第32話 徐福の夢

 振り返ると竹林の向こうから、もう一度はっきりと「楓ちゃん」と聞こえてきた。

 人の流れが途切れたタイミングで、私は紫乃さんに声をかけた。


「紫乃さん。私ちょっと羽犬さんの様子見てきますね。お手伝いしてきます」

「ああ、わかった」


 紫乃さんと別れ、私は声がするほうへと向かう。

 竹林に入って喧噪から離れると、羽犬さんの声がはっきりと聞こえた。


「助けて楓ちゃん、ちょっとがこっちに逃げちゃって」

「はーい」


 私はこのとき油断していた。

 聞き慣れた羽犬さんの声だったし、紫乃さんの屋敷だったし、何も疑わなかったのだ。

 竹藪を抜けた先に、紫の中華風の服を着た男性が立っていた。

 丸眼鏡に黒髪に、一重の切れ長の目が印象的な美形だ。


「もしかして、今の羽犬さんの声はあなたが作ってました?」

「よく気づきましたね。いや、気づくのは当然でしょうか」


 唇がくっと弧を描く。妙な人だと思い、私ははやかけんを握りしめる。


「あなたも福岡のあやかしさんとかですか?」

「さあ? 福岡の者といえば福岡の者。佐賀にも近畿にも長野にも、日本各地を渡り歩いております」

「……日本各地を?」


 そういえば私が記憶を失う羽目になった危険な村は、関東某所に位置すると言われていた。

 ─一つ。屋敷の中には肥前の猫又、夜さんが侵入していたこと。

 ─二つ。あやかしがたくさん来ていて、全員の注意がそれやすい状態だったこと。

 フットワークが軽い人が、ここにいるのが怪しい。

 はっと、私は気づいてしまう。


「もしかしてあなたが……紫乃さんのごきょうだいですか!?」

「うーん大雑把な推理。違いますよ」


 言いながら、彼は私の額にぺちっと何かを貼る。


わたしは徐福。九州では佐賀を中心にあやかし向けの温泉旅館を経営しています。これはフリーパスのチケットです。ご堪能ください」

「あ、ちょっと……え……」


 麻酔でもかけられたように、唐突に体の力が抜けていく。

 手からはやかけんが落ち、目の前の彼に正面から抱き留められる。

 紫乃さんとは違う、香水の匂いがした。


「楓さん。単刀直入に言うけど我のものになりましょう」


 耳元に囁く声は甘やかで。


「未だ契っていないのでしょう? ならば、我にも機會チャンスがあるはずです」

「楓殿! 楓殿ッ! 一体何が……にゃーっ!!」


 夜さんの叫び声が聞こえる。

 私は目覚めたかったけれど、意識は心地よく闇に落ちてしまった。


◇◇◇


 ─同じ顔をした少年と少女が夕日を浴びて立っている。

 光と闇、稲穂と水面。

 髪色だけが真逆の二人は、見るからに一対の神だった。


 遙か向こうまで広がる稲穂の海。

 先には幾艘もの船が停泊する港が望める。

 繁栄する国の姿を見下ろす二人を、人々は丘の下に跪いて崇めていた。

 のちに筑紫と呼ばれる土地が、朝廷からの支配を受け入れるまでの、旧い神々にとっての黄金色の日々。


 一対の神は幸せそうに手を繫いでいた。

 仲睦まじい姉と弟、その弟のほうが私を振り返る。


「楓」


 少年の姿をしていた神はいつの間にか大人の男性になり、私に手を差し出した。

 手を取ろうとして─私は彼の背中越しに激しい憎悪の眼差しを見ることになる。

 もうひとりの、水底の深い色をした黒髪の少女神。


 完璧な一対の関係を壊した私を、彼女は─。

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