六十一日目
数日前から家の中でおかしなことが
『なあ進ちゃん、床下で水漏れしとるみたい。ピチャ、ピチャって音が聞こえるんよ』
キッチンに一番立つ機会の多い明奈が困り顔で床下を調べてくれと頼んできた。床下収納を取り外して中を確認してみたのだがどこにも水たまりはなく、
家の中央に立つ大黒柱が建屋の規模からすると若干直径が大きいのは、家を買った当初から思っていたことだったのだが、正確にはそれは〝大黒柱に見えなかった〟。俺が見たその柱はまるで〝円柱状の〟〝石垣のようなものでできた〟〝構造物〟の上に乗せられた、蓋のような印象があった。そしてその円柱状の構造物に古ぼけた縄のようなものが巻き付けられている。考えたくはないが、俺はそんな形をしたものに心当たりがある。
――大昔に一世を風靡したホラー映画に出てきた、あの――
『ま……まさか――な』
俺は不穏な想像を無理やり振り解くように
そしてもう一つの異変は、気がつくと
俺と明奈はここにきて、この家に何かよからぬモノがいるのではないかと疑い始めた。だがそれは奇しくも〝玲央を
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
家の中の空気が徐々に
「どうも、お待たせ致しました」
園長先生に続いて、美桜の担任である
先の予感は残念ながら的中し、俺と明奈は
「まずお父様お母様に申し上げておかなければならないことがあります。美桜ちゃんは今日、前回もお伝えした行動に出ておりました。園の裏側に隠れて――」
美桜が時折起こす問題行動が今日も出てしまったらしい。ただその原因はすぐに分かった。服部先生も対応に困り果てた様子だったが、彼女の説明を要約するとこんな感じだ。
・ 美桜が園内の特定の女児に嫌がらせを行っている。
・ それを
・ その報復として、嫌がらせをしていた女児に手をあげていた。
・ 上述の男児は実力行使で美桜を止め、それが原因で怪我をした。
・ 他の園児たちから責め立てられ、美桜は幼稚園の裏手に逃げ出した。
・ 先生が追いかけると、裏手で意識を失って倒れていた。
・ 今後の展開次第では美桜の退園を要求されるかもしれない。
「なっ――家の美桜が、他の子に嫌がらせだなんて――」
「……私も信じられません。美桜ちゃんを当園にお預かりして二ヶ月弱ほどになりますが……最初は明るく
服部先生の横でそれまで黙っていた園長先生が静かに、だが
「それで、現在そのいじめに
「……まず、事実確認をして、はっきりといじめていたと分かればそうします。ですが――」
「仮に美桜ちゃんの態度が今後も改まらないようであれば、申し訳ございませんが……」
「……何ですかそれ。私たちの意向はまるで無視ですか。それは――」
「あの、お父様、どうか落ち着いてください。当園としてもいきなりそのようなことは」
「服部先生、今は私がご両親とお話をしておりますのよ」
「……し、失礼致しました」
園長先生にたしなめられ、元々小柄な体がさらに縮こまってしまっている。だが、俺たちもここで引き下がる訳にはいかない――と思ったらそれまで黙っていた明奈が口を開いた。
「あの、あまりにも横暴やと思います。ウチの美桜が何か悪いことをしたのであればもちろん親としてしっかり教育はしますよ。ですけど、まだ私たち、美桜に直接聞いてないのに――」
「はい。お母様のおっしゃることは大変ごもっともです。私としてもできるかぎり――」
「服部先生」
「――っ、済みません」
担任の服部先生が対応しようとするたび、園長先生の鋭く厳しい
(もしかしたら園長先生は、服部先生に何も話させたくないのか……?)
「とにかく、お父様とお母様には親としての責任をご自覚いただき、美桜ちゃんのことをぜひお願い致したく、どうかよろしくお願い申し上げます。最悪の場合には退園勧告を出さざるを得ないという状況もありえますので、どうぞご留意ください」
最後は園長先生が反論を許さぬ空気をまといながら、軽く頭を下げて〝お願い〟してきた。俺たちはそれ以上の言葉を
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺と明奈が一旦家に戻ったタイミングで、明奈の携帯が鳴った。見ればさっき面談していた服部先生からの通話だった。明奈はやや気が立った口調で応答し、一言二言を重ねたところで『進ちゃん、ちょっとスピーカーにする』と言ってきた。
「突然申し訳ありません、お父様、お母様。私、どうしても伝えなければならないことが」
「あの、どうしはったんですか? 服部先生、今お仕事中では――」
「遅めですが昼休みをいただきましたので、少しなら大丈夫です。それで、お話なんですが」
そこからもたらされた話は
・ とある女児が特定の男児から嫌がらせを受けていた。
・ それを
・ 男児は美桜に対して暴力を振るった。
・ 暴力を振るった場所が悪く、美桜は階段から転落した。
・ 美桜は医務室に運ばれ、養護教諭から
・ 火戸先生が駆けつけ、診察を行おうとすると美桜が目を覚ました。
・ 今は医務室で安静にしているが、できるだけ早く迎えにきたほうがいい。
・ 一連の出来事の後、園長先生から男児の保護者に連絡がいった。
・ 男児の保護者は事件の
「な――何ですかそれ!!」
「でっち上げもいいとこやないの! ウチの美桜がそんなことする訳ないと思ったわ……!」
「はい、本当にお詫びのしようもございません。ですが、園長先生からの強い意向でこの話は一切他言無用と申し渡されているのですけど……どうしても私、我慢ができなかったんです」
