勿忘の欠片
部屋に戻ったルチアは預かったコートを壁に掛けると、手始めにレイモンドのクローゼットを開けた。
「呆れるくらい最低限ね」
品質だけはいいが何の飾りもないシャツ、黒いトラウザーズとフロックコートが何枚か。正装用のスワローテールコートも二着だけあるものの、色はどちらも漆黒。唯一ウエストコートだけは灰色も何着か置いてあった。しかし、他にはほとんど何もない。ルチア自身は男性の服装の事情など何一つ知らないが、母の記憶にもここまで無頓着な人間はいなかった。ルチアの扱い方を考えれば懐に余裕はあるのだろうが、まさかここまで自分に金を掛けていないとは。
ルチアは首を傾げながら、見逃した場所を探るように身を乗り出した。しかし、あまり大きくはないクローゼットの中ではすぐに頭がつかえてしまう。半ば諦めながらも根気よく目を凝らしていくと、隅にポツンと置かれた小さな木箱が目に入った。
手に取ってみると、木箱は思ったよりもずっと年季が入っているように見える。しかし何故か埃を被ってはおらず、箱の表面は鏡面のように磨かれていた。手のひらから少しはみ出す程度の大きさで、蓋にも側面にも精巧な鈴蘭が彫り込まれている。
僅かに躊躇いながら蓋を開けると、カタリと響く乾いた音がやけに大きく聞こえた。何故か震える手に力を込めながら、ルチアは木箱をそっと覗き込む。そして中を確認した瞬間、膝の力が一気に抜け落ちた。
木箱の中身は、小さな指輪だった。
月光のような柔らかい銀色の輪に、表裏で背中合わせになるように石が二粒嵌め込まれたシンプルなもの。石はどちらも青い宝石で、小さな木箱に閉じ込められた夜を見つけ出したように、一目見ただけで吸い込まれそうな光を宿している。片方は不透明で、金や白い粒が散りばめられている群青の石。そしてもう一方の石は透き通っていて、勿忘の花によく似た淡い青紫色を宿していた。
「この色……!間違いないわ、レイの運命石じゃない!」
倒れそうな体を必死に支えながら、うるさい心臓を握り潰すように抑え込む。七年前、最後に零れ落ちた欠片と同じように煌めく青紫色。レイモンドのものよりもずっと柔らかい、昼と夜のあわい。恋焦がれ続けた、世界で一番好きな色だった。
鉱山で産出される夜煌石はごく僅かな量であり、大粒の原石が流通することはほとんどない。だから、この指輪にはレイの涙が使われていると断言できる。
何故レイの運命石がここにあるのか、どうして木箱に閉じ込められていたのか。やはりレイモンドが祝福を奪ったからなのか。泣き叫ぶように荒れ狂う激情を懸命に飲み干しながら、ルチアは千切れそうな思考を必死に繋ぎ止めた。
仮にレイモンドが祝福を奪っていたとしても、この指輪の意味は不明なままだ。そもそも、人の目から隠すように指輪を仕舞い込む理由も分からない。ヒントがあまりにも足りないのだ。足りないのなら見つけ出せばいい。未だに震えが残る右手で指輪を摘まむと、ルチアは木箱をひっくり返した。
思惑通り、木箱の底にはほんの小さな文字が刻まれていた。鈴蘭のように彫り込まれている訳ではない。時を経て滲んでしまった黒インクのメッセージはぼやけていたけれど、まだ辛うじて意味は読み取れた。
『どうか、君が笑ってくれますように』
丁寧で素直な、流れるような筆跡。年齢にしては酷く大人びた、だけど何処かに無邪気さが残るこの文字を、ルチアは確かに知っていた。
七年以上前、レイと初めて出会った日。
名前の綴りが分からないと首を捻ったルチアのために、地面に枝で書いてくれたレイの名前は、確かにこんな形をしていた。
レイが書いたもので間違いないだろう。七年間、擦り切れないように大事に抱え込んできた綺麗な思い出を、ルチアが見誤ることはない。笑ってくれますように、なんていかにもレイが言いそうな言葉だ。陽だまりのような言葉なのに、脳裏に浮かんだのは仮面のように張り付いた微笑だった。
レイモンドが隠していた指輪にレイの運命石が使われていたのなら、やはり彼がレイの仇と考えるのが妥当だ。ここで辻褄は合ったはずだった。しかし、メッセージの存在がその推測をひっくり返した。
もしも、指輪がレイからの贈り物だったとしたら?
「……あの男、一人でどれだけ矛盾を背負い込んでいるの?」
いい加減にしろと叫び出したい気分だった。憎めと言いながら、溢れんばかりに滲み出る矛盾のせいで満足に殺意を抱くこともできない。生存戦略の駒ならそれらしく扱ってくれた方が万倍マシだっただろう。
憎しみは消えない。それを差し引いてもいけ好かない男だ。それでも、あの男がルチアを大事に扱い、傷だらけで守ってくれたことはどうしたって否定できない。そもそも部屋に鍵を掛けない時点でおかしかった。逃げろと言っているようなものじゃないか。元の取引だって、身の安全を盾に脅したわりには酷く穏やかな内容だった。
嗚呼、そして何よりも。
あの男は、仇にしてはあまりにもレイに似ている。
顔の造作は瓜二つで、声は幾分か低いけれど、声変わりと言われてしまえば違和感がないくらいには似ている。仕草も口調も、まるでレイがそのまま闇の中で成長したようで。
ただ、瞳の色だけが。運命石も一致する中で、瞳の色だけが僅かに違う。
成長段階で色が変わったと考えられなくもない、決定的とは言えない変化。それでも、あの真夜中の色の瞳だけは、彼が彼であることを見失わせないでくれる。
だから知るべきなのだ。彼が何者で、何を願ったのか。真実がどれだけ残酷でも、悲願と無関係の賭けだったとしても。きっと、ルチア自身が知ることを望んでいるのだろうから。
やれるだけやってみればいい。知らずに自由になってしまえば、もう知らないまま憎み続けることしかできなくなってしまう。
それだけは嫌だと、ルチア自身が望んでいるのだから。
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