第33話 肥前の名湯の接待

「うーん……うーん……怖いよお……」


 身じろぎするとぱちゃりと水音がする。

 目を覚ますと私は湯の中に入っていた。


 大きな酒樽を用いた浴槽に、掛け流しの湯。

 湯面には胡蝶蘭の真っ白な花が一面に浮かんでいる。柔らかな磨り硝子で遮蔽され和らいだ日の光が、浴室の足下だけに届いている。

 ちゃぷちゃぷと、柔らかな音と温かな熱。


 私を囲むのは、中華風に黒髪を結い上げ、モノトーンが基調の襦裙を纏った数人の女性。

 湯気にも湯にも濡れた様子のない彼女たちは、私に手を伸ばして素肌をマッサージしていた。


「う、うわーッ!」


 叫んでも抵抗できない。なぜか、指一本自由に動かせない。

 髪も解かれて根元から丹念に梳かれて、頭皮マッサージまで受けている。

 どこだここは。

 何をされている。

 どう考えても異常事態である。

 さっきまで見ていた悪夢の内容もすっかり吹き飛んでしまった。


「あ、あの、私は一体どんな状況で」

「………………」


 尋ねても女性たちは私を解放してくれない。ただ、にこにこと施術するばかりだ。


「あ、あの……なんか言ってもらえませんかね……」

「………………」

「だめかあ~」


 恐怖すべき状況ではある。

 けれど私はあまりに心地よくて、へなへなとそのマッサージに骨抜きにされてしまった。さらにフェイスラインまで手が伸びてきて、心地よい刺激でもみほぐされる。もうだめだ。


「あああ……これ絶対流されちゃいけないのに……気持ちがいい……」


 長湯にちょうどいい温めの湯。心地よい湿度に揺れる光。

 自由になるのは眼球だけ。視線を巡らせば、壁に効能などが書いてあるのを見つけた。


『肥前佐賀の名湯です じっくりご堪能ください 店主』


 なるほど、わからん。

 そうこうしているうちに温泉を出て丁寧に衣装まで整えられる。

 与えられたのはいかにも健康ランドっぽいポリエステルの作務衣の上下だ。周りのお姉さんたちがいかにも華やかな襦裙姿なので、そういうのを与えられるかな~とほのかに期待していたら、違った。


「まあいいや、このほうが楽だし……」


 スリッパでぺたぺたと案内されるまま廊下を進んでいくと、豪華な客間に通される。

 飲茶でもしたくなるような中華風茶室の椅子には、例の男性が足を組んで優雅に腰を下ろしていた。


「あの、一体私に何が起きたんですか」

「言ったでしょう? フリーパスを差し上げるって。呪符フリーパス

「体を勝手に操って連れていくタイプのものですか」

「気持ちよかったでしょ?」

「いい湯でした!」

「それはよかった。我が昔見つけた湯なんですよ」


 彼はほほほと上機嫌に笑う。

 私はポケットを探りはやかけんを出そうとするけれど、もちろん持っていない。


「お探しのものはこれですか?」


 彼がぴっと指でつまんで掲げた。

 はやかけんも優雅な男性に持たれると呪符に見えるから不思議だ。


「返してください!」

「大丈夫。話が終わったら返しますよ。さあ座って? 飲茶をお出ししましょう」

「昼にがめ煮と筍とぬか炊き山ほど食べたあとなのでいりません」


 しかし襦裙姿の女性たちが、小ぶりなテーブルの上に次々と飲茶セットを置いていく。

 胡麻団子に杏仁豆腐、豆花。

 さらに中国茶も置かれてしまう。


「本当にいらない?」

「…………変なもの入ってないですよね?」

「入ってるわけないでしょう? そんな小細工しなくとも、あなたを誘拐すらできる者ですよ?」

「……確かに……?」

「疑り深い人は損をしますよ、快楽には身を委ねるのがよろしいのに」


 私は椅子に座り、食べ物を見る。そして指さして提案した。


「では一緒に分け合って食べませんか?」

 彼は鷹揚に頷く。

「警戒心が強いのはいいことです。ではどれを食べて欲しいか選んでください」


 そんな感じで、私たちは二人で分け合って飲茶をする。

 彼は警戒する私も楽しんでいる様子だった。


「ずっとあなたと話したかった。我と夫婦になり永遠を生き、そして共同研究者になりましょう」

「こんな強引な交渉の席を作る方とは、ちょっと……」

「社会的地位もある、美形、しかも人間。お金もあります。十分でしょう?」

「いやいや、顔で決まるもんじゃないですし」

「あなたの能力も買っています。才覚を発揮できる仕事を差し上げましょう」

「巫女の仕事とダブルワークちょっときついです」

「ダブルワークをする必要はありません。あの古くさい土地神などお忘れなさい」


 彼の言い方に、私はちょっとむっとしてしまう。

 紫乃さんは大雑把な人だけど、恋愛に関してはちゃんと手順を踏もうとしてくれている。この人とは違う。


「私、とにかく居場所は間に合ってます」


 彼の笑顔がわずかに揺らぐ。

 めんどくせえなと言いたげな色が、眼差しによぎった。


「……いいから我のものになったほうが身のためです。あなたが筑紫の神と離れれば、彼の仕事も減るでしょう。あなたを狙う邪神が来なくなるのですからね?」

「それは初耳ですけど、だからといってあなたの言うこと聞く理由にはなりません」

「まったく、賢女におなりなさい。意地を張るのは可愛くないですよ」

「可愛くないと思われるなら、諦めてくださいよ」

「嫌です我はあなたの魂がなんとしても欲しいんです。不老不死の薬の原料に使えそうなので」

「げ、原料!?」

「つまり純然たる体目当てです」

「最悪すぎる! も、もっと歯に衣着せましょうよ!?」

「宥めても媚びても靡いてくれないなら、もう何言っても無駄でしょう」

「ひ、人を攫っておきながらその言い草……!」

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