聞けば、その男児の保護者は毎年幼稚園に多額の寄付金を寄せ、時折オモチャや設備なども寄進しているとのことで、園長先生の立場からすると頭が上がらないお方のようだった。だがだからといって美桜に濡れ衣を着せてすべて闇に
「そして、美桜ちゃんとその男児がいさかいを起こした際、男児が美桜ちゃんに心無い言葉を多数投げつけているのは私も聞きました……とてもひどい内容です」
『オバケ屋敷のオバケ娘』
『触ったら不幸が伝染る』
『よそ者は町から出てけ』
これだけでも子供特有の容赦なさというか残酷さが浮き彫りになっているのがよく分かる。しかし、この男の子が言った〝オバケ屋敷〟は、当てずっぽうではないように思われた。俺もこの家に対して最近そう思うことが増えてきたし、確信に近づいてもいたからだ。
「あ、あの、服部先生。こないな話を教えてくださるのはウチとしてはありがたいのですが、こんなことして、服部先生はホンマに大丈夫なんですか?」
「……バレたら退職かもしれませんね。ですがもしそうなったら告発してやろうと思います。やってもいないことで子供の未来と心を
「……服部先生、ホンマにありがとうございます。今話を聞かせて貰えんかったら、私たちはきっと美桜をひどく傷つけていたと思いますから」
その後、昼休みが終わるといって服部先生は通話を切った。俺と明奈は『退園させよう』と意見が一致し、とりあえずは意識が回復した美桜を幼稚園から引き取ってきた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その夜、俺たちにとって我慢ならない出来事が起こった。
「よろしいですか、こちらも本当に迷惑しておりますのよ。だいたい――」
その苦情は服部先生が〝園長先生の見ている前で〟説明していた話をなぞったものだった。被害届の提出も辞さない勢いで
幼稚園の先生から聞いていた〝本当の〟話と真逆の展開を聞かされた俺は頭に血が昇った。こんな嘘八百を並べ立てられた挙げ句に謝れ、誠意を見せろ、などと
「私が幼稚園の先生から伺った話とかなり違うようですが。そもそもの話、始めたのはお宅のお孫さんからだったと聞いていますけど?」
本当ならこんなことを言ってしまえば間違いなく服部先生に迷惑がかかるだろう。しかし、あまりに
「なっ、何をおっしゃいますの!? 一体どこからそのような根も葉もない嘘が出てきたの? こちらにいらっしゃる吉田さんたちご両親が、お嬢ちゃんから聞いたと
「え、ええ……木下さんの、
「ほら、ご覧なさいな。いじめを受けているお嬢ちゃんのご両親が間違いないと、こうやってて
大事になって取り返しがつかなくなる前に自治会で穏便に手打ちをしようと取りなしたのに泥をなすりつけるおつもりですか、などとまくし立てられ、俺はもう言うべき言葉を失った。しかしそんな横暴に屈する訳にもいかない。俺は美桜がそんなことをするような子でないのを知っているし、目の前の女性に嫌味や文句を言われる筋合いなんかない。
「そちらの言い分はお伺いしました。私としてもことの真相には非常に興味がありますので、後日
「なっ――ですからそういった大事にしてしまってはお互いに生活がしづらいでしょうから、自治会の中で穏便に済ませてあげようという私の図らいを無下になさるおつもりなの?」
「申し訳ありませんけど、そちらの言い分はそちらの言い分として、こちらにも当然こちらの言い分があります。現状で意思の
「ばっ――馬鹿をおっしゃい! そんなことをすればあなた、どうなるか分かって……」
「どうなるんでしょう? それは脅迫として受けとってもいいんですか?」
「――っ……もうご勝手になさればよろしいです。夜分遅く失礼致しました。参りましょう、吉田さん!」
「……全部聞こえとったよ。塩まこか」
二階で美桜を見守っていた明奈が降りてくる。正直俺もそうしたい気分だったが、正直な所その塩すらもったいない気がしていた。ただこういうことは自分の気分を晴らし清める意味が強いので、俺は明奈のやりたいようにやらせた。
……それにしても。自治会はいよいよもって、あからさまにこちらを敵視し始めたようだ。冷静にそんな評価をしている場合ではもちろんないのだけど、事態が
とはいっても状況は深刻だ。個人的な感情でいえば、俺はもうこの家から出たい。ここ最近この家でよくないことが降り掛かっている感じがする。自治会の主だった面々とは折り合いが悪くなり、はっきりとこうして
ことが俺だけの話ならまだしも、美桜が幼稚園で危害に加えられるとなれば、
しかし、だからといって貯蓄を崩して
俺には決断ができなかった。
「――あの時、破格な条件に飛び乗ってしまったのがいけなかったのかな……」
「進ちゃん……」
――いや、絶対にそんなはずはない。
オバケめいた気配だの何だのは差しおいても、近所付き合いの観点だけで言えば、俺たちは何も悪くなかったはずだ。少なくとも〝何かが悪かったとして、それを話し合う機会くらいは与えてくれて
「
「私はもう美桜に何かあったらとか関係なく、あの木下さんの態度は許せへんよ。進ちゃんにあないな態度を取って嘘八百言いたい放題やったんは一生忘れへん」
「……まさかあんな人だとは思わなかった。いずれにしても、本当にどうにかしないとな……俺たちの生活と美桜を守るために。ホント、何とかしたい。心からそう思うよ……」
俺は深いため息をつきながら肩を落として自分たちの将来を
――二階で充電していたスマホが〝ポコン〟と鳴っていたのが聞こえた気がしたが、今の俺にそんなことを構っていられる余裕などなかった。
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