四十三日目

 仕事でトラブルが発生したのとここ最近のストレス続きで体調があまりかんばしくない明奈あきなは久々に上機嫌でキッチンに立っていた。息子の玲央れおが明日五歳の誕生日を迎えるので、自作のケーキを作ったりあれこれと仕込みを進めたりしている。

 そして、まだ病院で診断した訳ではないものの、明奈が子供を授かった。検査薬で調べたら陽性が出たと本人はいっていたが、その話を聞いた時の俺の喜びはひとしおだった。

 さらに、こちらは完全に予想外で家族全員びっくりしたが、クロノアも子供ができていた。避妊手術の日程を決めるために動物病院に行ったらそこで妊娠が発覚したのだった。もちろん出産して落ち着くまでは避妊ができないと言われ、順調にいけば多分あと五から六週間後には産まれるだろうとのことで、この話を一番喜んだのは美桜みお、次いで玲央だった。


 こうして最近不運や悪いことが続きっぱなしだった我が家に訪れた明るいニュースに、皆の笑顔が戻ってくる。やはり人生は楽しくなければ大損だと、俺は実感した。

 鼻歌まじりでウィスカーを振って湯せんをしている彼女の背中を見ていると、本当に料理が好きなんだなと感心する一方で、少し〝料理奉行ぶぎょう〟気質が強いのか俺が手伝おうとすると逆に邪魔になるといって触らせてくれないのがさびしかったりもする。


 明日主役になる予定の玲央は美桜と一緒に二階でクロノア相手に遊んだりしているようで、時折黄色い声が聞こえてくる。一般的な家庭の週末という感じで、ホントに久々の心安らかな一日が過ごせそうだ。


しんちゃん、仕込み手伝いたいって言ってたやんな? ちょっとこれお願いできる?」


 と、珍しく頼まれごとをした俺はリビングの椅子から立ち上がり、彼女の指示に従って手をしっかり冷やしてから、力いっぱいホイップを泡立てるのだった。


 □■□■□■□■□■□■□■□■


 明日は朝早くから玲央のプレゼントを買いに行くため、俺はいつもより早く寝床についた。洗ったばかりの枕の匂いが心地よく、俺に安眠をもたらしてくれた。

 ――しかし、その枕は、その後のことについては何も保証してくれていなかった。


 ――変な夢を見た。

 いつの時代か、どこの家かも分からない部屋の中、お手玉をしている夢だ。

 目の前には木で作られたおりがあり、しめ縄が飾られている。

 時折和服姿の老翁ろうおうが入ってきては、漆器しっきに乗せたおはぎを目の前に差し出してくる。

 俺はそれを黙って食べ、ひたすらお手玉にきょうじていた。

 俺はその時、自分が何故かさびしい、つまらない感情に支配されていたように思う。


 意識が飛び、今度はどこかの住宅街を歩いていた。

 時代が違うのだろうか、電柱も電線も見当たらない。道の両端には古びた民家が立ち並ぶ。どの家にも軒先のきさきに竹筒が吊り下げられている――そんなところをゆっくり歩いていた。

 また場面が切り替わり、今度は立派な神社がある。心なしか足取りも軽い。

 俺の記憶にはない所だったが、どことなく郷愁きょうしゅうを誘う風景だった。


 また意識が飛んで、再びどこかの家の部屋の中でお手玉をしている。

 するとおりの中に壮年の男性が入ってきた。その男を見ると怖気おぞけが走る。

 男は俺の首をつかんで持ち上げ、そのまま部屋の奥へ引っ張っていった。

 その後、男は和服を荒々しく脱ぎ始め――俺におおいかぶさってくる。

 そこからは何故か痛くて、辛くて、苦しくて、臭くて、嫌な気分しかしなかった。

 そして……意識はそこで途切れる。


 完全に夢から覚める前に、誰かの声を聞いた。

 聞いたことのない声で、少女のようにも老婆のようにも聞こえた。天使のように清らかでも娼婦しょうふのようにあでやかでもあった。その声を聞いていると頭の芯がクラクラする感覚があった。


