偽悪者の肖像
散々漁ったクローゼットを綺麗に整えて、ルチアはもう一度部屋を見渡した。そして激情が去って冷たくなった思考を紡ぐように、ボソリと小さな呟きを零す。
「一つ、契約で縛っておきながら扉に鍵を掛けなかった。まずはそれが一番の矛盾だわ」
部屋から出るなと命じておきながら、あの男はルチアを閉じ込めなかった。その意図が全く理解できない。
そもそも毎日部屋を空けるのなら、鍵を掛けた上で見張りを置くのが妥当だろう。リア・ラムス内で孤立無援だったとしても、街の人間に頼めばいい話だ。ヴィクトリアによれば、あの男は地底街の住人から熱烈に慕われているらしいのだから。
そこまで思考を進めると、もう一つの矛盾点が浮かび上がってくる。
「二つ、あの男の肖像には二面性がある。ドン・リーガルは彼を冷酷なサソリと呼んだ。でも、ヴィクトリアは星と称した。ドン・リーガルが口にした彼の所業は従者殺しと幹部殺し。一方でヴィクトリアはリア・ラムスの幹部に襲われ、彼に助けられている。彼女だけじゃなく、地底街の住人はみんなそうだと言っていた。地底街でも恐怖の目で見られてはいなかったし、トネリコ街では彼を助けるために大勢集まっていたわけだし……」
冷酷なサソリと星のような男。二つの姿はかけ離れているようで、きっと表裏一体なのだろう。
リア・ラムスにおける彼の立ち位置は恐らく特殊だ。絶対的な忠誠が求められる組織で、首領に逆らっても辛うじて首を繋げている。それは彼自身がリア・ラムスの財源になっているからだ。つまり、彼は自身を人質に取る形で多少の越権や勝手を許される立場にある。
ヴィクトリアを殺そうとした幹部は半年後に命を落としたという。ドン・リーガルの言葉と照らし合わせれば、恐らくレイモンドに謀殺されたと見ていいだろう。
同胞だろうが気に入らなければ容赦なく殺す冷酷なサソリ。しかし、彼はヴィクトリアには気安く接して失言も見逃した。
「何より、あの男の言葉は殺人を厭っているように聞こえる」
貝の火がぼうっと燃え上がる。
散らばったヒントを拾い集めれば、描かれた絵は存外呆気なく見えてくるものだ。クローゼットの扉を静かに閉めながら、ルチアは思考を纏め上げるように息を吐き出した。
「とにかく帰りを待つしかないわ。あの男を信じるしかないのは癪だけれど」
無人の部屋には慣れているのに、煉瓦で埋め尽くされた視界がやけに寒々しいのは何故だろう。乱れた亜麻色の髪を弄びながら、ルチアはクルリと踵を返した。朱色の帳は下ろされることもなく、ただひらひらと微かに揺れていた。
時計の短針が一巡りすると、ルチアは下に降りて簡単な食事を拵えた。ただでさえ食に対する興味が薄いうえに、知っている料理は酒場の賄いと粗食ばかり。あの男は残さなかったが、やはり何度口を付けても美味しいとは思えなかった。それでも食べる手を止めないのは、きっとルチア自身が生きていたいと思っているからだ。自由への執着だけじゃ埋まらなかった心の虚ろに、ほんの僅かな温もりが灯ったような、何とも言えない感覚だった。不快ではない、ただそれだけ。それだけの心が、何故か無性に手放し難いように思えてしまった。
また一巡りすると、ルチアはむくりと体を起こした。
グルグル回る二つの針をぼんやりと眺めながら、機械仕掛けのようにただものを食べて、浴室に向かい、眠りに就く。繰り返して、繰り返して、繰り返して、針が二十一度目の回転を始めたころ。
無人のはずの一階で、ガタリと大きな音が鳴った。
カーテンを開けたまま書類を読み耽っていたルチアは、チラリと下に目線を向ける。そして扉の前に佇む人影を見つけると、紙束をめくりながら素っ気なく言い放った。
「おかえりなさい。遅かったわね」
ガタガタ、ドサリ。立て続けに鳴り出した大きな音に溜め息を吐きながら、ルチアは億劫そうにもう一度入口に目を向ける。何故か地面に膝を着いている黒髪の青年が、まるで化け物に向けるような目でこちらを見ていた。白皙の頬は幾分かこけていて、シャツの上から羽織った藍のガウンが床に広がっているせいで、夜に溶けて消えそうなほど儚く見える。たっぷり十拍分の沈黙のあと、男は半ば呻くように呟いた。
「……どうして、どうして君がここにいる」
「そういう契約でしょう。聖夜まではここにいるわ」
「……君がここまで律儀とは思わなかった」
頭を抱えながらルチアを見上げると、レイモンドは何かを決心するようにきつく瞑目した。そしてすぐに目を開けると、次の瞬間には普段通りの微笑を貼り付ける。
「君との契約期限を変更する。今日付けで君は用済みだよ。異論も質問も認めない。君の新しい戸籍なら既に用意している。速やかに荷物を纏めてくれ」
