六十七日目

 今日は火戸ひどさんに〝大事な話〟を聞く約束になっている。先日『お話に伺わせて欲しい』と連絡があったのだが、声色が緊迫きんぱくしていたので、何かあったのかと気を揉まされた。昼過ぎにくると言っていたので早めに昼食を済ませ、美桜はクロノアと上で遊んでいて貰う。美味いと評判の和菓子屋でお茶請けを買い求め、準備を済ませた俺と明奈は、火戸さんからどんな話が聞けるのか今から不安でいっぱいだった。

 そして、インターホンが鳴らされる。約束通り火戸さんだ。俺は彼をリビングに招き入れ、椅子を勧めた。明奈がお茶と和菓子を用意して、挨拶と前置きの口上が交わされた。


 改めて火戸さんを見ると――五十三歳という実年齢以上に活力がみなぎっているというか、理知的な相貌そうぼうをしている。医師なのだから当然と言われればそれまでだが、それでも清潔感にあふれる身だしなみというのは見る人を安心させるものだな――と思った。以前木下きのしたさんから〝先代が呼び戻すまで関東の有名病院に勤務していた敏腕医師〟という話を聞いていたので、ここらでは珍しく――そして俺と同じく、方言に染まっていない。


「ええと、ですね。まずお願いしなければならないのは、どうかこの先の話を聞いても気分を害さないで欲しい……ということです。個人的には気分を害されても致し方ないと思いますがどうかそこをこらえて、一旦落ち着いて聞いていただきたいのです」


 やがて、火戸さんから本題が切り出される。しかしいきなりとんだジャブが飛んできたな。俺は明奈と顔を見合わせて、表情をこわばらせた。一体どんな話が飛び出してくるのだろう。少なくとも、俺たちにとって明るく、プラスな内容でないことは初手から決まってしまった。何を言い出せばいいのか分からない俺の沈黙を了承と受け取ったか、それとも構わずに口火を切ろうと思っただけなのか、火戸さんは重々しく口を開いた。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 ええと、先月の話からにしましょうか。土田つちださんが自宅で謎の発作に見舞われて奥さんから直接助けを求める連絡があり、私の病院へ緊急搬送され……懸命の処置むなしく病院で息を引き取られました。これは先日、旦那さんにかいつまんで教えた内容となりますが、奥さんにも直接お聞きいただこうと思いましたので。

 ちなみに現在は会長代行として副会長の水島みずしまさんが自治会をまとめておられるのはあなたももうご存知のはずでしたよね。ええそうです、はい。


 そして先週――こちらも恐らく伝わっておられないことと思いますが、木下さんが自宅にて亡くなられました。やはりご存知なかったようですね。その反応を見れば分かります。ええ、何が起きたのか詳細は申し上げられませんが、まずは落ち着いて続きをお聞きください。


 お二方の症状や死因については個人情報になりますので言及は避けさせていただきますね。土田さんの葬儀はちょうど七五三シチゴサンの儀があった前後に、木下さんの葬儀は数日前に、それぞれり行わせていただきました。この私を含め自治会の面々が列席致しました際、お通夜の場であなたのことが話題にのぼったのです。その際、私は表向き中立を保たせてもらいましたが、水島さん他若干名があなたに少々思う所があったようでして。本来ならお通夜にはお二人にも列席して貰うのが筋ではあったのですが、水島さんたちがあなたの列席を呼びかけなかったというのが真相だったようです。私はこの処遇に強烈な違和感があります。

 私としてはただでさえ狭い界隈かいわい村八分むらはちぶのような仕打ちをするのが道理にかなっているのか、理解に苦しみました。そこで火葬が終わったタイミングで水島さんに話を持ちかけたのです。一度しっかりと話し合ってわだかまりを解消しないか……と。ですが水島さんはそんな提案を一笑に付し、私にこう言ってきたのです。


『アレはもうダメや。君も見たやろ、あの騒ぎ。ありゃあ相当ヤバイで』


 申し訳ありませんが、につきましては説明を差し控えたいと思います。どのみち、説明を差し上げた所で到底信用できる類の内容ではありませんからね。


 何故私がこのような話を打ち明けにきたかと申しますと、常日頃から土田さんを始めとする守旧派、今は水島さんが会長代行ですが……しきたりや年功序列を何よりも重んじる方々にはそろそろご隠居いただいて、世代交代を図りたいと考えていたからです。自治会は地域振興や治安の観点上必要だと思っておりますが、やはり時代に合わせてやり方を変えていかないと。

