六十一日目

 数日前から家の中でおかしなことが頻発ひんぱつしている。明奈あきなが神経をとがらせているのは二つで、一つは床下、もう一つは押し入れが舞台となっていた。


『なあ進ちゃん、床下で水漏れしとるみたい。ピチャ、ピチャって音が聞こえるんよ』


 キッチンに一番立つ機会の多い明奈が困り顔で床下を調べてくれと頼んできた。床下収納を取り外して中を確認してみたのだがどこにも水たまりはなく、漏水ろうすいしているような気配は一切見当たらなかった。ただそれとは別にその時になって初めて分かった〝変なこと〟があった。

 家の中央に立つ大黒柱が建屋の規模からすると若干直径が大きいのは、家を買った当初から思っていたことだったのだが、正確にはそれは〝大黒柱に見えなかった〟。俺が見たその柱はまるで〝円柱状の〟〝石垣のようなものでできた〟〝構造物〟の上に乗せられた、蓋のような印象があった。そしてその円柱状の構造物に古ぼけた縄のようなものが巻き付けられている。考えたくはないが、俺はそんな形をしたものに心当たりがある。

 ――大昔に一世を風靡したホラー映画に出てきた、あの――


『ま……まさか――な』


 俺は不穏な想像を無理やり振り解くようにかぶりを振り、頭にクモの巣をかけながら上体をあげ〝何ともないよ〟と伝えてその時は終わった。だがそれ以降も家族全員が出所不明の漏水ろうすい音を耳にするという不気味な経験をしている。


 そしてもう一つの異変は、気がつくと玲央れお遺影いえい美桜みおの部屋の押し入れに移動するというものだった。美桜に何度も確認したが彼女は一度も遺影いえいを触っていないという。そんなウソをつく意味もないので、美桜は本当に遺影いえいを持っていっていないのだろう。であれば一体誰が、そんな真似をしているのだろうか――


 俺と明奈はここにきて、この家に何かよからぬモノがいるのではないかと疑い始めた。だがそれは奇しくも〝玲央をうしなった明奈の陰気いんきを他に散らす〟作用も果たしている。当然どちらもよくないものであるのは間違いないのだが、塞ぎ込んでしまうよりはマシなのかもしれない。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 家の中の空気が徐々によどみ始め、再び天気が機嫌を損ねる。空に分厚いヴェールがかかって大地を濡らし続けたとある日に、俺は再び美桜が通う幼稚園に呼ばれた。今日は明奈も一緒にきている。先日、過労と心労がたたって勤め先で倒れて病院に担ぎ込まれてから、少なくとも今週いっぱいは休むようにと半分強制的に休みを取っていた。


「どうも、お待たせ致しました」


 園長先生に続いて、美桜の担任である服部はっとり先生が書類フォルダを小脇に抱え入室してきた。その顔は心なしか強張こわばっており、俺は今から聞かされる話の内容に不穏なものを感じ取った。まず先だって亡くなった息子についてお悔やみを述べられ、それから本題が始まった。

 先の予感は残念ながら的中し、俺と明奈は驚愕きょうがくと困惑が手を取り合い踊っている舞台を観る哀れな観客と成り果ててしまった。


「まずお父様お母様に申し上げておかなければならないことがあります。美桜ちゃんは今日、前回もお伝えした行動に出ておりました。園の裏側に隠れて――」


 美桜が時折起こす問題行動が今日も出てしまったらしい。ただその原因はすぐに分かった。服部先生も対応に困り果てた様子だったが、彼女の説明を要約するとこんな感じだ。

 ・ 美桜が園内の特定の女児に嫌がらせを行っている。

 ・ それを見咎みとがめた特定の男児に止めるよう注意されると泣き始めた。

 ・ その報復として、嫌がらせをしていた女児に手をあげていた。

 ・ 上述の男児は実力行使で美桜を止め、それが原因で怪我をした。

 ・ 他の園児たちから責め立てられ、美桜は幼稚園の裏手に逃げ出した。

 ・ 先生が追いかけると、裏手で意識を失って倒れていた。

 ・ 今後の展開次第では美桜の退園を要求されるかもしれない。


「なっ――家の美桜が、他の子に嫌がらせだなんて――」

「……私も信じられません。美桜ちゃんを当園にお預かりして二ヶ月弱ほどになりますが……最初は明るく利発りはつな子で、周りとも溶け込んでいたように認識しておりましたのに」


