第3話 居場所
十二時を過ぎたあたりで着信が入った。出ると舞耶だった。
「恭太?お昼ご飯食べた?ちょっとお願いがあって、エキナセアに来てほしいの。」
「いいけど、忘れ物?」
「ううん。午後からお菓子作りをするんだけど、人手が足らないから恭太も来てほしくて。」
「わかった。行くよ。」
エキナセアは母が勤める精神障害者のグループホームだ。エキナセアには「あなたの痛みを癒す」という花言葉があり、そこからつけたそうだ。普通のグループホームではなく、精神障害を持つ患者がどんな行動に出ても安全が確保できるような建物設計になっている。恭太たちの住む家から歩いて二十分ほどのところにあり、幼いころから母に連れられ何度も通った場所だ。
ホームに着くと、賑やかに飾りつけられた入り口があり、その奥で舞耶が忙しそうに動き回っているのが見えた。ホームの入り口の隣には大きな花壇と野菜畑があり、数人のホーム利用者と、エキナセアに寄せた薄くピンクがかったクリーム色のユニホームを着た人達がいた。
そこには恭太のよく知る顔があった。
「真美さん、こんにちは。綺麗に花が咲きましたね。」
恭太がその人物に駆け寄ると、その人は嬉しそうに両手を広げた。
真美さんは六十歳代の女性患者で、軽度の知的障害とてんかんを持っている。家族がおらず、ずっと孤独だった彼女はこのグループホームに入居している。幼い頃から恭太を可愛がってくれる人で、恭太も真美さんが大好きだった。
「恭ちゃん、いらっしゃい。高校合格おめでとう。ちょうど渡したいものがあったの。」
そういうと真美さんはテラスから自分の居室へ向かったようだった。
「ああ‼恭太いた。遅いよ。」
舞耶にホームの中に連れ込まれ、お菓子作りの準備中であろう、食堂へ向かった。舞耶に口早に食材の準備を頼まれ、近くにおいてあるサージカルエプロンを着けた。 今日はお花見に行くためにサンドイッチと、クッキー、あと数種類簡単なお菓子を作るようだった。十四時までにすべてを終わらせ、近くの公園に入居者とスタッフ皆でお花見に行く計画だ。粉を振るったり、ドライフルーツを刻んだり、忙しく準備をしていると続々と入居者やホーム利用者が集まってきた。スタッフが間に立ち、皆で和気藹々と作業が始まった。恭太たちの下準備のおかげか、作業はスムーズに進み一時間も経たずに終わった。今回のお花見の案は舞耶が出したようで、数日前から簡単に作れるお菓子のレシピを調べたり、ホームを春らしく飾り付けられる装飾作業などを調べていた。恭太が先ほどまで食べていたケーキはこのための試作だったらしい。
エキナセアは精神障害者保健福祉手帳を持ち障害支援区分に振り分けられる患者が入居できる施設である程度日常生活が自立した患者が多い。このグループホームには作業のためのリハビリ施設なども複合されている。
そのためグループホームに入居している人や、毎日送迎で作業をしに来る利用者など様々な人がいた。
はじめ地域の住民から精神患者専用のグループホームの設立に反対の声もあった。学校も近くに多いためだろう。極力地域の住民と、施設を利用する人がお互い心地よく生活できるようにと何度も説明会が行われ、ようやくできた施設だった。作業の一環でお菓子作りなどをした際は安く販売するなどして地域の人に警戒心を抱かせないよううまく関わってきた。その結果この施設は今年で設立十五年を迎えた。
舞耶はこの施設に勤めて八年目になる。グループホームは看護師の配置義務はない。しかし精神科という特性上、急な気分の浮き沈みに伴う自殺企図、内服薬飲み忘れや拒薬による状態の悪化など、社会復帰をするには多くの壁がある。舞耶は初めて看護師として配属されたのが精神科の急性期病棟だったため、その経験を活かし、ここに再就職した。施設の方針で医療的な立場の看護師も積極的に配置し施設利用する人やその家族の不安を和らげるためだった。以前の病院では毎日のように瀬戸が押し掛けたため、解雇に近い形で退職した。