 もちろん一筋縄ではいかないのは承知の上ではありますが、少しずつ私たちの理念に賛同をしてくれる方をつのっているところで、ぜひご検討いただけたら、とお邪魔致しました。

 まだここに越してから二ヶ月あまりなのにこのような泥臭い話に巻き込んでしまって本当に心苦しくお恥ずかしい限りではありますが、少しずつこの町内の空気を変えていきませんか。もちろん無理強いはしませんが、ぜひ私たちに力をお貸しいただきたいのです。


 どうか、よろしくお願い致します。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「――以上です。何かご質問などございませんか? ぜひお気軽にどうぞ」


 まるで演説か記者会見でも聞いていたかのような口調と仕草で、質問の有無を尋ねられた。お医者さんは学会やシンポジウムとかでよくそういう場を経験するというし、今もその流れで聞いてきたのだろうとは思うけど……どちらかというと、何だか政治家に話を聞いたような、そんな印象があったのは気のせいだろうか。


「あの、水島さんなんですが……以前、敷地内の石碑を世話していらっしゃった際に、何かを見てすごくびっくりしていたことがあったんです。それ以来水島さんとはお話ができていない状態なんですが、火戸さんは何かご存知ですか?」

「水島さんですか? ええと……申し訳ありません。私も水島さんからは距離を置かれている立場でして、あの方とはお話する機会があまりないのですよ。理由はさきほどご説明しました件が関わっているのですけどね」

「はあ……『皆に知らせないと』とおっしゃっていたので、石碑に関わっている人には伝わっているものと思っておりましたが……」

「そうですねえ。本来ならそのはずなのですがね」


 火戸さんはバツが悪そうな顔をして頭を下げる。これ以上掘り下げても、彼から聞き出せる話は何もないだろう。俺はもう一つ、火戸さんがいう所の〝自治会守旧派〟の面々がどうして急に俺たちに冷たく当たるようになったかを問うたが、それも分からずじまいだった。

 翌月から石碑の世話は火戸さんが行うことになっていることも火戸さんご本人から聞いた。だが火戸さん本人はこの石碑の世話そのものに否定的な立場を取っているらしい。


「やはり契約に合意していただいているとはいえ、私は他所様の敷地内に入り込むその行為に納得ができないのです。ですので来月は本来私の担当ではありますが、敷地には入りません。それは先に申し上げておきたいと思います」

「あの、氏神うじがみ様をまつっているのですよね? それで大丈夫なんですか?」

「はは、いわしの頭も信心からとは申しますが、逆にいえば信じていなければ氏神うじがみ様をまつるなどと申しても、ただの石碑にしか過ぎませんしな。私はそのように考えておりますのでね」

「は、はあ……」

「私はそういった所も含めて、今までのやり方を変えていきたいと考えておりますよ」


 火戸さんはニッコリと笑いながら、すっかりぬるくなったお茶をグイと飲み干した。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「……ねえ」


 火戸さんが帰宅した後も、俺と明奈は押し黙っていた。地方とはそういうものだという話は聞いたことがあるが、いざ自分が当事者になってみると気分が落ち込んでしまう。明奈は俺の肩に優しく手を当てながら、なぐさめるように言葉をつむいできた。


「これが俗に言う、捨てる神あれば拾う神ありってことなのかなって思う。自治会の人たちは明らかに私たちに悪意を持ってるみたいやけど、代わりに火戸さんという人が近づいてきた。もう何にしてもこの家からはもう簡単に引っ越せへんのやから、火戸さんの提案に乗るのも、私は悪くないと思うで」

「……そんなにスパッとは決められないよ。ちょっと考えさせて」

「まあ、そうよね。下手したら町内がしっちゃかめっちゃかになるもんね……でも、一度だけ向こうの話を詳しく聞いてみるのはアリやと思うよ。火戸さんの考えに賛同している人たちがどれくらいいるんか、とかさ」

