氷の花 その5

 岸に上がろうと足に力を入れた瞬間盛大にすべって転んだわたしは、体が宙に浮いて地面にたたきつけられるその一瞬、頭の中で猛烈に考えを巡らせた。


 もはや転ぶことは避けようがなくこのままでは氷上花が入った採集袋を体の下敷きにしてしまい間違いなく花はグシャグシャにつぶれ今までの苦労はパー採集は

大大大失敗それだけは嫌だ絶対花は潰さないわたしは怪我したって良い、花だけは


「うあっ、あー!」

妙な叫び声と共にわたしは腰を思い切り左にひねり、そのまま右半身から地面に激突した。

「あぐっ」

最初に地面についた右肩を中心にかなりの痛みを感じたが、かろうじて採集袋をわたしの体と地面の間で潰されることは避けられた。


 良かった…、とため息をつきながら地面から立ち上がる。体は痛いが花さえ無事ならそれで良い。わたしは転んだ時に体についた汚れを簡単にはたくと、こんどこそ家に帰るつもりで歩き出した。


「…」

 一歩踏み出した足元にふと目を落としたわたしは、地面に何か白っぽくて薄いものが落ちているのを見つけた。

「…」

なんだろうなー、これ、ぜんぜんわかんないなー、なんか花びらみたいに見えるけどこれいったいなんだろうなー

「…」

 …現実逃避はやめよう。わたしは採集袋の中を恐る恐る覗き込んだ。


「あああああ…」

わたしの口から悲鳴とも呻きともいえない声がでる。袋の中の氷上花は悲惨な状況だった。多分原因はさっき転んだ時。からだでつぶしてしまうことは避けられたけれど、必死になってわたしが抱きしめていたから中の花を圧迫してしまい、その結果…


「花びらが…散ってる…」


 あの、真っ白で清らかで繊細の極みのような花びらが、茎から離れて採集袋の底にばらまかれていた。絶望しながらもすばやく数を数えると、4枚。地面に落ちているものを含めて全部で5枚の花びらが散ってしまっていた。花そのものを見てみると、無傷のものが2輪、花びらが1枚散ってしまったものが2輪、3枚散ってしまったものが1輪だった。最後の花は一番圧迫された場所にあったのだろうか、残った花びらも今にも散ってしまいそうにぐらぐらしている。


「せ、せめて残っている花はこのままなんとか家まで…被害を最小限に…、あ、」

 はらり、とまた1枚花びらが落ちた。さらにそれを見て思わず「あー!!」と叫んだわたしの声の振動でまた1枚落ちた。馬鹿。わたしの馬鹿。


 

 2輪では…さすがに足りないだろう。わたしは湖を見た。


 すっかり高くなった日の光が湖面を照らしている。咲いている氷上花をよく見ると、いくつかの花の色がくすんで、さらに少ししおれはじめているように見えた。


 

 …さて、どうしようか。このまま帰っても師匠はきっと怒ったりはしない。そういう人じゃない。でも、わたしは、わたしは嫌だった。


 あの人の役に立ちたい。そのために風邪ぐらいひいたって良い。


 せっかく採集した氷上花だが、花びらが欠けてしまった花はもうあきらめよう。

きれいな花を新たに採集する。そのために迷っている時間はない。

そもそも服を濡らさずに歩ける浅瀬にはあまり花は咲いていなかった。よくわからないけれど、ある程度深い水の方が良く咲くのかもしれない。


 つまり湖のもっと深いところにはたくさん咲いているということ。


 わたしはさっきあがってきた湖の方を振り返って岸まで歩いていった。そして再び水の中へ足を沈めた。ブーツに水が入りすぎて、もう湖水の冷たさがよくわからないのは良いのか悪いのか。


 水中を数歩歩いて先ほど氷上花を採集したあたりまでたどりつく。ここからもう少し湖の中央へ進んだところに花が数輪固まって咲いていた。しかし水底を見ると、そこへ行くまでに急に水深が深くなっているようだった。


…うん、たぶん腰のところまでくらいかな、いや、もっと深い?