このグループホームで働けているのは、ここが精神科の患者専門の施設だからだろう。瀬戸は自分のアルコール依存症を受け入れず、精神科への受診を強く拒否していた。精神科に対する強い嫌悪があったおかげか瀬戸は施設によりつくことはなかった。作業がすべて終了し入居者たちとほとんどのスタッフが出かけた。舞耶と恭太はホームにいる数人の利用者とともに使ったものを全て片付け、食堂で作ったケーキやクッキー、サンドイッチを食べていた。
紅茶を入れる恭太のもとに真美さんがやってきた。真美さんは右足が悪く、長距離を歩くことが難しいため花見にはいかずにホームで残った人と過ごすことになった。真美さんが左手を恭太に差し出した。そこには可愛らしいピンク色の小包があった。
「真美さん、これは何ですか?」
不思議そうな恭太に真美さんが嬉しそうに手を突き出した。恭太はその小包を受け取った。
「さっき渡そうと思ったんだけど恭ちゃんが忙しそうだったから。今、開けてみて。この間舞耶ちゃんと作ったの。」
恭太はその包みを丁寧に開けた。中から押し花で作った栞と、お守りが出てきた。押し花はホームの花壇にあった花で作られており、とても綺麗だ。
お守りは「健康」の文字とともにバトミントンのシャトルの刺繍が施されていた。真美さんは手先がとても器用で編み物や刺繍の作業をよくやっていた。そのお守りのシャトルもとても手作りとは思えないレベルだ。
「すごいね‼こんなに綺麗に作れるの?嬉しい。お守りはラケットホルダーにつけるし、栞は手帳に挟んで持ち歩くね。」
恭太は真美さんに思わず抱き着いた。真美さんは恭太の背中をポンポンと優しく叩いた。
「舞耶ちゃんから勉強頑張ってたって。それに部活もやりたいっ言ってるって聞いたから。高校生になっても無理しないでね、恭ちゃん。」
恭太は真美さんの肩に顔を埋めた。真美さんは発達障害があり、少しだけ他の大人とは違った。恭太にとっては会うたびにひたすら甘やかしてくれる祖母のような存在だ。舞耶は恭太を生むときに親戚中に反対され、それでも折れなかったことで身内とは疎遠になっていた。恭太は本当の祖母を知らなかったが、いたら真美さんのような人なのだろうと思っていた。
「恭太、真美さん頑張って作ってくれてたよ。恭太、よく本読むし、これから初めて部活も頑張るんだもんね。怪我しないようにって二人分念を込めたから。」
「そうよ、恭ちゃんに何かプレゼントしたいなって思って二人で考えたんだから。」
恭太はもう一度二人にありがとう、といいもらったプレゼントをポケットに仕舞った。テラスと食堂に分かれてティータイムが始まった。出来立てのお菓子は手作りでしか味わえない暖かさと優しい味がした。テラスで食べることにした三人はお茶やお菓子を運び、席に着いた。
「ねえ恭太。一つ提案なんだけど、バイトのこと。」「なに?」
「ここでバイトしたら?」
恭太は食べようとしていたクッキーを皿の上に戻した。
「ん?ここってここ?」「そう、ここ。」
「バイトの募集なんかしてるっけ?」
「公には募集してないんだけど、少しずつ利用者さんが増えてきてて、週末の夕食の時間に人が少ないんだよね。送迎とか夕飯前の散歩とかでスタッフが掃けちゃうから。その時間に夜勤の人と一緒に食事配ったり、薬飲んだか内服表にチェックしたり、トイレに連れてったりする人員が欲しいの。どうかな?」恭太は少し考えた。舞耶が続けて言った。
「医療関係の仕事って結構向き、不向きがあるし、勉強もすごく大変でしょ?少しでも医療の現場にいると自然と色んなことが身に着くし、臨床に出るようになってからもギャップが少ないと思うんだ。それに私もここでバイトしてくれると色んなことを教えてあげられる。前から何回も来ている馴染の場所だから恭太なら利用者さんも抵抗ないと思うんだ。」
