四十三日目
仕事でトラブルが発生したのとここ最近のストレス続きで体調があまり
そして、まだ病院で診断した訳ではないものの、明奈が子供を授かった。検査薬で調べたら陽性が出たと本人はいっていたが、その話を聞いた時の俺の喜びはひとしおだった。
さらに、こちらは完全に予想外で家族全員びっくりしたが、クロノアも子供ができていた。避妊手術の日程を決めるために動物病院に行ったらそこで妊娠が発覚したのだった。もちろん出産して落ち着くまでは避妊ができないと言われ、順調にいけば多分あと五から六週間後には産まれるだろうとのことで、この話を一番喜んだのは
こうして最近不運や悪いことが続きっぱなしだった我が家に訪れた明るいニュースに、皆の笑顔が戻ってくる。やはり人生は楽しくなければ大損だと、俺は実感した。
鼻歌まじりでウィスカーを振って湯せんをしている彼女の背中を見ていると、本当に料理が好きなんだなと感心する一方で、少し〝料理
明日主役になる予定の玲央は美桜と一緒に二階でクロノア相手に遊んだりしているようで、時折黄色い声が聞こえてくる。一般的な家庭の週末という感じで、ホントに久々の心安らかな一日が過ごせそうだ。
「
と、珍しく頼まれごとをした俺はリビングの椅子から立ち上がり、彼女の指示に従って手をしっかり冷やしてから、力いっぱいホイップを泡立てるのだった。
□■□■□■□■□■□■□■□■
明日は朝早くから玲央のプレゼントを買いに行くため、俺はいつもより早く寝床についた。洗ったばかりの枕の匂いが心地よく、俺に安眠をもたらしてくれた。
――しかし、その枕は、その後のことについては何も保証してくれていなかった。
――変な夢を見た。
いつの時代か、どこの家かも分からない部屋の中、お手玉をしている夢だ。
目の前には木で作られた
時折和服姿の
俺はそれを黙って食べ、ひたすらお手玉に
俺はその時、自分が何故か
意識が飛び、今度はどこかの住宅街を歩いていた。
時代が違うのだろうか、電柱も電線も見当たらない。道の両端には古びた民家が立ち並ぶ。どの家にも
また場面が切り替わり、今度は立派な神社がある。心なしか足取りも軽い。
俺の記憶にはない所だったが、どことなく
また意識が飛んで、再びどこかの家の部屋の中でお手玉をしている。
すると
男は俺の首を
その後、男は和服を荒々しく脱ぎ始め――俺に
そこからは何故か痛くて、辛くて、苦しくて、臭くて、嫌な気分しかしなかった。
そして……意識はそこで途切れる。
完全に夢から覚める前に、誰かの声を聞いた。
聞いたことのない声で、少女のようにも老婆のようにも聞こえた。天使のように清らかでも
〝――貴様らは全員――この家に住まう
今度こそ、俺の夢はそこで終わりを迎え――何かに強く揺さぶられて目を覚ました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
少し
「ちょ、あ、明奈、どうした――」
「進ちゃんっ!! 玲央がっ、玲央がっ、おかしいんよ!!」
「えっ、どういうことだ!?」
あまりの事態に俺は飛び起き、寝室の
「ぱっ、パパっ!! 玲央が!! 玲央が苦しそうなの!! パパ!! 助けて!!」
「美桜っ、そこどいて!」
玲央は美桜のベッドの上で喉を押さえ、苦しそうにもがいていた。咳が出ている訳でもなくただ呼吸ができていないような感じで、顔面は
「ゴホッ――ゴボッ…………ヴァ、ヴァヴァ――」
「
俺は玲央がうわ言を話そうとするのを押し留め、
「玲央っ、玲央っ、しっかりしてっ! 今救急車きたからねっ! 助かるからね、玲央!」
「済みません、奥さん! そこをどいて!」
「やっぱりか。すぐに起こして酸素吸入を。ストレッチャー用意して。車内で経過観察する。片岡は○○病院に搬送できるかすぐに聞いて!」
「了解」
ほどなく救急隊員が駆けつけ、症状を見て応急処置を試みると同時に受け入れ可能な病院に連絡を取り始めた。玲央はベッドの上に座るように起こされ、酸素吸入処置が取られる。