 服部先生の横でそれまで黙っていた園長先生が静かに、だが毅然きぜんとした口調で美桜の印象を語り始める。服部先生はその言葉を聞きながら、唇をきつく噛み締めていた。


「それで、現在そのいじめにった女児の保護者と、それを止めようとした男児の保護者の両名から、厳しい対応を求められております。ただ当園と致しましても何とか双方に歩み寄りを見せていただき、美桜ちゃんの態度についてご家庭で話し合っていただければと存じます」

「……まず、事実確認をして、はっきりといじめていたと分かればそうします。ですが――」

「仮に美桜ちゃんの態度が今後も改まらないようであれば、申し訳ございませんが……」

「……何ですかそれ。私たちの意向はまるで無視ですか。それは――」

「あの、お父様、どうか落ち着いてください。当園としてもいきなりそのようなことは」

「服部先生、今は私がご両親とお話をしておりますのよ」

「……し、失礼致しました」


 園長先生にたしなめられ、元々小柄な体がさらに縮こまってしまっている。だが、俺たちもここで引き下がる訳にはいかない――と思ったらそれまで黙っていた明奈が口を開いた。


「あの、あまりにも横暴やと思います。ウチの美桜が何か悪いことをしたのであればもちろん親としてしっかり教育はしますよ。ですけど、まだ私たち、美桜に直接聞いてないのに――」

「はい。お母様のおっしゃることは大変ごもっともです。私としてもできるかぎり――」

「服部先生」

「――っ、済みません」


 担任の服部先生が対応しようとするたび、園長先生の鋭く厳しい叱責しっせきが飛んできて、先生が口をつぐんでしまう。その構図に俺はよからぬ考えを持ってしまった。


(もしかしたら園長先生は、服部先生に何も話させたくないのか……?)


「とにかく、お父様とお母様には親としての責任をご自覚いただき、美桜ちゃんのことをぜひお願い致したく、どうかよろしくお願い申し上げます。最悪の場合には退園勧告を出さざるを得ないという状況もありえますので、どうぞご留意ください」


 最後は園長先生が反論を許さぬ空気をまといながら、軽く頭を下げて〝お願い〟してきた。俺たちはそれ以上の言葉をつむぐことができず、園長先生の横で悔しそうにしている服部先生の涙目が妙に印象に残ったまま、面談は終了した。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 俺と明奈が一旦家に戻ったタイミングで、明奈の携帯が鳴った。見ればさっき面談していた服部先生からの通話だった。明奈はやや気が立った口調で応答し、一言二言を重ねたところで『進ちゃん、ちょっとスピーカーにする』と言ってきた。


「突然申し訳ありません、お父様、お母様。私、どうしても伝えなければならないことが」

「あの、どうしはったんですか? 服部先生、今お仕事中では――」

「遅めですが昼休みをいただきましたので、少しなら大丈夫です。それで、お話なんですが」


 そこからもたらされた話は驚天動地きょうてんどうちの極みにある内容だった。さきほど幼稚園で聞かされた話とすべてが真逆だったのだ。

 ・ とある女児が特定の男児から嫌がらせを受けていた。

 ・ それを見咎みとがめた美桜が男児に止めるよう注意した。

 ・ 男児は美桜に対して暴力を振るった。

 ・ 暴力を振るった場所が悪く、美桜は階段から転落した。

 ・ 美桜は医務室に運ばれ、養護教諭から火戸ひど医院に連絡がいった。

 ・ 火戸先生が駆けつけ、診察を行おうとすると美桜が目を覚ました。

 ・ 今は医務室で安静にしているが、できるだけ早く迎えにきたほうがいい。

 ・ 一連の出来事の後、園長先生から男児の保護者に連絡がいった。

 ・ 男児の保護者は事件の隠蔽いんぺいを園長先生に依頼した。


「な――何ですかそれ!!」

「でっち上げもいいとこやないの! ウチの美桜がそんなことする訳ないと思ったわ……!」

「はい、本当にお詫びのしようもございません。ですが、園長先生からの強い意向でこの話は一切他言無用と申し渡されているのですけど……どうしても私、我慢ができなかったんです」