でも、もう良いや。ブーツの中はすでにびっしょびしょなんだし、あんまり変わらないでしょ。


 深みに向かって進んでいく。水が膝へ、腿へ、腰へと上がっていく。


…思っていたより深いなこれ…おぼれたりしないよね…。

少し後悔し始めたがもう今更後戻りはできない。それに、氷上花が生えているところまでは、あと数歩。あと少し。もっと、もっと深いところへ…




 


「なにやってんだーーー!!!」


「は!?え!なに?あ、師匠」

「動くな!そこから!」


 叫び声をあげながら、師匠が、「森の魔女」がこちらへ駆けてくる。

長い髪を振り乱して、霜と土を踏み散らしながら。師匠とはそう長いつきあいじゃ

ないけれど、そんな姿を見るのは初めてだった。そしてわたしはその直後、さらに目を疑うものを見た。


 師匠はすごい勢いで森の道を走り、あっというまに湖岸にたどり着いた。…と思うと、ほぼ速さをゆるめずに、そのまま…踏み切って湖に飛び込んだ!


バシャーン


 当然大きな水しぶきが上がった。師匠はそのままバッシャバッシャと水を蹴り上げながらわたしの方へ向かってくる。か、顔が怖い…。


 あっというまにわたしのところまでたどり着くと肩をガッとつかみ、金切り声で叫んだ。

「早まるんじゃないよ!!!」


その言葉でわたしは察した。この人さては勘違いしてるな…。


「よりによってこんな寒いところで!それに溺れ死ぬのはすごく苦しいんだよ!どうせならもっと」

「言っときますけど入水なんてするつもりありませんから!」

「楽な方法があ…え、違うの?」

「違います!!」


師匠の顔からふっと力が抜ける。

「そっかー!よかったー!」

そう言って盛大にため息をついた。


「…入水じゃなかったのはそれは良いことなんだけど、じゃあ今のこの状況は、

いったい…」

「あー…」


言いたくないなあ…。


「氷上花の採集…最初は上手くいったんですけど…」

「うんうん」

師匠に事の成り行きを話している内に、自己嫌悪の感情がじわじわと湧き出してくる。


「持って帰ろうと思ったときに…あの、転んじゃって、そこで」

「あちゃー」

絶対あきれられた…。わたしは師匠の顔を見ていられなくなってどんどん下を向いていった。


「その時に採集袋を押しつぶしてしまって…花が…」

「……」


 あ、やばいなんか涙出てきた。


「もう一回採集しようと思ったんですけど…グスッ。浅瀬のは取ってしまっていたので…。ふ、深いところにたくさん咲いていたから、そ、そこのを取ろうと思ったんですけどぉ…」

「…それでかぁ」


師匠が大きなため息をつく。


 ああもうこんな顔させてため息までつかせて、ぜんぶわたしが無能なばかりに。情けなさすぎる。消えてしまいたい。


「師匠、本当に…ごめんなさい…」

「はあ…まったくもう」

「採集失敗してしまって」

「いやそうじゃなくて」


 そ、そうじゃないとは?まさかほかにもなにか失敗してました!?

「氷上花に関してなら別に謝らなくて良いよ。ていうかまだ失敗してないし」

「はい?」


 ど、どうみても大失敗なんですが…。


「謝るのなら、採集に関することじゃなくてね、こういう無茶をしたことについて謝ってほしいな」

「無茶…?」

「入水…じゃなくて寒中水泳未遂をしたことについて!」


 えー、そんなこと言ったって、深いところにしか咲いていなかったんだからしょうがないじゃないですか!という反論が口元まで出かかったがぐっと我慢する。


「わかってない顔だね…」

「えーと、あ、ブーツ!ブーツを水に沈めてしまったことですか!そのことを怒ってるんですね!せっかく貸してくれたのに…本当にごめんなさ」

「いやあれはもともと古くてボロいから履いているとすぐ水が浸みてくるんだよ」

「え、そうなんですか…!これ履いていきなさいって渡してくれた時そんなことひとことも言ってなかったじゃないですか!」

「そうだっけ?まあそれはいったん置いといて…」

「置かないでください!…すみません。なんだか脱線してきちゃいましたね。ブーツのことでもないとすると、あと何なんですか?わたしなにをやって怒らしちゃったんですか!?」


 わたしがほとんど叫ぶようにそう言うと、師匠は黙ってわたしの顔をじっと見て言った。


「…本当にわからないの?」

「わか…りません…ごめんなさい」


 そう言って下を向いた。それから少しの間師匠は何も言わなかった。


「……」

ち、沈黙がツラい…


 とうとうわたしは耐えられなくなってそっと顔を上げて、師匠の顔を見た。



 

 ああ、


 その顔


 嫌だ


 そんな顔してほしくない




 師匠は悲しんでいた。深い悲しみの表情を浮かべてただわたしの顔を見ていた。

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