第4話 起きてしまった事


 エキナセアの入居者は社会での生活復帰にはまだ準備が必要な人たちがほとんどだが、ちょっとしたサポートがあれば日常生活は大きな問題なく送れていた。例えばアルコール依存症の患者などは指先が震えやすく内服するのに手が必要だったり、認知機能や高次脳機能障害がある人はトイレに行ったり入浴するのにも助けが必要になる。しかしそういった医療的なケアはスタッフである舞耶や介護士、ヘルパーの人が担っていた。恭太は歩けるがトイレの場所を忘れてしまう人を時間ごとにトイレに連れて言ったり、内服のチェック表に一緒にチェックしたり、専門的な資格や知識がなくてもできることを任されていた。恭太は必要な手助けを汲み取るのがとても上手だった。母をよく見て育ったためだろう。舞耶も入居者やスタッフから慕われていた。

ホームでのバイトにも慣れ、無事部活動に必要なものがそろった恭太は充実した日々を過ごしていた。


 その年の冬、エキナセアで事件が起きた。

 利用者八名が次々と襲われ、八十歳代の男女二名が死亡、六十歳代の女性が一名意識不明の重体、その他五名の高齢者が軽傷を負わされた。

 犯人として逮捕されたのは恭太だった。

 血の付いた状態ででぼうっとした表情を浮かべた恭太が警察に取り囲まれパトカーに乗り込む動画がインターネット上で拡散された。あっという間に個人名や通う学校、その他の多くの情報が特定され大きな話題になった。

「お母さん思いのいい子です。アルバイトも頑張っていたし、どうしてこんなことになったのかわからない。」

「成績も優秀で、部活動でも未経験ながら良い成績を残していました。それにクラス長を務め皆から頼られる明るい青年です。問題行動も一切ありません。」

「逮捕された少年のお母さんですよね?何かコメントを!亡くなった方のご家族への謝罪の言葉はないのですか?」

 私は連日警察署で取り調べを受け、精神的に疲弊していた。何より恭太がしでかしたこの犯罪を信じられず、心が粉々に崩れそうな状態だった。何をしていても恭太の話声が聞こえ、現実を嘘に塗り替えてくれる、長い夢を見ているだけだと思い込もうとした。血だらけのラケットを抱え、こちらを見ようとしない虚ろな恭太の姿が瞼の裏にこびり付いている。夢では幸せな恭太との思い出を反芻し、目が覚めると恭太が殺人者である世界に引き戻される。不思議と歩く感覚も口を動かし話している感覚もない。

「あの日私は亡くなった男性利用者さんに内服介助をしている時に暴力を振るわれ、顔を冷やすために休憩室で横になっていました。

暴力は時々あることです。避け方が悪く顔に当たってしまいました。休憩室で横になりながら頬を冷やしていると、谷川さんが水を持ってきてくれました。少し休んでも大丈夫と言われあまり眠れていなかった私はそのまま休憩室でうとうととしてしまいました。

 どのくらい眠っていたかはわかりませんが送迎から戻った狩野さんの叫び声で驚き、目が覚めました。慌てて休憩室から外に出ると廊下が赤い血で染まり、谷川さんが恭太を抑えているのが見えました。何が起きたか分からなかったのと酷い頭痛のせいで私はその場に座り込みました。戻ってきたスタッフの皆さんが利用者さんを安全な部屋へ戻るよう誘導したり、山口さんが警察に通報している声が聞こえました。私は抑えられている恭太の名前を叫んでいたと思います。」

 事件が発生し、恭太のことが報道されると舞耶に対して激しい中傷や嫌がらせが始まった。当然エキナセアは閉鎖され、仕事どころではなかった。

 恭太は警察に逮捕されてから一言も話さないそうだ。警察官から恭太の話が出るたびに、恭太が殺人を犯したという事実が突き付けられた。舞耶は家に居られなくなった。窓ガラスは割られ、ドアには激しい落書きをされ、部屋の前にはおびただしい悪臭を放つゴミを置かれた。一週間以内に退去するように大家に言われた舞耶は、はいとだけ返事をした。

 ピンポーン。インターホンが鳴り覗き窓に目をつけると細身の男性が片手にビニール袋を持って立っていた。舞耶が玄関を開けると谷川大和が手に持ったビニール袋を持ち上げ「入ってもいいですか?」と言った。

 舞耶は谷川を家に招き入れた。

「ドアのところ酷いですね。」

 舞耶はああ、と小さく返答し重い口を動かした。

「一週間で出ていってほしいって。もうどうでもいいから疲れちゃった。

どれだけ眠剤を飲んでも眠れないし恭太とのいい夢を見るたびに起きて死にたくなる。何が起きているんだろう。私何を間違えたんだろう。谷川君、私の愛した恭太はどうしてあんなことをしてしまったのだろう。」