 聞けば、その男児の保護者は毎年幼稚園に多額の寄付金を寄せ、時折オモチャや設備なども寄進しているとのことで、園長先生の立場からすると頭が上がらないお方のようだった。だがだからといって美桜に濡れ衣を着せてすべて闇にほうむり去ろうとする行いが正当化されることは到底許容できるものではなかった。


「そして、美桜ちゃんとその男児がいさかいを起こした際、男児が美桜ちゃんに心無い言葉を多数投げつけているのは私も聞きました……とてもひどい内容です」


『オバケ屋敷のオバケ娘』

『触ったら不幸が伝染る』

『よそ者は町から出てけ』


 これだけでも子供特有の容赦なさというか残酷さが浮き彫りになっているのがよく分かる。しかし、この男の子が言った〝オバケ屋敷〟は、当てずっぽうではないように思われた。俺もこの家に対して最近そう思うことが増えてきたし、確信に近づいてもいたからだ。


「あ、あの、服部先生。こないな話を教えてくださるのはウチとしてはありがたいのですが、こんなことして、服部先生はホンマに大丈夫なんですか?」

「……バレたら退職かもしれませんね。ですがもしそうなったら告発してやろうと思います。やってもいないことで子供の未来と心をじ曲げるなんて行い、私はとても許せませんから」

「……服部先生、ホンマにありがとうございます。今話を聞かせて貰えんかったら、私たちはきっと美桜をひどく傷つけていたと思いますから」


 その後、昼休みが終わるといって服部先生は通話を切った。俺と明奈は『退園させよう』と意見が一致し、とりあえずは意識が回復した美桜を幼稚園から引き取ってきた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 その夜、俺たちにとって我慢ならない出来事が起こった。木下きのしたさんと近所に住む吉田よしださんというご夫婦が家に押しかけ、強い口調で苦情を言ってきた。美桜を階段から突き落とした子の名前は服部先生も言わずじまいだったのだが、図らずもそれがどこのご家庭なのかはっきりとした瞬間でもあった。


「よろしいですか、こちらも本当に迷惑しておりますのよ。だいたい――」


 その苦情は服部先生が〝園長先生の見ている前で〟説明していた話をなぞったものだった。被害届の提出も辞さない勢いでいきどおる吉田さんを木下さんがなだめて、もう一度だけチャンスをやろう、まず苦情を伝えて態度を改めるようお願いしようと説得してここまでやってきた……というのがあらましだった。

 幼稚園の先生から聞いていた〝本当の〟話と真逆の展開を聞かされた俺は頭に血が昇った。こんな嘘八百を並べ立てられた挙げ句に謝れ、誠意を見せろ、などと厚顔無恥こうがんむちはなはだしい。


「私が幼稚園の先生から伺った話とかなり違うようですが。そもそもの話、始めたのはお宅のお孫さんからだったと聞いていますけど?」


 本当ならこんなことを言ってしまえば間違いなく服部先生に迷惑がかかるだろう。しかし、あまりに傲然ごうぜんとした物言いで尊大な要求を突きつけられ、あまつさえ俺たちに誠意を見せろと横暴な話を吹っ掛けられては、到底我慢できるものではなかった。俺は内心で服部先生に深く謝りつつ、感情のままにあふれ出る言葉を吐き出した。


「なっ、何をおっしゃいますの!? 一体どこからそのような根も葉もない嘘が出てきたの? こちらにいらっしゃる吉田さんたちご両親が、お嬢ちゃんから聞いたとおっしゃっているのですよ? ねえ、吉田さん。お嬢ちゃんはこちらの美桜ちゃんにいじめを受けて幼稚園に行きたくないと泣いておられるのでしたわよね?」

「え、ええ……木下さんの、おっしゃるとおりです」

「ほら、ご覧なさいな。いじめを受けているお嬢ちゃんのご両親が間違いないと、こうやってておっしゃっておりますの。それを何ですかあなたは! お嬢ちゃんのいじめを認めないどころか、言うに事欠いてうちの晃汰こうたがいじめをしたなどと、言いがかりもはなはだしいですわよ!」


 大事になって取り返しがつかなくなる前に自治会で穏便に手打ちをしようと取りなしたのに泥をなすりつけるおつもりですか、などとまくし立てられ、俺はもう言うべき言葉を失った。しかしそんな横暴に屈する訳にもいかない。俺は美桜がそんなことをするような子でないのを知っているし、目の前の女性に嫌味や文句を言われる筋合いなんかない。


