第53話 私がいつかいなくなったあとも、生きていけるだけの幸せを。

 それからしばらく、私たちは無言で音楽に耳を傾けていた。高い声の女性の切ないバラード。ライブ特有の胸に響く声に影響されてか、妙に感傷的な気分になっていく。


 私は紫乃さんの横顔を盗み見た。

 ライブ会場の灯りに照らされた育ての親は、穏やかで優しい顔をしていた。

 テーブルの上、手を伸ばして触れたくなる距離に、紫乃さんの指先があった。

 触れていいのだろうかと、悩む。触れる理由が思いつかない。

 けれど無性に、私よりずっと大きな、長い指に触れて温度を確かめたくなっていた。


「楓?」


 紫乃さんの夕日色の瞳が私を見る。

 暗がりなのに、その瞳の色は鮮やかだった。神様らしい不思議な目の色だ。

 微笑んだ彼の指先が、私の小さな手を搦め捕った。シャンパングラスで冷えた指先。絡めると、熱が溶け合った。


「楽しかったな」

「はい」


 なんだか照れくさい。


「いけませんよ」

「何が?」

「こ、こんな手の繫ぎ方しちゃだめですよ」

「意識した?」

「します」

「ふふ」


 紫乃さんは目を細め、指を更に深く絡めた。まるで甘えるように。


「愛しているよ、楓」


 なんだか最初よりずっと湿度が上がった愛の言葉に、むずがゆい心地になる。

 紫乃さんは幸せそうにしていた。照れる私を見て、何を思っているのだろうか。


「あの……紫乃さん」

「ん?」

「私、あなたを守りますね。絶対強くなって、あなたを幸せにします」


 私のほうからも指を強く絡め、さらに上から手を重ね、私は紫乃さんの目を見て宣言した。

 何度でも宣言したい。この人を守りたいと、傍で笑っていられる相手でいたいと誓いたい。さみしい思いを繰り返し、それでも私を選び続けてくれた人だから、ひとりの夜の数だけ伝えたい。

 私がいつかいなくなったあとも、生きていけるだけの幸せを、遺していくために。


「……ありがとう」


 屈託なく紫乃さんは微笑んだ。

 まるで千年以上生きているとは思えないほどの花がほころぶような笑顔で。


 私たちはまだ気づいていなかった。

 紫乃さんのスマートフォンに、贄山隠からの悲痛なメッセージが届いていたことに。


『どうか尽紫を引き取ってくれ、頼む』


 通知画面に、その言葉が浮かんでチカチカと発光していた。

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