怪物の本懐

 覚悟は決まっていたはずだった。だけど、何処かで期待してしまったのだ。まだ彼は何処かで生きていて、いつかまた会えるのだと、幻の星に縋っていた。星はとうに墜ちてしまったことを受け止められないまま、ルチアは今も息をしている。今にも消えてしまいそうなルチアを見詰める青年の表情も擦り切れていて、やはりボロボロのまま息をしていた。


「俺はレイモンド・リア・ラムスの従者であり、影だった。物心ついた時からずっと、あの方の身代わりとして死ぬために仕えてきた。だからこんなにも顔が似ているんだ」


 叩き潰された希望とそっくりな顔で、彼はまた夜色の涙を流した。そして、酷く緩慢な仕草で中二階を見上げる。その瞳はルチアを見ているようで、その向こう側の何かを悼んでいるようだった。

「俺はこの部屋からほとんど出されずに、レイさまと一緒に養育された。首領以外で唯一知っていた教師も口封じのために処分され、『俺』自身も殺されたことになっている。入れ替わったことだって誰にも気付かれなかった。ドン・リーガルだって知らない。だから、俺の罪は俺しか知らない」

 ポロリ、ポロリ。転がっていく涙が掌から溢れ出して、彼はまた哀しく笑った。信じられないくらい下手に笑いながらまた泣いて、擦り切れて散り散りになった心を零していく。

「あの方を殺したのは俺の罪だ。俺が守れなかった。俺が死なせた。でも、それでも俺は、俺は守りたかった。失わせたくなかった。あの方が愛したこの街を、きみというたった一人の女の子を、俺はどうしたって失いたくなかった!」

 泣き方を知らない子供のように吠える青年の顔は、魂が締め付けられるくらいにルチアが大好きな男の子とそっくりだった。

 レイの記憶を大事に抱えて、レイを主と敬いながら、レイを殺したと泣きわめく。

 あまりにも杜撰で不器用で誠実な矛盾が、あまりにも悲しかった。


 悲しくて、悲しくて、どうしようもなく優しくて。夜の静寂よりも静かに戦い続けた人。


 嗚呼、彼が泣いてくれるのなら。

 ルチアと同じように星が消えた世界で泣き喚きながら、それでも彼が息を繋いでいてくれるのなら。

 カラッポになり掛けたボロボロの心でも、まだ壊れずにいられる。


 ツンとした表情、皮肉気な口調、氷のように張り付けた虚勢。非力で無力なルチアの、なけなしの鎧だった。だけど、きっともう必要ない。

「ずっと分からなかった。あなたが何者で、何が目的なのか。本当にずっと、分からなかったの。だけど、ようやく分かったわ」

 取り繕い続けた全てを取り払って、ルチアは傷だらけの素顔で微笑んでみせた。 

「私が大好きだったレイが生きた証を、守りたかったものを、あなたはずっと守ろうとしていたのね」

 誰よりも大切で守りたくて、でも守れなかった。零れ落ちた命を取り戻すことなんて、この世の誰にもできやしない。だからせめて、遺志だけでも守ろうとした。きっとこの奈落では、『彼』には何の力もなかったのだろう。だから主君に成り代わった。足掻いて抗って、勝ち目がなくても決して諦めずに、たった一人奈落の底で生きてきた。

 大切な人がもう何処にもいなくても、二度と会えなくても、せめて願いだけは叶えたくて。世界で一番哀しい怪物は、まだ夜の底で泣いている。

「あの方は、きみがこの街に来ることを望んでいなかった。それでもヴァレット家が消えてしまえば、きみの存在は宙に浮いてしまう。こんなこと、本当は一番したくなかったんだ。だけど、他の方法なんて思い付かなかった」

「……だから鍵を掛けなかったの?」

「ああ。とっとと逃げてしまえと思っていたのに、君はずっとここにいたから……」

「あなた、馬鹿ね」

 罵ってやろうと口にした言葉は掠れて、彼の耳にはこれっぽっちも入りそうもない。だから今度は息を吸い込んで、零れ落ちそうな激情をグッと堪えて声を出す。それでも震えてしまうルチアの言葉に目尻を下げて力なく笑った、彼の掌も悴んだように震えていた。

「本当に、馬鹿な人」

「……ああ」

「馬鹿よ。本当に馬鹿だわ!」

 彼だって憎かったはずだ。大切な人を奪ったヴァレット家も、その原因になったルチアのことだって、憎くない訳がないのに。

 仇であるヴァレット家への襲撃に反対したのも、そのせいで命を落とし掛けたのも、死ぬ前に契約を終わらせようとしたのも、全部全部ルチアを守るためだった。

「俺みたいな愚か者、世界の何処にもいないさ。だけど、それでも俺は守りたかった。だって、あの方が見ていた世界は美しかった。俺には似合わなくとも、壊れて欲しくなかった。それだけだったのに、結局俺は何もできなかった!」

 何故かは分からないが、彼が自分自身を否定するたびに、カラッポになり損なった心臓が痛いくらいに熱を持つ。レイに瓜二つの顔の真ん中に嵌め込まれた、藍に近い真夜中の色。勿忘の花よりもずっと暗く深い、午前零時の宝石が仄暗く煌めいた。


「俺は主君殺しの罪人で、紛い物の嘘吐きだ。それでも俺は、どれだけ憎まれてもきみに幸せになって欲しい。だから早く、この街から出ていってくれ!」


 カラッポの宝石を美しく瞬かせ、男は柔らかく微笑んだ。闇夜に容易く溶けてしまいそうな、散り散りの心をツギハギに縫い止めて作られた美しい表情は、正しく怪物のようだった。


「出ていけ、ね……」


 乾いた口の中で転がした最終宣告は、紛れもなくルチアが希ったものだった。闇の底で生きた七年間が、これでようやく報われる。選択肢なんて存在しない。すぐに踵を返して、地底を抜けてしまえば自由が手に入る。これ以上ないくらい、千載一遇の好機だった。

 しかし、ルチアは扉の方向を一瞥することもなく、ただジッと男を見つめていた。そして深く長い溜め息を一つ零して、おもむろに陶器のような掌を打ち合わせる。パチンと軽快な音が、

夜の天幕のように垂れ下がった沈黙を貫いた。

「最初からそのつもりだったわ。でも今、気が変わった」

「何だと……?」

「契約延長よ。聖夜が終わっても、私はアギリアに残る」


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