第21話 大好きです、紫乃さん

「夜さんが無事でよかったよ」


 私は両手で細い体を包み込んだ。


「間に合ってよかった。有明沿岸道路で傍に来てくれてありがとうね」

「……もう離れないで欲しい。頼む。某は楓殿がいなければ生きていけない。代わりに某も猫又として楓殿に貢献しようぞ。いつでも撫でて構わぬぞ」

「それが貢献なんだ」

「猫は可愛い。だから某を愛するのは喜びであろうが」

 夜さんはごろごろと喉を鳴らしながら私の膝をふみふみする。

「寝(ぬ)。膝を貸せ、楓殿。猫を膝で寝かす僥倖を与えようぞ」


 夜さんはそのまますぐに私の膝で眠ってしまった。

 紫乃さんが夜さんのお腹をちょんと突いて言う。


「霊力の充電が必要なのだろう。瀕死だったからな」

「間に合ってよかったですね……。でも、どうしてここまで来れたんでしょう? 気がついたらここにいた、とは言ってましたが……」

「……調べる必要がありそうだな」


 紫乃さんは無言で、目の前の景色を睨んでいた。難しいことを考えているようだ。

 まだ西鉄電車は来ない。隣接したJRのアナウンスが遠く他人事のように聞こえる。

 他に電車を待っている人はいない。静かな時間だった。


 ふと、頭が右に傾く。

 紫乃さんが後ろから腕を回して、私の頭を引き寄せたのだ。


 稲穂色の髪と私の栗色の髪が触れる。

 紫乃さんの温かな頰の気配をこめかみの上に感じる。深く息を吐く気配がした。

 ここにあるのを確かめるように、大きな手が私の頭を撫でた。


「……楓が無事で、よかった。また守れないかと思うと怖かった」

「紫乃さん……」

「いつか楓を失う日が来るのはわかっているんだ。何度も繰り返してきたから。けれど……覚悟があろうとも、楓が傷つくのは怖い。たった一月前に、守れなかったばかりだったから余計に」


 いつも飄々として、無茶ぶりばっかりの紫乃さんが、意外なほど弱っている。

 よほど私を守れなかったことが悔しいのだろう。


 でも。それにしても――この話になると妙に暗い。

 ここ一ヶ月で知った紫乃さんという人は、基本的になんとかなるさ精神の神様だ。


 よく言えばおおらか、悪くいえば大雑把。

 なのに私が記憶を失った前後のことに関しては、異様にデリケートな反応を見せる。

 繊細で絵から飛び出したような外見とのギャップが面白い人だなと思っているだけに、深刻に落ち込んでいるのを見るとそわそわとした気持ちになる。


 この人は笑っているのが似合うのに。

 まるで記憶が消えたことそのことよりも、その事件を気にしているようだ。


「私が記憶を失ったとき、何があったんですか? ただ頭を強く打ったとか、そんなのじゃないことが……起きたんですよね?」


 紫乃さんの手がわずかにこわばる。


「……それは……」

「私にも教えてください。私、自分が記憶を失った原因を知らないままなんです。知らなきゃ対応できませんよ」


 長い睫毛の奥、瞳が揺れる。私は顔を覗き込む。


「紫乃さんだって困ったじゃないですか。元の私が話してなかったから、夜さんのこと知らなくて」

「秘密にしたいわけじゃない。……まだはっきりしないことを、あまり口には出したくないだけだよ。楓の不安を煽るのは本意じゃないんだ」

「はっきりしないことなら、一緒に考えたほうが解決しやすいんじゃないですか?」

「……ずいぶん強引だな?」

「強引ですとも。紫乃さんの巫女なんですから。ひとりで抱え込む紫乃さんを放っておけませんよ」


 私は紫乃さんから目をそらさない。

 逃げさせてたまるものか。ひとりで抱えさせたくない。

 頭を撫でていた手を取って、ぎゅっと両手で包み込んだ。


「紫乃さんは私の神様なんですよね? なら巫女と神様で、もっと力を合わせましょうよ。紫乃さんが悲しい顔をしている傍で、力になれないのは嫌です。悔しい」

「どうして楓が悔しくなるんだ」

「記憶を失った経緯は覚えていないですけど、頭に対する衝撃でしょう? なら私の頭がバリカタの石頭だったら解決した話じゃないですか」


 紫乃さんがぽかんとした顔でこちらを見ている。


「……頭の固さの問題じゃないのでは?」

「頭の固さの問題です。当事者が言うんですから、ねっ」


 紫乃さんの表情がわずかに柔らかくなる。

 私はさらに強く手を握って、身を乗り出して訴えた。


「だから、力不足は私もです。もっと頭蓋骨が強かったら、紫乃さんも悩まずにいられたんですから。そうでしょ?」

「……ふふ」


 紫乃さんが吹き出す。


「楓は……強引だな、本当に」


 堰を切ったような笑い方だった。

 その笑顔に胸がほっと楽になる心地がした。

 この人にはやっぱり、笑っていて欲しいと思う。


「そうですよ。もっとバリバリに最強に頭を固くして、次こそいろんな物全部ぶっ飛ばしますからね。だから紫乃さんも安心して私に頼ってください。強くなりますから」

「わかったよ、わかった。ひとりで落ち込むのはやめるよ」


 紫乃さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 そしてもう一度片手で肩を引き寄せ、ぎゅっと私を抱きしめる。

 頭頂部に唇を寄せながら、紫乃さんが微笑む気配がした。


「……ありがとう」


 彼の肩の力はすっかり抜けていた。


「そうだな……楓も少しずつ禊ぎ祓いに慣れてきたし、そろそろ話すべき頃合いだろうな」


 気がつけばちらほらと、周囲には学生が増えてきていた。

 紫乃さんが私を抱き寄せるのを学ランを着た男子学生たちが指の間から見ている。


「高専生だ。彼らには少々刺激が強いな」


 紫乃さんが微笑み、私を解放する。紫乃さんの美貌にギャラリーからおお……と声が漏れている。人混みに紛れられない場所では、やっぱり目立つんだな紫乃さん。

 電車がホームに入り、終点への到着を告げる。


 紫乃さんは私の膝から夜さんを受け取り、ジャケットの内側におもむろにしまう。


「しまえるんだ」

「ポケットついてるからな」

「万能ですねポケット」


 紫乃さんは立ち上がると、私に微笑んで手を差し伸べた。


「行こうか、楓」

「……はい」


 その表情の柔らかさに、私の胸の奥がぎゅっとなる。

 なぜだろうか、この人を守らなければという気持ちが強くなる。

 紫乃さんは神様で、多分強くて、頼りになる私の育ての親だ。身長だって私よりずっと高いし、男の人だからもちろん腕力も強いだろう。そんな相手に対して「守らなければ」なんておかしいかもしれないけれど。


 記憶が消える前、自分がどんなふうに紫乃さんを思っていたのかはわからない。けれど確信がある。

 きっと記憶が消える前からずっと、私は紫乃さんを守りたかったんだ。


 お父さんをひとりぼっちにしたくないと語っていた、珠子さんの言葉を思い出した。


 青いボックスシートを進行方向向きに倒して、紫乃さんがこちらを振り返った。


「どうした楓。ぼーっとして。……疲れた?」


 気遣ってくる紫乃さんに、私は首を横に振る。笑みがこみ上げる。なんだ、簡単なことじゃないか。


「大好きです、紫乃さん」


 紫乃さんは目を一瞬見開くと、花がほころぶように微笑んだ。


「ありがとう。俺も愛してるよ」

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