「失礼します、僕、
騒ぎを聞きつけたのだろう、自治会の火戸さんが血相を変えて駆けつけてきた。隊員たちと何かを話し合ったあと、玲央の様子を見て頭を抱えている。その後は救急隊員に指示を出して地域の根幹病院に連絡を飛ばすなど、八方手を尽くして救命活動にあたってくれた。
――しかし、その懸命の処置も
……美桜は泣き叫び、明奈は膝から崩れ落ちた。クロノアはケージの一番奥に引っ込んで、小刻みに震えながら様子を
「玲央っ、玲央っ、玲央っ――」
ただただ
その時、俺のスマホから
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
応急処置が間に合わなかった救急隊員は警察に通報した。自宅で誰かが死亡した時には先ず警察が事件性の有無を調べなければならないのだとその時に初めて知った。深夜にも関わらず二人の刑事と医者らしき人が二階に上がり込んでくる。
泣きじゃくりとおしだった美桜は火戸さんの奥さん――
「○○署捜査第一課の
「あ、あの、広瀬さん」
広瀬と名乗った刑事さんが泣きじゃくって自失している俺と明奈に向かって語りかけた時、俺たちの後ろで黙っていた火戸さんがそれを
「ああ、火戸さんでしたか。いつもお世話になっとります。もしかして、火戸さんがこちらにいらっしゃるということは、やっぱりこの子は――」
「ええ、そうです。僕が担当していた子です」
「えっ、火戸さん――」
彼の言葉に驚き、その真意を
「……ほんで、最後に診察なさったのはいつですか」
「今は日が変わっておりますので、前日の午後診です。二十四時間は経っていません」
「……なるほど、承知しました。ほんなら検視は必要なさそうですな。我々は引き上げます。おい、帰るで」
一緒にきていた医師らしき人が道具を取り出していたのをしまい込み、警察は軽く
「あ、あの、火戸さん。何でうちの子が火戸さんにかかっていたとウソを……」
「とっさのことで済みません。実はですね、警察からの検視が入った際は死亡診断書ではなく
「は、はあ……」
「今回、玲央君は明らかに病死でしたので、私が担当医だと伝えれば、検視をしなくとも私が死亡診断書をお渡しすることができます。警察もそのほうが楽ですし、何より手っ取り早い」
子供が息を引き取った様を目の前で見せつけられた今の俺に〝手っ取り早い〟という言葉は
――前にもあった?
それを受けて思い返すと、救急隊員が不穏な言葉を発していたのが気にはなっていた。
〝やっぱりか〟
やっぱりというのはどういうことだ? その救急隊員は前にも似たような事案に出動して、処置を行っていたかもしれない。でもそれだけで〝やっぱり〟なんて言うだろうか。それこそ〝何度も〟繰り返すくらいの事態でなければ……
どうしても何かが引っかかる。何だろう、この薄気味悪さというか収まりの悪さというか、形容しがたい違和感というのは――
「――では、僕は一旦病院に向かいます。念のためもう一度診察して死亡診断書を書きます」
「えっ、ええ、分かりました。どうかよろしくお願いします」
「すぐに戻って参ります。夏美は奥さんと美桜ちゃんのケアのために置いていきますからね。ああ、あと、玲央君は大変申し訳ないが、僕が戻るまでそっとしておいてください」
そう言って、火戸さんは階段を静かに降りていった。俺は今もへたり込んで涙を流している明奈の横に座り、肩を抱き寄せて彼女を支えた。この短い間で玲央の身に何が起きたのか――いまだにしっかりと理解も納得もできていない。
ああ……玲央、玲央。
どうしてこんなことになってしまったんだ……?
俺はその時、あまりの出来事から受けた衝撃で直前まで見ていた夢の内容をすっかり忘却の彼方に投げ捨て去ってしまっていた。
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