第38話 その頃、関東某所
新月の晩、贄山の獣じみた絶叫が山に反響する。
霊力が枯渇し、死にかけたあやかしたちに贄山の魂を直接食わせているのだ。肉体にこそ傷はつかないものの、贄山は着物を乱し、見えない何かに弄ばれて悲鳴を上げる。
「あひいっ、ひい、ひひひひひ、あーっ」
「贄山ちゃんの悲鳴も聞き飽きてきたわねえ。もう少し激しく虐待しようかしら」
「こ、これいじょうは……もがっぐもっぐっっぐぐぐ」
尽紫は夜の闇で岩に座していた。
贄山の七転八倒を聞きながら、メガソーラーに覆われた山肌へと目を向ける。
贄山が呪詛師として利用した土地神や神霊は解放した。
しかしその数は、関東平野の広さに対してあまりにも少ない。
あれから贄山に命じてあちこちを旅したが、結局ほとんどの神霊は尽紫の知らないものに入れ替わっているか、もしくは神から零落し、ただのあやかしに成り果てていた。
朝廷、大名、幕府、明治新政府。時代の統治者が変わるごとに、定期的に数を減らしているようだった。
「みんな、いなくなっちゃうのよね」
昔はよかった。人をいくらでもいたぶっても畏れられ、敬われた。
自分のような神がやまほどいた。楽しかった。なにより隣には弟がいた。
「人間におもねったって、結局紫乃ちゃんも表舞台から消されたのに。それでも、人間と共存したいなんて……甘いわ」
尽紫は思い出す。
かつてのまだ、愛らしかった弟が男に成り果て裏切った日の事を。
◇◇◇
「姉様」
ある日弟は色の薄い髪を風に靡かせ、真面目な顔をして尽紫に言った。
「邪馬台の民は神と契りを結びました。僕たちをいずれ仇なすもの、従わぬ者として滅ぼしに来るでしょう。そのときに、僕たちは討伐され消えてはならない。まつろわぬ神の居場所を守らなければ。生きるために心ならず服従することになろうこの土地の民達の縁として僕たちが生き続けていなければ」
「なによ、人間と通じた神ですって? 人間は従えるもの、契る相手ではないわ。もし滅ぼしに来るつもりなら、上等だわ。私を失ってこの筑紫の土地がどうなるのか、思い知ればいいのよ」
姉は笑った。
気まぐれな火の神が幾柱も座する火山、夏が来るたびに龍神が暴れる大河。
この土地を人が住める程度に収めているのは姉弟の存在あってこそだ。
何も知らない、この土地を知るつもりもないまま征伐に来る邪馬台の人間ごとき、神ごとき、敵ではないし討ち果たされるのも上等だ。
「あやつらに、私たちの何がわかるというの」
弟は黙っていた。美しい唇をかみしめ、切なげに拳を握る。
絞り出すような声で、弟は姉に告げた。
「……姉様。時代は変わっていくのです。僕は朝廷にまつろえぬ神霊を、人を、守りたい。僕たちを構成するあやふやな混沌を守るためにも、僕は人と契り、新たな生きる道を模索しようと思います」
「人と契る、ですって?」
姉は己の声が震えているのを感じた。
そして、その時初めて、弟の声が低く掠れているのに気づく。姉と弟、そっくり同じ形だったはずの拳の大きさが違う。
姉は信じられない変化に目を見張った。
「……いつの間にあなたは成長していたの」
「ずっと、この姿でしたよ」
「あなた一人だけで? 私はこの姿なのに」
弟は静かに姉を見下ろしていた。尽紫は言葉が出なかった。
姉が見上げても足りないほど背の高い、男の姿に。
どうして気づかなかったのだろう。ずっと同じ、少年と少女の姿だと思い込んでいた。
「……嘘でしょ? あなたは私と一緒に
「今日よりも前に、何度も言っていたことだ、姉さん」
自分の手よりも一回り以上大きな手で、かわりはてた弟は姉の肩をそっと撫でる。
「俺は彼女と契る。神としての一生を捧げて、大切にしたい人ができたんだ」
「まって。……彼女? 相手は女なの? 人間……誰、誰よ、教えなさい」
「紹介は何度もしていたよ。姉さんは人をいたぶるのに夢中で、俺を見ていなかったんだ」
「冗談はやめて。私たちは二人で一対。ひとつの神なのよ? あなただけが人と契るなんて無理よ」
踵を返し立ち去ろうとする弟の袖を引く。
弟は美しい男子の顔で、悲しげに、けれど決意の固い眼差しで姉を見下ろした。
「別れよう。筑紫の神でありながら、別の
袖を振り払い、弟は地上へと降りていく。
雲の上ではなく、人の世界へ。弟が穢れてしまう、まだ取り返しのつく、今追いかけなくてはと、尽紫は走った。
「まって、行かないで、私の話を聞きなさい……!」
弟は風の速度で山を下りていく。姉は何度も足をもつれさせ、転ぶ。
そのたびに弟は案じるように足を止めはする。
けれど、未練を振り切るように背を向けて、再び山を駆け下りていく。
「姉さんの何が悪いの? あなたは間違っているのよ、そうよ、邪馬台の民を怖れるなんておかしいわ、人間に騙されているのよ」
弟の姿は見る間に小さくなっていく。
いつの間に、こんなに弟の背中は広くなっていたのだろう。
いつの間に、自分は上手く走れなくなっていたのだろう。
人を殺し、人を弄ぶばかりの暮らしの中で、姉は忘れていたのだ――自分が神として凋落していることを。
「紫乃さん!」
山を下りた先、鈴の音のような女の声が聞こえる。
弟に駆け寄る巫女が見えた。
紅一色の巫女装束の上から薄衣の千早を纏った、ただの人間だった。
弟は巫女を抱きしめた。広い背をかがめ、小柄な彼女を愛おしそうに腕に抱いた。
「……嘘よ」
姉は茫然と立ち尽くし、その光景を見るほかなかった。二人は男女の仲であると、はっきり悟った。
あの巫女が、
弟はこちらを振り返った。隣の巫女が、深く頭を下げる。
「ごめんなさい。……
その続きは聞こえなかった。姉は叫びながら二人に襲いかかったから。
けれど次の瞬間、姉を包んだのは紅の奔流だった。
血のように真っ赤な紅葉が、姉を次々と封じ込めていく。
「こんなもの、こんな……弟の霊力なんかっ……巫女の、霊力なんか……!」
弟と巫女の霊力がかけられた紅葉の渦に飲み込まれ、姉は意識を手放した。
姉の心に残ったのはただ、二人への怒りと恨みだった。
「……許さない。人間ごときが。……私の、愛しい弟を……かえしてよ……」
◇◇◇
気づけば贄山が泡を吹いて全裸で横たわっていた。
こうでなくては、と思う。愚かな人間はいたぶって畏れさせ、服従させるべきものだ。
尽紫は思う。弟は愚かなことをしたと。
人間におもねって生きながらえるなど神の恥だ。
あろうことか人間の女に永遠を誓い、長く寄り添い続けるなんて正気の沙汰ではない。
「はやく……体が保つ間に……あの女をなんとかしなくちゃ……」
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