「うん……そうだな。その話についてはまた改めて火戸さんに直接聞いてみよう」


 俺は半分くらい生返事に近い感じで言葉を返す。俺の頭の中にあるのは、今しがたの明奈の一言だった。


『もう何にしてもこの家からはもう簡単に引っ越せへんのやから――』


 確かにその通りだ。やはり今はまだ動きが取れない――


「なあ、しんちゃん。何か、変な臭いせえへん? まるで生ゴミが腐ったような――」


 突然明奈が鼻をスンスンと動かしながら眉をひそめてキッチンへ歩いていった。俺は目線で彼女を追いながら、部屋の空気を嗅いでみる――確かに、少し異臭が混じっていた。


「ん? ああ――言われてみれば、変な臭いがするね。一体どこから――」

「キッチンからやと思う――っていうか、多分やけどまた床下からやない……?」


 以前、謎の漏水ろうすい音が聞こえてきた時にも床下を見てみたが、漏水ろうすいしていそうな所はどこにも見当たらなかった。そして今回は、何かが腐ったような臭いが立ち上ってきている。俺は再び床下収納を外して覗いてみると――


「うわっ、何だこりゃ!?」


 床下から強烈な生臭さをともなった異臭が部屋の中に混入してきた。俺はたまらず収納棚をはめ直して床を塞いだが、思い切り吸い込んでしまったため刺激の強さで激しく咳き込んだ。顔をあげると明奈も鼻をつまんで顔をしかめている。


「えっ、今の臭い一体何なん!? 進ちゃん、床下どうなっとったんよ?」

「何か――ドロっとしたものが床下一面に広がってた……ように見えた」

「ちょっと、何それ!? いやや……! 何でそないなことになっとるん……前に覗いた時にはなかったんよね?」

「うん、水たまりみたいなものはどこにも見当たらなかったな。ただ――今見たアレ、どうも水たまりとも違うような。でももう開けたくないな……あの臭いはヤバイ」

「でも何とかしなきゃ! ずっとこのままこんな臭いの中で暮らしてかなあかんの、めっちゃキツいで……? 窓全開で扇風機でもドライヤーでも回して換気しながら掃除しよ?」


 明奈に言われるまでもなく、臭いものに蓋ではないがこのまま見なかったことにするなどとはできる訳もない。正直嫌でたまらなかったが、意を決して水で流す準備を始めた。


「じゃあ、開けるよ。明奈は二階で美桜みおとクロノアを見てて。特にクロノアが脱走しないよう見張っててくれると嬉しい」

「ん、分かった。でも手が足りなかったら呼んでや?」


 そう言いながら階段を上っていく明奈の背中を見送って、俺はゆっくり深呼吸をして自分を落ち着けてから、気合を込めて収納棚をもう一度外す。


「――あれ?」


 俺の予想と覚悟をあざ笑うかのような光景が、そこには広がっていた。さっきあったはずのドロっとした物体は欠片も見当たらず、前に見たような土くれとわずかな虫のうごめく様子だけが俺の視界に入ってきた――いや、正確にはその時には見なかったもの、そして本来ならそこにあるはずのない、あるべきでないものが一つ落ちていた。


「――しゃ、写真立て……?」


 それはどこかで見たことのある大きさの写真立てだった。普通サイズではなく、まるで――つい最近、家にも同じようなものがあったと記憶は訴えかけていた。俺は精一杯腕を伸ばし、それをつかんで引き上げた。その写真立てはネバネバとした物体にまみれて、それほどきつくはなかったが、さっきむせ返ったものと同じ異臭を少し放っていた。しかし俺にとって今、その臭いなどはまったく問題にならなかった。


「――れ、玲央れお遺影いえい……? な、何でこんな所に……?」


 ――やはり何かがおかしい。これは本当に悪霊的なナニカがこの家にいるのかもしれない、俺は背筋に怖気おぞけが走るのを感じ、震える声で明奈を呼んだ。


 ……お坊さんでも霊能者れいのうしゃでも神主かんぬしさんでもいい。そういった方面に詳しい人の話を聞いて、できればおはらいとか除霊じょれいとかを頼める人を呼ばないといけないかもしれない――

 俺は、正体不明の粘液でべとついた玲央の笑顔を呆然ぼうぜんと眺めながら、形容しがたいナニカに恐怖を感じて、身震いが止まらなかった。

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