〝――貴様らは全員――この家に住まう男児おのこは――〟


 今度こそ、俺の夢はそこで終わりを迎え――何かに強く揺さぶられて目を覚ました。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 少し朦朧もうろうとした意識でまぶたを開けると、俺の片腕をつかんで必死に揺さぶっている明奈がいた。消したはずの電気はけられ、明奈の顔は涙と混乱に濡れてしまっている。


「ちょ、あ、明奈、どうした――」

「進ちゃんっ!! 玲央がっ、玲央がっ、おかしいんよ!!」

「えっ、どういうことだ!?」


 あまりの事態に俺は飛び起き、寝室のふすまを叩きつけるように開けた。二階から美桜の絶叫が聞こえてくる。俺がスマホを慌てて取り出すと、明奈がもう救急車に連絡をしていたらしい。俺はがたなで子供部屋に駆け上がった。


「ぱっ、パパっ!! 玲央が!! 玲央が苦しそうなの!! パパ!! 助けて!!」

「美桜っ、そこどいて!」


 玲央は美桜のベッドの上で喉を押さえ、苦しそうにもがいていた。咳が出ている訳でもなくただ呼吸ができていないような感じで、顔面は蒼白そうはく、唇が紫色に変色してしまっている。


「ゴホッ――ゴボッ…………ヴァ、ヴァヴァ――」

しゃべるなっ! パパに任せろ!」


 俺は玲央がうわ言を話そうとするのを押し留め、躊躇ちゅうちょなく人工呼吸を試みたが、その効果は薄かったどころか何もないように見えた。頭が真っ白で次に何をすべきかが思いつかない俺の耳に、遠くからサイレンの音が飛び込んでくる。


「玲央っ、玲央っ、しっかりしてっ! 今救急車きたからねっ! 助かるからね、玲央!」

「済みません、奥さん! そこをどいて!」

「やっぱりか。すぐに起こして酸素吸入を。ストレッチャー用意して。車内で経過観察する。片岡は○○病院に搬送できるかすぐに聞いて!」

「了解」


 ほどなく救急隊員が駆けつけ、症状を見て応急処置を試みると同時に受け入れ可能な病院に連絡を取り始めた。玲央はベッドの上に座るように起こされ、酸素吸入処置が取られる。


「失礼します、僕、火戸ひど医院の火戸明信ひどあきのぶです。どうか僕に診せていただけませんか!」


 騒ぎを聞きつけたのだろう、自治会の火戸さんが血相を変えて駆けつけてきた。隊員たちと何かを話し合ったあと、玲央の様子を見て頭を抱えている。その後は救急隊員に指示を出して地域の根幹病院に連絡を飛ばすなど、八方手を尽くして救命活動にあたってくれた。

 ――しかし、その懸命の処置もむなしく、玲央は急性呼吸不全により、かえらぬ身となった。

 ……美桜は泣き叫び、明奈は膝から崩れ落ちた。クロノアはケージの一番奥に引っ込んで、小刻みに震えながら様子をうかがっている。俺は――


「玲央っ、玲央っ、玲央っ――」


 ただただ茫然自失ぼうぜんじしつとりことなり果て、つい数時間前まで元気に動き回っていた玲央を抱えて、骨が折れそうなほど力強く抱きしめた。涙は何故か出てこなかったが、散弾銃を打ち込まれた心から、かけがえのないものがするりとこぼれ落ちる感覚を味わった。


 その時、俺のスマホから零時れいじにセットしておいたおやすみ通知の場違いな音が鳴り響いた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 応急処置が間に合わなかった救急隊員は警察に通報した。自宅で誰かが死亡した時には先ず警察が事件性の有無を調べなければならないのだとその時に初めて知った。深夜にも関わらず二人の刑事と医者らしき人が二階に上がり込んでくる。