「何のつもり?」
「君は不要になったんだ。とっとと出ていってくれ」
有無を言わせぬ声音と共に、レイモンドの微笑も氷のように冷ややかだった。ルチアの全てを排斥しようとする凍て付いた言葉に、ルチアはようやく顔を上げる。
読み耽っていた本を放り投げて、怯えも迷いもなくただまっすぐにレイモンドを睨む眼差しは、どんな炎よりも烈しく純粋に燃え上がっていた。
「お断りよ、馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てると、腰掛けていたベッドから降りて下を覗き込んだ。険しく歪む深い青紫を囲い込んだ長い睫毛と黒檀のような髪が、煌びやかなシャンデリアの光によく映えていた。
嗚呼、気が狂いそうなくらいそっくりだ。
刃のような視線を真っ向から受け止め、ルチアはふわりと微笑んでみせた。
「あなた、本当はリア・ラムスが憎いんでしょう?」
氷の微笑がグニャリと歪み、レイモンドの表情が残らず抜け落ちた。
「笑えない冗談だな。自分が言っていることが分かっているのかい?」
突き刺さる視線を一笑し、ルチアは悠然と腕を組んだ。怯えてはいけない。迷っても、退いてもここで終わる。この怪物のような男とやり合うのだ、虚勢はいくらあっても足りない。
「あんな組織に飼われて、金蔓になりながらずっと尽くすなんて正気の沙汰じゃない。だけどあなたがいたから、アギリアは地獄になりきっていなかったんでしょう?」
「何を……何を言っているんだ」
「火薬庫のようなこの街が何とか均衡を保っているのは、リア・ラムスが恐怖の代わりに秩序を敷いているから。だから貴方はずっと囚われたままでいる。飼い殺されたまま、身を削りながら静かに足掻いている。この街を、あなたが愛するアギリアを守るために」
それはきっと、闇夜に綱渡りをするようなものだっただろう。
ルチアを戦利品として連れ帰ったことで、保安局や婚家の手から掬い上げた。リーガルに夜煌石を掴ませ、自らの価値を確立し続けた。その一方でヴィクトリアのように搾取される住人を守ってきた。
危うい均衡をたったひとりで築き上げ、仮面を被りながら救えるだけのものを救ってきた。ルチアが怪物のようだと直感し、リーガルがサソリのようだと評した彼は、間違いなく途方のない男だったのだ。しかし、その仮面ももはや剥がれつつあった。
「何が言いたい⁉」
動揺が滲んで荒く響いたテノールに、ルチアはほくそ笑むように口角を吊り上げた。面白いくらいに揺らいでいく。彼自身、もう限界が近かったのかもしれない。
貝の火が静かに弾け、不可視の火花が烈しく爆ぜた。
「保安局に伝手があるの」
また一つ、ガタリと大きな音が鳴った。レイモンドが床を蹴飛ばすようにして立ち上がり、傷に響いたのか、掠れた呻き声を上げて再び蹲る。しかし、両の瞳には火を見るよりも明らかな怒りと焦燥が煮え滾っていた。
「黒曜総隊長、金緑石のルーカス・アレクシア少佐は知っているでしょう?あの方ね、最近アギリアにいらっしゃるのよ。一度は保護を申し出られたわ」
「……そんな大物が紛れていたのか」
「ここまで言えばもう分かるでしょう?彼の目的はね、ヴァレット家襲撃の咎でリア・ラムスを一網打尽にすることよ。私も少し口添えさせて頂いたわ。聖夜祭の日、彼は必ずこの地にやってくる」
レイモンドの両眼が燃え上がる。静かに凪いだ夜色の瞳がざわざわざと揺らめくさまは青い炎のようでいて、真夜中の一等星にもよく似ていた。
「冗談じゃない。そんなことになれば、この街は……!」
「アギリアの秩序は崩壊して、一帯が火の海になるでしょうね」
表情一つ変えずに言い放ったルチアに、レイモンドは爆ぜるような視線を注いでくる。鬼気迫る形相をジッと見定めながら、ルチアはにっこりと微笑んだ。
「参謀殿なら分かるでしょ?さあ、後悔のない選択をしてちょうだい」
容赦のない貝の火に貫かれ、レイモンドは静かに瞑目した。
迷うように、縋るように、悔いるように。固く閉ざされたまぶたの向こう側の、彼の心が少しずつ透けていくような心地だった。ガラス細工のような沈黙にヒビが入っていくのを感じながら、ルチアは息を潜めて時を待つ。
そして、仮面が砕け散る音がした。
ゆっくりと持ち上げられた瞼から覗く青紫色は、やはりルチアが愛した色ではなかった。すっかり見慣れた微笑は何処にも見当たらなくて、ただ泣き方を忘れた子供のような顔をした青年が、全てを諦めたようにジッと天を仰いでいた。
「……不甲斐ないな、俺は。最後まで隠し通すつもりだったのに」
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