第3話 お題:栄養ドリンク 「用法容量をお守りください」 BL

 寝不足の頭を振り、買い足した栄養ドリンクの蓋を開けると一気に呷る。

 そしてポイッと床の上へと放り投げた。カツンッと床に当たったその瓶はコロコロと転がり、数時間前に目を覚ます為に飲んだカフェイン飲料の小さな瓶に当たってカチンッと涼やかな音を立てる。

 その瓶に一瞬だけ視線を走らせた後、またパソコンへと僕は向かう。

 カタカタとキーボードのキーを打つ音が静かに誰もいなくなったオフィスへと響く。

 後輩がしでかしたミスのカバーをするのは何も今日が初めてでは無い。それでも、なにもこんな日にこんな大きなミスをしなくても……と多少恨めしい気持ちになるのは致し方ないことだろう。

 僕にとって今日、いやもう昨日になっているが、とても大切な日だった。

 しかも、しかも、だ。

 当の本人は僕に謝り倒しながらも用事があるとかでとっとと帰宅し、こんな真夜中まで明日の書類を作成し直している自分がバカみたいだった。

 そしてオフィスデスクの上には何度もかかってきた着信で充電が切れてしまいすっかり静かになってしまったスマホ。その事も更に僕を憂鬱な気持ちにさせた。

 きっと今頃家で彼は鬼のように怒っているだろう。それとも呆れ返っているだろうか。

 折角、彼がこの日の為にと準備してくれた食事も、飾り付けも全部台無しにしてしまった。

 残業が決まった時点でかけた電話では呆れたような声で「相変わらずお人好しだな」なんて言っていたけど、書類制作が難航し途中から少しでも早く帰る為にと、電話にも出なかったせいで聞こえてきた留守電に残された声には段々と苛立ちが含まれていくのが分かった。

 それでも仕事を朝一番に間に合わせたくて、そして少しでも早く作業を終え彼が待つ家に戻りたくて彼からの電話にも出ずひたすら栄養ドリンクとカフェインを仕事の共にしてカタカタと資料片手に書類の作成に勤しむ。

 ……そういえば、彼からの着信が途絶えてからどれくらい時間が経ったのだろうか。

 確か最後に時計を見た時は日付を軽く超えていた時間を指していたっけ。

 そう思い、その後時計さえも見ずに仕事へ打ち込んでいた自分に呆れながら、視線を左腕に巻いている時計へと向ける。

 彼が誕生日プレゼントに、と贈ってくれた大切な時計だ。

 だけどその時計の短針は動いておらず、まだ貰って数か月しかしていない新しい時計なのに、と眉根を寄せる。

 仕方なく視線を上げ、オフィスの柱に取り付けられている時計へと目を向けるとその時計もまた短針が止まっていた。

 その事に益々眉根を寄せ、今度はパソコンに表示されている時計を見た。

「……止まってる?」

 小さな窓に表示されている時計も待てど暮らせど1分が経過しない。

 流石に何かがおかしいと気が付き僕は辺りを見渡す。

 すると先程床に投げ捨てた栄養ドリンクの瓶が消えていることに気が付き、椅子から立ち上がる。どこかデスクの下にでも転がっていったのかと、部署に並べられているデスクの下を覗き込む。整然と並べられているデスクの下は、僕の予想に反して何もなかった。

