あなたが砕けた夜の果てで
堂々と言い切ったルチアに、男は目を見張った。赤い瞳が揺らめき、虹彩に閉じ込められた二つの火焔が静かに燃え上がる。
「お母様はね、命を捨てて私に自由を与えようとしたの。今だって変わらないわ。運命ごと受け継いだ記憶がある限り、私はお母様を背負って生きていく。だから私は自由だけを追い求めて生きていくんだと思っていた」
「だったら、早く出ていけよ!きみの宝物はもう何処にもいない。全部俺が壊したんだ!俺はきみになら殺されたっていい。きみが望むのなら、俺は何度地獄に墜ちたって構わない。だから早く、俺に道連れにされる前に、きみは望みを叶えてくれ!」
「望みなら、たった今叶えたじゃない!」
炎よりも力強い言葉に、レイモンドは頬を打たれたように固まった。
「ずっと自由になりたかった。だって、お母様がそう望んでいたんだもの。お母様が私の自由を望んだ、ただそれだけで、自由の意味も知らずに望んでいたわ。自由になって何処かへ行きたいって、それだけだった。行き先なんて何処でもよかったわ。だから今決めたの。私は私の意思で、私の自由を以てここを選ぶわ」
今も全身が震えて悴んで、立ち上がることもままならない。それでもルチアの声は震えもせず、掠れもせず、流星のようにまっすぐ彼に降り注いだ。
「ようやく分かったの。お母様が私の自由を願ったのは、私に幸せになって欲しかったから。ただそれだけだったのに、そんなことも分からないまま生きていた」
子を愛する母親が願うこと。そんなもの、分からなかった。母が祖母に愛されていた記憶はない。ルチア自身の記憶に母の姿はほとんどない。母以外の家族は、命を落としたと聞いても心が動かないほど無関心で、憎んでさえいる。分からない、だから考えて、考えて、考えた。
遠い昔、母親代わりだったマザーはどんなことを想っていただろう。
そもそも何故、母はルチアの自由を望んだのだろう。
時間はたっぷりあったから、考えては食事を摂って、ベッドに入っては考えて。その繰り返しの果てに、レイの指輪を思い出した。そして、ようやく思い至ったのだ。
死の間際まで、母はルチアが自由であることを希った。だって、不自由な環境に置かれ続けた彼女は不幸だったから。不幸であると、彼女自身が定義したから。だから、娘には自由になって欲しいと願った。
不幸にならないで欲しいと、願ったのだ。
そんな単純で簡単なことも分からなかった。きっと、泣きながらルチアを睨み付ける彼だって同じだったのだろう。だから、震えながらこちらを見上げる彼に、ルチアはこの上なく柔らかく微笑んでみせた。
「レイも、きっと同じだったんだわ。あなたに幸せになって欲しいと願っていたのに、あなたは不幸のどん底でまだ藻掻くつもりなの?」
「幸せ、だって?笑わせるな!俺はあの方を殺した。レイさまの存在を奪っておきながら、結局俺は何も守れていない。救えなかった人間だっているし、この手で何人も殺した!きみをアギリアに入れたくなかったあの方の遺志だって裏切った。俺は償わなきゃいけない。幸せになる権利なんて何処にもない!」
「だったら償えばいい。でも、レイがあなたの幸せを願っていたのは事実よ」
「きみに何が分かるんだ……⁉」
「クローゼットの指輪。レイからの贈り物なんでしょう?」
彼はゆっくり顔を上げると、呆然とルチアを見上げた。ルチアは肩を竦めながら、柵の向こう側に思いっきり身を乗り出した。
「淡い青紫はレイの夜煌石だけど、群青の不透明な石は天藍石というの。東方では瑠璃とも呼ばれ貴ばれる、幸運を招く天空の守り石よ」
美しい指輪だった。淡い青紫色の透明な石と、古代の星空を封じ込めたような煌びやかな石が並んでいるそれは、子供の贈り物にはあまりにも不相応で。きっと、物心ついた時から一緒に暮らしていた少年に、とびきりの想いを込めて用意したのだろう。
「君が笑ってくれますように、なんて。妬けるわね、愛されているじゃない」
「きみほどじゃないさ。……昔、俺は笑うのが下手だったんだ。だから、あの方は心配してくださったんだろう」
ボソリと呟いた彼の頬には涙の痕がはっきりと残っていて、床には無数の夜煌石が散らばっている。声も掠れて朧だったが、あどけない少年のように純粋に響いていた。
レイの従者として、それでもきっと兄弟同然に育てられた男。太陽も月もない、雪も降らない奈落の街で身を寄せ合っていた二人が、どれだけお互いを大事にしていたのだろう。大切で、大切で、だから耐えられなかった。せめて想いだけは殺したくなくて、カラッポになり掛けた心を必死に抱えて、地獄の淵で息をしている。
だから、ルチアは噛み締めるように彼を見つめる。思うところがない訳じゃない。それでも、この不器用で哀しい怪物を一人にしたくないと思ってしまった。
「私もあなたも、結局は同じなのよ。大切な人の心まで殺したくなくて、二人分の運命に押し潰されそうになりながら必死に生きている。だからもう子供じゃないのに、未だに何者にもなれていないんだわ。でも、それでいいじゃない。私たち、今から何にだってなれるのよ」
背負い込んだ心は魂の奥底まで深く根付いて、きっと手放すことなんてできないだろう。しかし、ルチアはそれが不幸だとは思わない。この心は、自分を愛してくれた誰かの存在証明だ。母の願いを抱えて生きていたからこそ、ルチアはあの家で人形にならずに済んだのだから。
何のために生きるのか。その意味を探すために生きるのだって、悪いことじゃないだろう。
「私は私のやりたいようにして、好きな場所で生きるだけ。それがあなたの隣なだけなんだから、誰にも文句は言わせないわ。私はレイが遺した宝物で、私と同じ傷を抱えて息をしているあなたの傍にいる。だから、あなたが抱えているものを私にも分けて」
ルチアの瞳から、炎の欠片が二粒零れ落ちた。彼の隣で生きると言い切った少女の笑顔も擦り切れていて、ちっとも嬉しそうには見えない。それでも、後悔なんて微塵もなかった。
ボロボロで、傷だらけで、擦り切れている。傷の形も、追い求めた星も、奈落で向かい合う二人は悲しいくらいにそっくりだった。
仄暗い部屋に沈黙が落ちる。コロコロ、コロ。礫が転がる音だけが木霊する空間で、少女と青年が一人ずつ、身動きもせずに座り込んでいた。
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