「たしかに。」
「もし恭太がいいなら、山口さんがぜひって。男手があると何かと便利だし。」
山口さんとは施設長を務める女性のことだ。
「いまいち親離れできない感じがあるけど ね。でももしいいなら、ここでバイトしたい。真美さんもいるし。」
舞耶の言うことも正しい。何年の看護師として働く納屋を見てきた恭太は医療の世界の厳しさやギャップは感じていた。
「じゃあ今日返事してもいい?結構前から言われてたんだよね。人が足りなくなったらバイトさせていいって。」
舞耶は嬉しそうにお菓子を食べ始めた。真美さんも恭太に会う頻度が増えるのが嬉しいのかいつもならたくさん食べるお菓子を恭太に多めに分けてくれた。
「ユニホームはこの名前が書いていない奴を着てね。休憩はここで取ってもらって、このサーバーから水とかお茶飲んでいいよ。
こっちがAチーム、こっちがBチームで入居者さんのお部屋は一チーム八部屋ある。男性と女性部屋が半分ずつあって、男女の部屋の中央は夜勤者の仮眠室と倉庫になってるから、掃除用具とかはこの倉庫から出してね。倉庫や居室は全て外から鍵がかけられるようになってる。基本的に鍵をかけることはないんだけど、昔夜間に脱走されて危なかったから、危険行動や帰宅願望が強い利用者さんの場合は家族や本人に許可を取って鍵をかけることもある。ただ夜勤の時にしかかけないから大丈夫だけどね。
恭太君の仕事の流れはホームに来たらタイムカードをスキャンして、休憩室で着替える。着替えが終わったら昼食の片付け、狩野さんがいないときはトイレと作業用のシンクの掃除をお願い。それが終われば、利用者さんと一緒に作業して、夕方になれば夕食の用意を手伝ってもらう。夕食が終われば、皆さんをトイレに連れて言ったり、お風呂に入るのを手伝ったり送迎者で帰る人は荷物をまとめたりするのを手伝って、十八時には舞耶ちゃんと帰っていいよ。いまのところ何かわからないことはあるかな?」
説明をしてくれているのは山口さんだ。四十歳代中盤のその女性は二人のことも昔からよく見てくれる親戚のおばさんのような人だ。看護師の免許を持っているが管理職として施設スタッフの長をしている。狩野さんはヘルパーさんだ。
「多分大丈夫です。」
「よかった。駆け足で説明しちゃったけど、わからないことあったらまた聞いてね。舞耶ちゃんから部活に入るって聞いたんだけど、週末のバイトは来れる時間に来てもらって、ちょっと手伝うくらいの感じで大丈夫だからね。勉強と部活動優先で。来られないときは舞耶ちゃんに言ってもらうか、ここ直通の番号にかけてもらえればいいから。」
「わかりました。ありがとうございます。」
恭太は無事バトミントン部に入部できた。
体育の授業以外でバトミントンをしたことがない恭太は、未経験の同級生とともに基礎体力テストを受け、筋力トレーニングや有酸素運動を行い、体づくりをしていた。バトミントン部に入りたかったのは小学生の頃に公園で舞耶とやったバトミントンが楽しかったためだった。運動神経万能な舞耶にスポーツで初めて勝てたのがそのバトミントンだった。土曜日と日曜日は部活動が終わってからそのままホームへ向かった。時給は千三百円と付近のどこのバイト先よりも高時給だったため、恭太は週末をとても楽しみにしていた。仕事を覚えるのも時間がかからない恭太は高齢者が多いこの施設で大いに可愛がられる存在になっていた。中学三年生になってから急激に背が伸び今では一七五cmを超える長身になっていた。背が高くても舞耶に似た丸顔の童顔で幼さが残る恭太は皆に孫のように扱われていた。
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