 こみ上げる酸っぱい胃酸をそのまま吐き出した。谷川は舞耶に駆け寄り、舞耶の顔を救い上げ自分の肩に乗せた。

「恭太から聞いたことあります。舞耶さん泣いたことないって。恭太の前だから我慢してたんですよね。今恭太はいません。一回だけ思いっきり泣いときませんか。」

 谷川の言葉は暖かく、以前から舞耶に気持ちを伝えてきてくれた彼だけが何も変わらずにそこにいてくれた。身内とも疎遠になり、ホームの仲間には顔向けできない。そんな中彼だけが舞耶の救いだった。枯れていた水分が湯を沸かすようにあふれ出し、舞耶は声を出して泣き出した。谷川はその小さな背中を優しく摩り何も言わず舞耶が疲れるまでそうしていた。気が済むまで泣いた舞耶は谷川に抱えられたまま眠っていた。

 舞耶が目を覚ますと目の前にスースーと寝息を立てる谷川がいた。急に恥ずかしくなり、回された腕から抜け出そうとすると、ぎゅうっと腕が締まった。

「起きましたか。」

「はい。なんだか恥ずかしいところを見せてしまってごめんなさい。」

「大丈夫ですよ。俺何回も言いましたけど、舞耶さんのこと人として大好きなんです。恭太のことがあってもなくても俺の気持は変わらないし、どんな舞耶さんでも受け入れられるんです。」

「何回も気持ち伝えてもらってるのに、その気持ちを利用するようなことしてごめんなさい。」

 舞耶は申し訳なくなった。彼、谷川大和は二十五歳の介護士で三か月前からホームで一緒に働いていた。彼は入職してしばらくたつと舞耶に好意を伝えるようになっていた。恭太の事だけを考えて生きてきた舞耶は今更恋愛をする気にもなれず、友人として付き合いたいと断り続けてきた。彼も彼で諦めが悪く、断られても舞耶に好意を持ってくれていた。恭太ともよく話す彼は、恭太の良き相談相手のようで恭太からは交際を賛成されていた。

 舞耶は谷川の腕をどけ、起き上がった。いつまでもこのままではいられないだろう。恭太の家族は自分だけだ。このまま恭太を孤独な殺人犯にはできない。どうしてあんなに大事にしてもらっていたホームの人を手にかけたのか知る必要がある。

「ねえ、谷川君さ。恭太ってどんな子だと思う?」

「そうですね、母親思いの頑張り屋さんで、人の気持や痛みが分かる優しい子だと思います。」谷川の言葉は淀みなかった。

「そう。私が育てたの。母親として恭太を育ててきたつもりだった。知らないところで勝手に成長して私の知らないところで人として、してはいけないことをした。谷川君が今言ってくれたのが私も知る恭太。母親として何ができると思う?」

「子供はある程度大きくなるとあとは自分で成長します。木のように成長し根を張ることさえできれば上にどんどん伸びていく。

 恭太は言ってました。舞耶さんに幸せになってほしい、僕の事じゃなくて自分のことだけ考えて幸せになってほしいって。俺も正解は分からないですけど、舞耶さんが幸せになれるように生きてみたらいいんじゃないですか?」

「どうしたら幸せになれるんだろう。恭太さえいてくれれば幸せだったのに。あの子が楽しそうにしてくれてるそれだけでよかったのに。」

カタン。ポストから音がした。体のだるそうな舞耶の代わりに谷川がポストに向かった。谷川の手には二枚の紙が握られていた。一枚は退去についての書類のようで大家の名前が見えた。もう一枚は真っ白な封筒だった。

谷川から手渡されたその手紙には宛名や送り主の名前が何もなかった。舞耶ははさみを取り出し、その封筒を開けた。中には便箋が一枚入っており、そこには見慣れた字で一文だけ綴られていた。


愛してる、ごめんなさい


 それだけが薄い字で綴られ、書き主が恭太なのはすぐに分かった。舞耶はこらえきれずに手紙を抱え、ぽたぽたと涙の粒を零した。

 舞耶には分かっていた。恭太が舞耶の愛を疑ったこと、舞耶も恭太を疑ったこと、そしてお互いがお互いの愛情を探り合っていたこと。たった二人きりの家族だったのに。恭太は今も自信がないのだ。自分が母親である舞耶に愛されているのかどうか。

 舞耶は決めた。涙声で谷川の方を見た舞耶はこういった。

「恭太に愛してるって言わなくちゃ。」

 舞耶は事件が起きる一か月ほど、恭太の様子が可笑しいことに気が付いていた。舞耶の話を聞かず、何度も喧嘩をした。二人はそれまで喧嘩をすることがなかったのだが最近の恭太は激しい反抗期が来たようにことあるごとに舞耶に怒鳴りつけた。何がきっかけかもわからないような小さな出来事から異常なまでに反抗する恭太の様子に舞耶も困っていたのだ。しかしそれが前兆だったのかもしれない。気づいていながら事件になるまで恭太とよく話をしなかった自分を責めた。手紙をきれいに伸ばし、手帳に挟んだ舞耶はメモとペンを取り出した。

「何をするんですか?」

「やることリストをつくるの。恭太がどうしてこんなことをしたのか、私の何がいけなかったのか、知るために一個一個整理して解決していくの。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る