第37話 ご託はいらない


 紫乃さんは顔を覆い、深く溜息をつく。


「あれは古代の神そのものの性格のまま、変わるつもりがないんだよ」


 ほとほと困り果てたというふうに、紫乃さんは続ける。

 羽犬さんは未だ来ない。紫乃さんは視線を玄関の外へと向けた。


おれの言葉は言霊。俺が思い出して名を口に出すだけで、あれの力が回復する。だから口に出すのは最低限にしておきたかったんだ、楓がまだ本来の力を取り戻してないわけだから」

「なるほど、お姉さんのお話を先延ばしにしてたのには、そういう理由が……」

「すまないな」

「事情が事情ですし、仕方ないですよ」

「……ありがとう」


 紫乃さんはふっと微笑んだ。ようやく、表情がわずかに和らぐ。


「姉はこの屋敷がある神域の地下に封印している。人間に悪さしかしない奴だからな、人の尊厳をもみくちゃにするのに大はしゃぎするタイプだ」

「最悪ですね」


 身内に人格破綻者がいるなんて、紫乃さんの苦労が忍ばれる。


「だが彼女も俺と同じ土地神であることと、俺と姉一対で一つの神格を持っていることもあって、俺がこうして元気にしている限りは姉も消滅はしない。それどころか分け御魂が時々土地から湧いて出てくる、勝手に」

「封印してるのに、ですか?」

「本来の三割くらいの霊力を持って、数百年に一度くらい出てくるんだ。三割とは言っても土地神だし遠慮を知らないからとにかく迷惑だ。今回の楓の件も、姉が贄山をそそのかして起こした事件だと思っている。楓の記憶を奪うなんて、贄山にはできない」

「……私のこと、やっぱりお嫌いなんですか? お姉さん」

「嫌いというか憎悪だな。俺を奪った泥棒猫とでも思ってる。姉はなんというか……神である自分を疑わないというか。『一対の男女で姉弟だから、当然夫婦であろう』という考えというか……」

「だから紫乃さん、私を強引に縛り切れないんですね?」

「姉みたいな神に目をつけられて迷惑被(こうむ)る気持ちは、骨身に染みてわかるからな」

「な、難儀なお姉様にご苦労なさったようで……」


 紫乃さんが黙した。その横顔の見せる物悲しさに、胸が痛くなる。

 私は、紫乃さんの肩に体重を預ける。紫乃さんはされるがまま受け止めてくれた。

 肩で、二人の体温がなじんでいく。


「……いっぱいお話しましたね、今日」

「そうだな。楓が記憶を失ってから、一番話したように思うよ」

「これからはお姉さんのこともっと聞かせてください。いずれ解決しなきゃいけない問題なら、知らないままではいたくないです」

「わかった。話すよ」

「……それと」


 私は視線を手元に落とし、羽犬さんのことを思い出す。

 彼は言っていた。紫乃さんは臆病なのだと。

 紫乃さんの言う「楓に任せる」が、一歩踏み出すことへの恐れから来ているのならば、私はしっかり、紫乃さんに踏み込んでいく。この人を安心させるために。

 だって私は、紫乃さんが大好きだから。


「紫乃さん、私と結婚したいですか?」


 返事がない。

 顔を見ると、言葉を探しているという雰囲気だった。

 私は肩を離し、紫乃さんの手を取った。私の手より一回り大きな、指の長い手。中性的な紫乃さんだけど、手を取って、顔を見上げると、ああ、男の人だなあと思う。


「もう私たち、ご託抜きでとにかくまずは結婚しましょうよ」


 紫乃さんの瞳が揺れる。


「紫乃さんがお望みなら、素直に私を求めて欲しいです。束縛するかもとか、私の幸せの為ならとか、考えるのは後にしましょう。私は伴侶になるのはまんざらでもないです。……嫌ですか?」

「嫌なわけあるものか。……愛しているさ、楓を」

「だったら逃げないでくださいよー」

「話しただろう、怖いんだって自分が」

「だから私のほうからお願いしてるんじゃないですか、結婚しましょうよって」

「軽々しく言うんじゃありません。もっと考えて」

「私は本気です。それに羽犬さんも言ってましたよ? 紫乃さんは臆病だって」

「あいつめ」


 紫乃さんは肩をすくめる。

 繫いだ私の手を確かめるように指を絡める。触れ方に愛おしさが滲んでいた。


「守れなかったばかりなのに、傍にいたいと願うのはどうかと思わないか?」

「今更なんじゃないですか? 何回私の死を見てきたんですか。その中でも、一回や二回くらい守るのミスったことだってあるでしょ?」


 紫乃さんは口元を押さえ、少し宙を見上げて答える。


「まあ……結構何回も?」

「思ったより多そうですね?」


 もしかして結構危険な運命なのでは?

 私は一瞬ひるみそうになったけど、ここでひるんでは話が進まない。

 たいしたことない、といったふうに胸を張って続ける。


「だったら今更、ミスが一回や二回増えても些事でしょう! ねっ」

「……楓が痛い思いするのを、些事と言い切るのは」

「話を強引に纏めるときは、些事って言って笑うくせに」

「う」


 紫乃さんが口をつぐむ。その表情もなんだか可愛いと思ってしまった。

 何千年も生きてる神様なのに。

 まるで人間のように、私のことで一喜一憂して表情を変えるこの人が、可愛い。


「……成長は早いな。あっという間に『楓』になってしまう」


 紫乃さんは嚙みしめるように呟くと、観念したように私を片手で抱き寄せた。繫いだ手はそのままに、背中に回した手が私をぽんぽんと優しく叩く。


「今回の件が終わったら、なるべく早めに夫婦になろう」

「私でよければ喜んで」


 紫乃さんが微笑む気配がする。


「そのとき、改めてこっちから言うよ。結婚して欲しいって」

「楽しみにしてます」

「……ああ」


 この人が笑ってくれて嬉しいと思う。

 触れられると鼓動が高鳴る。

 試す必要なんてない。神様(このひと)の傍にいる理由なんて、きっとそれだけで十分だ。

 私は空いている腕で強く抱きしめ返し、誓うように言葉を口にした。


「紫乃さん。私、強くなります。あなたを不安にさせないくらいに」

「……ありがとう。愛してる、楓」


 しばらく私たちは抱き合ったまま、静かに目を閉じていた。


 ちなみに。

 紫乃さんの膝で寝る夜さんが途中で起きてうんざりした様子で毛繕いをしていたことと、羽犬さんが私たちの話が終わるまで外で待っていたことは(仕込みまで終わったらしい)、その後ひらおでひらお定食と塩辛を食べながら笑い話として聞かされることになった。

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