 体を起こし、僕は首を傾げて無意識のうちに栄養ドリンクの瓶をゴミ箱に捨てたのだろうかと記憶を辿る。

 そんな僕の耳にカツンッと何か硬い物が床に当たった音が届き、その音の方へと顔を向けるとコロコロと足元までその音を立てた物が転がってきた。

 そして足元に転がっているカフェイン飲料の瓶にぶつかる涼やかな音が静かなオフィスの中へと響く。

 ――それは、先程僕が飲み干して床へと投げ捨てた栄養ドリンクの瓶だった。

 ぐわんっ、突然頭が大きく揺れる。

 ふらふらとする視界に『僕』がまた栄養ドリンクを開け、勢い良くその中身を喉に流し込んでいるのが見えた。

 そして空になったその瓶を床へと腹いせのように投げ捨てる。

 カツンッ。コロコロ。カチンッ。

 カツンッ。コロコロ。カチンッ。

 カツンッ。コロコロ。カチンッ。

 …………カツンッ。

 何度も、何度も僕の耳に先程僕が投げ捨てた栄養ドリンクの瓶が床にぶつかり、そこから転がり、カフェイン飲料の瓶にぶつかって響かせた涼やかな音が繰り返される。

 その音が響く度に僕の視界はぐわんっ、ぐわんっ、と大きく揺れ、煌々と灯っている筈のオフィスの電灯がチカチカと点滅し、ゆっくりと暗くなっていく。

 ふらり、と体が揺れ、ドサッと言うなにか重い物が床へと落ちた音が鈍く耳へと届き、目の前にコロコロと栄養ドリンクの瓶がまた転がってきた。

「……え」

 辛うじて出た声はそんな間抜けな物だった。

 霞む視界の中で何度も、何度も目の前に栄養ドリンクが転がってきてカフェイン飲料の瓶へとぶつかる。

 これは一体どういう事なんだろうか。僕は夢でも見ているのだろうか。

 相変わらず頭はぐわんっ、ぐわんっ、と大きく揺れている。

 寝不足の時に起こる頭痛と良く似た、でも似てない鈍い痛みに僕は転がってくる栄養ドリンクの瓶を見つめながら眉間に深くシワを刻んだ。

 こんな無様に寝転がっている場合じゃないのに……そんな事を意識の底で思う。早く仕事を終えて、彼の元へと帰りたい。今日は僕たちがパートナーとなって一周年の記念日なんだ。

 彼の好きな花だって花屋に注文してあった。取りには行けなかったけど……。彼が欲しいと言っていたブランドの革財布だってプレゼント用に包装して大事に鞄の中に入っている。

 それをまだ渡していない。

 僕は未練そのもので腕を伸ばす。

 そしてコロコロと転がってきた栄養ドリンクの空瓶を掴んだ。

 その瞬間、視界がぐるりと回る。天井にある電灯の点滅は早くなり、どんどんと視界が闇へと塗り潰されていく。

 あぁ、僕は死ぬのか。こんな所で無様に。誰にも看取られずに。

 彼にはまだまだ伝えたい言葉がたくさんあった。一緒にしたい事だってたくさんあった。

 上司に連れられて行ったバーで、堅物で通っていた僕を「面白ぇヤツ」と言って笑った時の彼の顔が脳裏に浮かぶ。

 その顔に僕は人生において初めて『ときめき』という物を覚え、彼が働いているバーに足しげく通い、自分とは何もかもが違う彼を必死に、不器用なりに口説いて、口説いてそしてようやくその心を射止めたのだ。

「まだ……まだ、死ねない……」

 酷く重い口を動かしてそう掠れた声で呟く。

 動かない体を必死になって動かそうともがき、闇の中で抗う。

 だけどその努力も空しく、僕の意識はどろりとした闇に飲み込まれ、霧散していった。



 ハッと気が付くと、僕はデスクの上に突っ伏していた。その僕の肩を誰かが強く揺すっている。

「……い、……んぱい……っ!」

 焦ったような声に聞き覚えがあり、僕はのろのろと顔をその声の方へと向ければ、僕に残業を押し付けて帰った筈の後輩が泣きそうな顔をして僕の体を揺さぶっていた。

 あぁ、良かった。すべては夢だったのか。

 そう思い、ホッと息を吐いた。



 ――その耳にカツンッ、コロコロ……と、音が聞こえ、瓶と瓶がぶつかるカチンッと涼やかなぶつかる涼やかな音が木霊した。

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