第4話 旧き神様
「食べ終わっても結局思い出さなかったな」
帰り道、紫乃さんは行きとは別の道を提案した。
「せっかく糸島に来たから二見ヶ浦に行かないか」
それから紫乃さんは初川沿いの旧道に入り、葉桜になりかけた桜並木の道に車を走らせ、そこから糸島半島を縦に突っ切る道を進んだ。
交通量の多い道から外れると、夕日が沈んで暗くなった田園地帯は静かだった。
ハンドルを握る紫乃さんは無言だった。私は窓の外を見ながら覚えている景色があるか確かめていた。
卵屋さんが左手に見え始めた頃、紫乃さんがぽつりと呟いた。
「……すまない」
「……紫乃さん?」
「俺が守れていたら、楓が記憶を失うこともなかったのに」
予想外に真剣な横顔に驚く。私は暢気に卵おいしそーなんて思っていたのに。
私はぶんぶんと手を横に振る。
「いいですよ! だって記憶以外、体も元気でうどんも美味しいし、悩んでも仕方ないですよ」
これは本心だ。
記憶が欠落したからなんだというのだろう。
ご飯は美味しいし衣食住にも困っていない。
親代わりか未来の結婚相手かよくわからないけれど、優しい紫乃さんが元気で傍にいるのだし、まあなんとかなるはずだ。
「なんとかなります。なんとかしてみせますよ、神様の巫女ですし!」
腕にぐっと力こぶを作ってにっこり笑ってみせると、紫乃さんはこちらを見て笑う。
「……楓は本当に変わらないよ、ずっと」
その眼差しは、なんだか私を見ているようで、私本人を見ていない気がした。
私は何度も輪廻を繰り返してきた。紫乃さんは今まで何人の私と出会ってきたのだろう。
─そのたびに、紫乃さんはゼロになる私と向き合ってきたってことなのかな?
その時ぱっと視界が開ける。
淡く紫に色づいた、夕日が落ちたばかりの海だ。
サンセットロードと呼ばれる海辺の道を左に折れ、しばらく行くと桜井二見ヶ浦の真っ白な海中大鳥居と、大注連縄で結ばれた夫婦岩のシルエットが見えてきた。
日本の渚百選に選ばれた、美しい景色だった。
「ここの駐車場、前は無料だったのにな」
「人気スポットだからやむなしですね」
紫乃さんは駐車場に車を止め、私を連れて海岸まで降りる。意外なほどに人はいなかった。
紫がかっていた空は、あっという間に宵闇の紺が広がっていく。
緩やかな弧を描いた穏やかな浜辺には波の音が響き、遠くにはちらちらと漁船の明かりがきらめいている。
「綺麗……ですね」
「ああ」
私に答えながら、紫乃さんは着衣のまま躊躇いなく海に入っていく。
「し、紫乃さん!? 溺れますよ」
「溺れないよ。ここまで来たからせっかくだし、少し祓いをしようかと思ってね」
「祓い……?」
「おいで、楓」
誘われるまま、私も勢いで海に入る。春の海はひやりとして冷たい。
けれどなぜか、波の抵抗や不快感はない。
紫乃さんに手をつながれ海にどんどん入っていく。なぜか、溺れない。
「楓。周りをよく見てごらん」
言われて視線を巡らせる。あっと、声が出た。
紫乃さんの周りに星が降りていた─違う。蛍より淡く穏やかな輝きが、紫乃さんの周りを舞っている。
空から集まったもの、水底から浮かび上がってくるもの。
それらはきらきらと、私の周りにも集まってきた。
私は両手で海水ごと掬い上げる。きらきらと、私の目の前で瞬いた。
「……魂、ですか?」
「ああ。あやかしだったもの、忘れられた土地神だったもの、そして─供養されることのない人間の魂」
紫乃さんは光を手に乗せ、そっと唇を寄せる。
「おかえり。また還っておいで」
紫乃さんの言葉で、光はすっと消えていく。光は次々と紫乃さんに触れて消えていった。
淡い光が次々と、紫乃さんの稲穂色の髪を、金色の瞳を、色の薄い首筋を淡く浮かび上がらせる。
言葉で説明されなくとも理解した。
─これが、土地神の役目。
「……筑紫(ここ)は、いろんな土地から人がやってきた場所だ。海路の起点であり、大陸や半島に近く、産業化の中心地というのはそういう意味を持つ。この土地で生まれ見送られた者だけではない。この土地に帰りたくても帰れなかった者、帰りたかった場所を思いながら朽(く)ちた者もいる。信仰されて捨てられた神も数多い……みんな、海や山で迎えを待っているんだ」
「紫乃さんは、……みんなを見送っているんですね」
私の言葉に、紫乃さんは綺麗な顔で微笑む。
「誰かが自分を看取ってくれると思うだけで、救われることもあるだろう?」
その姿は神々しかった。
人々に忘れられた、今はもう誰も祀っていない神様でも、紫乃さんは土地に縁のある魂にとっての寄る辺であり続けている。
「璃院楓(わたし)は、そんな紫乃さんを祀るための巫女なんですね」
「そうだよ。俺は楓がいてくれるから、こうしていられる」
人間社会では天涯孤独に生まれる楓と、私だけに覚えられて生き長らえる紫乃さん。
「私たち……確かに一言じゃいい表せない関係ですね」
紫乃さんは微笑む。
「安心したよ。記憶を失ったって、楓は楓だ」
なんだか胸の奥がどきっとした。私が全てを失っても心細くないように、この人も私がいることで、心細くなかったらいいなあと思う。
「よーし、私もみんなを送ろうかな」
私も魂を掬い取る。嬉しそうに手のひらで震える魂に、私はキスをしようとして……やっぱり恥ずかしいので、撫でるように手で触れる。
─次の瞬間。
海全体がぶわっと輝き、魂が全てふわっと浮かんで散っていった。
「……!?」
茫然とする私。
海から、幻想的な魂の光が全て消えていた。紫乃さんも目を丸くしている。
「……あの、私、なんかやっちゃいました?」
「記憶を失ったせいで、霊力のさじ加減が……ばかになってるな……」
「な、なんと」
「巫女としての修行、一からやり直しだな。このままじゃ仕事復帰はちょっと厳しい」
紫乃さんが茫然と立ったまま言う。私は両手を見つめた。
「なんということでしょう……」
記憶と一緒に仕事も失いそうになるなんて。
「…………あの。修行って大変でした、よね?」
「生まれたときからちょっとずつ、十八年間積み重ねて磨いてきた能力だからなあ」
紫乃さんの表情が絶望を物語っている。
「イヤー!」
私は叫んだ。紫乃さんがぽつりと呟いた。
「もしかして、これが狙いだったのか? あいつは……」
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