくような気配は、
「う、うわ――」
「――――」
一人の少女が立っていた。俺はその子を見たことがある気がする。彼女は美桜の部屋と俺の部屋を隔てる敷居のすぐ向こう側に立っていて、距離にして二メートルも離れていない。俺は
年の頃は十代半ば、振り袖を着ている中学生か高校生のような雰囲気だ。派手ではないが、優美ではあった。
黒髪は部屋の白色光を照り返し、見事な
さらに、立ち姿は
それと時を同じくして、家の中全体に〝あの〟異臭が立ち込めてきた。キッチンの床下から時々漏れ出てくる、生臭い臭いだ。今度は俺の部屋にまで上ってきてしまっている――いや、違う。この臭いの発生源はもっと近い――そんな気がしてならない。
さらに、シャッターを叩く雨音が聞こえ始めてきた。それは瞬く間に激しくなっていって、時折突風が吹き付けては不安をかき立てる金属音を残して去っていく。
しかしそれでもなお、俺の意識は眼前の少女に釘付けだった。前に見たことのあるような、初めて会うような――不思議で不穏な感覚に襲われながら、俺は乾いた唇を開いた。
「だ……誰……?」
そう問いかけながら、俺の頭の中には、とある可能性が……いや、心当たり程度でしかない何かが引っかかっている。
――俺はこの子を知っている。知っている子によく似ている――
「――」
少女は無言を貫きつつ、思考と表情の見えない瞳で俺の心を見透かすように凝視していた。その目も、無口な所も、俺は前に見覚えがあった。
そして少女は右手をすうっと前に突き出した。人差し指だけを立てて〝1〟のポーズをし、その指をゆっくりと俺に向けて指さす。この仕草も――前に見ている。
「……のあちゃん、か?」
その問いに少女は黙って
「ど、どうしてこんな所に――いや、その姿は一体……そんなことより、君は一体――」
突如ポコンと鳴らされる受信音。
「えっ――」
体を震わせながら、俺はおそるおそるスマホのロックを外す。
かえりたい
「これ……君が送ってきていた、のか……?」
前にも送られてきたメッセージが再び、このタイミングで出てきた意味を考え、俺は疑問を目の前の少女、のあちゃんに問うた。その質問は無言で返され、肯定も否定もされなかった。そして例の電子音とともに、メッセージが次々と送り込まれてくる。
かえりたい
「――帰りたいって、どこに」
かえりたい
「――だから、どこに」
かえりたい
「……」
意思が通じるようでまるで話になっていない。冷静に考えれば今自分が置かれている状況も十分に怪奇現象で、何故自分がここまで落ち着いていられるのかが不思議でたまらない。だが目の前の少女のまっすぐな視線を見ると、少しだけ恐怖心が遠のく気がする。
――いや、違う。恐怖心が遠のいているんじゃない、恐怖心に飲み込まれて麻痺したんだ。俺はとうに震えとか涙とか鳥肌とか、そういった反応ができるレベルを飛び越しているんだ。
「…………」
かける言葉も思い当たらず、押し黙っていた俺の鼓膜を再び電子音が叩く。画面を見ると、そこには今までと違ったメッセージが書かれていた。
アトヒトリ
「あと、一人……?」
相変わらず意味は分からない。分からないが――その時家の周囲を強烈で不快な空気が
「な――」
PCに映し出されていたのは今も稼働中の監視カメラだった。自治会の騒ぎがあってからは特に活用していた訳でもなかったが、防犯上の意味は大きかったので、継続して使っていた。普段は録画もしていないし、バックグラウンドで垂れ流しているだけだったカメラに今、何か白い紐のような――もっと太い、たとえばしめ縄のような何かが映っている。それはぐるりと家を取り囲んでいて、カメラ映像を信じるならウロボロスの環のような形になっていた。
画質は粗く、モアレがひどい。動いているから生き物ではあるのだろう――いや、果たして本当に生き物だろうか? この家は普通じゃない。
俺はじいっと目を凝らしてそれをもっと見ようとして――そんなことがどうでもよくなる、最悪の違和感に襲われた。
「えっ――ちょ、待て、この映像――どうして!?」
自治会と揉め、誰かが夜な夜な家の周りを
そして、今この家はすべての窓のシャッターが降りている。ということは――
「この映像って……一体どうやって撮っているんだ……?」
そして、まるで俺が一番驚くタイミングを狙いすましているかのように鳴る電子音。
「ひいっ――」
アトヒトリ
今度はこのメッセージが続くのだろうか。大体何が〝あと一人〟で、その一人がどうなれば何がどう動くというのか。分からないことだらけだ。
「ねえ、のあちゃん、君がもしこの家の
彼女はもう俺が考える〝怪異〟の一部なのは間違いない。何が目的で美桜に近づいたのかは見当もつかないが、彼女ならこの家のことを何か知っているだろうと思って振り向くと、俺のすぐ後ろに彼女が立っていた。俺は思わず飛び退いて足をチェアにしこたまぶつけてしまうが痛みなど感じなかった。
それにしてもいつの間に、しかも物音も気配も感じさせずに、俺のすぐ後ろに……?
以前も所作がものすごい静かで日本人形のようだと思ったことはある。しかしそれにしてもここまで何も感じられないものなのか――顔を引きつらせながらそんなことを考えていると、再び俺のスマホが受信音を鳴らした。
アトヒトリ
かえりたい
アトヒトリ
かえりたい
アトヒトリ
かえりたい
…………
そこからは狂ったように繰り返しメッセージが送られてくる。SNSアプリはスクロールを続け、画面をフリックしても入力を何も受け付けなくなってしまっていた。
「ちょ、ちょっと……! もう、何なんだ! とっ、止め――ぐぶっ」
俺が引きつった声でそう口走ったのと、のあちゃんが俺の首をがしっと
――ああ、そういえば。
□■□■□■□■□■□■□■□■
そこまで思い出して、今日は
次に思い浮かべた場面は、どこかの部屋で
「み、美桜――」
美桜はずっとお手玉をして遊んでいる。お手玉といえば〝のあちゃん〟――さっき見かけたあの少女は本当に彼女だったのだろうか――今でも信じられない思いだ。
そんなことを漠然と考えながら美桜の背中を見ていると、少女がいつの間にかお手玉で遊ぶ美桜の横に立っていた。俺が近づこうとしても距離が縮まらない。視界が狭まり、俺の世界の視野角が広がって
かえりたい
どこかで聞き覚えのある言葉が俺の耳を飛び越して頭に直接響いてくる。美桜の声だった。美桜はずっと俺に背中を見せて畳の上に正座し、
「――!? み、美桜っ!? ど、どこへ――」
美桜が後ろの女の子に肩を叩かれ、笑顔で振り向いて
「まっ、待ってくれっ……! どこに連れて行くんだっ!! 連れて行かないでくれ! 美桜は俺の――俺と明奈の生きがいなんだ!!」
その言葉で二人が立ち止まり、おもむろに振り返る。美桜は相変わらず
「美桜……ダメだ……行くなっ……そっちは、ダメだっ……頼む! 俺はどうなってもいい、その子だけは……どうか、連れて行かないで……! 神様、どうか、美桜を、助けて――」
涙に濡れ、顔をくしゃくしゃにしながら、俺は
「――――」
――意識の外で〝ポコン〟という今となってはもう聞き慣れた音を聞き、脳内に〝摯拘閂〟という文字が浮かび上がる。当然その言葉の意味など、分かる訳もない。
そしてその瞬間、空気――否、感覚的には空間が丸ごとめくれあがり、裏返るような冷たい感覚が全身を襲って、俺は気を失った。
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