 泣きじゃくりとおしだった美桜は火戸さんの奥さん――夏美なつみさん――が駆けつけて、一階で面倒を見てくれていた。


「○○署捜査第一課の広瀬ひろせと申します。この度はどうもご愁傷様しゅうしょうさまです。それでは早速ですが、刑事訴訟法けいじそしょうほう第二二九条に基づき――」

「あ、あの、広瀬さん」


 広瀬と名乗った刑事さんが泣きじゃくって自失している俺と明奈に向かって語りかけた時、俺たちの後ろで黙っていた火戸さんがそれをさえぎった。いぶかしげな視線を飛ばした広瀬さんの顔が緩み、声に含まれていた緊張の度合いが和らぐのが分かった。彼らは知り合いなのか。


「ああ、火戸さんでしたか。いつもお世話になっとります。もしかして、火戸さんがこちらにいらっしゃるということは、やっぱりこの子は――」

「ええ、そうです。僕が担当していた子です」

「えっ、火戸さん――」


 彼の言葉に驚き、その真意をつかみかねた俺はバッと振り向いて彼に問いかけようとするも、それは俺の口に添えられた火戸さんの手によってはばまれた。俺の目を見ながら、小刻みに頭を横に振り〝ここは任せて〟と視線で訴えかけている。その様子を見ていた明奈も何か察したか涙で赤く腫れた目元を見開いてことの成り行きを見守っていた。


「……ほんで、最後に診察なさったのはいつですか」

「今は日が変わっておりますので、前日の午後診です。二十四時間は経っていません」

「……なるほど、承知しました。ほんなら検視は必要なさそうですな。我々は引き上げます。おい、帰るで」


 一緒にきていた医師らしき人が道具を取り出していたのをしまい込み、警察は軽く会釈えしゃくだけ返してそのまま引き上げていった。救急車はすでに戻ってしまっているので家に残されたのは俺と明奈に火戸さん、一階に夏美さんと美桜――そして、天国へ旅立ってしまった玲央。


「あ、あの、火戸さん。何でうちの子が火戸さんにかかっていたとウソを……」

「とっさのことで済みません。実はですね、警察からの検視が入った際は死亡診断書ではなく死体検案書したいけんあんしょというものが出されるんですよ。そうなるとご遺体が戻ってくるのも時間がかかる可能性もあるし、何より費用がすごくかかってしまうんです」

「は、はあ……」

「今回、玲央君は明らかに病死でしたので、私が担当医だと伝えれば、検視をしなくとも私が死亡診断書をお渡しすることができます。警察もそのほうが楽ですし、何より手っ取り早い」


 子供が息を引き取った様を目の前で見せつけられた今の俺に〝手っ取り早い〟という言葉はとげとなって鋭く突き刺さる。しかし火戸さんからしてみれば〝この判断で玲央の亡骸なきがらが警察にいじられ、持っていかれる可能性を潰し、金もかからないように〟計らってくれたのだろう。それに刑事さんと火戸さんは何やら知り合いのようだったので、こういうことが前にもあった可能性だってある――


 ――前にもあった?

 それを受けて思い返すと、救急隊員が不穏な言葉を発していたのが気にはなっていた。


〝やっぱりか〟


 やっぱりというのはどういうことだ? その救急隊員は前にも似たような事案に出動して、処置を行っていたかもしれない。でもそれだけで〝やっぱり〟なんて言うだろうか。それこそ〝何度も〟繰り返すくらいの事態でなければ……

 どうしても何かが引っかかる。何だろう、この薄気味悪さというか収まりの悪さというか、形容しがたい違和感というのは――


「――では、僕は一旦病院に向かいます。念のためもう一度診察して死亡診断書を書きます」

「えっ、ええ、分かりました。どうかよろしくお願いします」

「すぐに戻って参ります。夏美は奥さんと美桜ちゃんのケアのために置いていきますからね。ああ、あと、玲央君は大変申し訳ないが、僕が戻るまでそっとしておいてください」


 そう言って、火戸さんは階段を静かに降りていった。俺は今もへたり込んで涙を流している明奈の横に座り、肩を抱き寄せて彼女を支えた。この短い間で玲央の身に何が起きたのか――いまだにしっかりと理解も納得もできていない。


 ああ……玲央、玲央。

 どうしてこんなことになってしまったんだ……?

 俺はその時、あまりの出来事から受けた衝撃で直前まで見ていた夢の内容をすっかり忘却の彼方に投げ捨て去ってしまっていた。

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