「そちらの言い分はお伺いしました。私としてもことの真相には非常に興味がありますので、後日しかるべきところで、しかるべき方々を証人に、話し合いを致しましょう」

「なっ――ですからそういった大事にしてしまってはお互いに生活がしづらいでしょうから、自治会の中で穏便に済ませてあげようという私の図らいを無下になさるおつもりなの?」

「申し訳ありませんけど、そちらの言い分はそちらの言い分として、こちらにも当然こちらの言い分があります。現状で意思の疎通そつうが十分になされるとは思えませんので、これ以上ここで水掛け論に時間を使うより、スパッとお互いにわかりやすい形で決着をつけましょうよ」

「ばっ――馬鹿をおっしゃい! そんなことをすればあなた、どうなるか分かって……」

「どうなるんでしょう? それは脅迫として受けとってもいいんですか?」

「――っ……もうご勝手になさればよろしいです。夜分遅く失礼致しました。参りましょう、吉田さん!」


 憤懣ふんまんやる方ないといった体で木下さんがツカツカと帰っていく。その後ろを、まるで気弱な従者のように付き従っていた吉田さんご夫婦がチラとこちらを一瞥いちべつし、わずかにお辞儀をして去っていった。あの様子だと吉田さんも木下さんの仕立て上げた物語の片棒を担がされたか。


「……全部聞こえとったよ。塩まこか」


 二階で美桜を見守っていた明奈が降りてくる。正直俺もそうしたい気分だったが、正直な所その塩すらもったいない気がしていた。ただこういうことは自分の気分を晴らし清める意味が強いので、俺は明奈のやりたいようにやらせた。


 ……それにしても。自治会はいよいよもって、あからさまにこちらを敵視し始めたようだ。冷静にそんな評価をしている場合ではもちろんないのだけど、事態が切羽せっぱ詰まれば詰まるほど頭が落ち着いていくのは一体どういう原理なのだろうといつも思う。

 とはいっても状況は深刻だ。個人的な感情でいえば、俺はもうこの家から出たい。ここ最近この家でよくないことが降り掛かっている感じがする。自治会の主だった面々とは折り合いが悪くなり、はっきりとこうして排他的はいたてきな態度を見せ始めている。

 ことが俺だけの話ならまだしも、美桜が幼稚園で危害に加えられるとなれば、流石さすがに黙って見ている訳にもいかない。


 しかし、だからといって貯蓄を崩して清水きよみずの舞台から飛び降りる思いで購入したこの家を、自分の居城を失ってしまっていいものか……自分の仕事がしっかり軌道に乗っていないのに、軽挙けいきょで一家を路頭に迷わせかねないことになってしまってもいいのだろうか――


 俺には決断ができなかった。


「――あの時、破格な条件に飛び乗ってしまったのがいけなかったのかな……」

「進ちゃん……」


 ――いや、絶対にそんなはずはない。

 オバケめいた気配だの何だのは差しおいても、近所付き合いの観点だけで言えば、俺たちは何も悪くなかったはずだ。少なくとも〝何かが悪かったとして、それを話し合う機会くらいは与えてくれてしかるべき〟じゃないか。一体何がここまで自治会の態度を硬化させたのだろう、いまだに分からない。


土田つちださんも水島みずしまさんも様子がおかしかったけど、今度は木下さんかよ。美桜に何かあったら本当に許さないからな。あんな嘘まで並べ立てて……」

「私はもう美桜に何かあったらとか関係なく、あの木下さんの態度は許せへんよ。進ちゃんにあないな態度を取って嘘八百言いたい放題やったんは一生忘れへん」

「……まさかあんな人だとは思わなかった。いずれにしても、本当にどうにかしないとな……俺たちの生活と美桜を守るために。ホント、何とかしたい。心からそう思うよ……」


 俺は深いため息をつきながら肩を落として自分たちの将来をうれえた。明奈はそんな俺の肩を優しくで、何とかなるし何とかしようと励ましてくれた。その優しさが俺には嬉しかった。


 ――二階で充電していたスマホが〝ポコン〟と鳴っていたのが聞こえた気がしたが、今の俺にそんなことを構っていられる余裕などなかった。

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