迷い星の決断

 まるで壊れた人形のように、長身がぐにゃりと折れ曲がった。地を這った黒髪に、ルチアの頭が殴られたように真っ白に染まっていく。ジワジワと滲んでいく赤黒い液体が土に溶けて、それを見届けた男が一人駆け出した。男の右手に握られたナイフにも液体がこびり付いていて、思考がどんどん赤黒く塗り潰されて。

 凍り付いたルチアの思考を切り裂くように、レイモンドは震える右腕を無理矢理跳ね上げる。

 ドンドン、ドンッ!

 記憶にこびり付いた悍ましい金属音は、立て続けに三度鳴り響いた。

 ナイフを持った男がドサリと倒れる。心臓に空いた風穴から噴き出した鮮血が、今度こそルチアの思考を真っ赤に塗り潰した。

「あ、あ……」

 何が起きているのかも、あの男が誰なのかも、何も考えられなくなってしまう。

 嗚呼、これだから。

 これだから血は嫌いなのだ。思考が凍り付いて、そのせいで何もできなくなる。七年前に目の前で爆ぜた赤、泣き叫びながら飲み干した赤、母の記憶に焼き付いた無数の赤。瞳の色と大差ない癖に、大切なものを傷付けいたぶり奪っていく赤が何よりも大嫌いだった。

 視界の隅で、ヴィクトリアが死に物狂いで走っていく。彼女はもうルチアのことなんて気にも留めていない。何かを訴え掛けるように叫ぶヴィクトリアに感化されたのか、周囲を取り囲む人混みが少しずつほぐれて、何人かが弾丸のように走り出した。

 みんな、必死に動いている。レイモンドを、ルチアの仇であるこの男を、何とかして救い出そうと動いて、走っている。

 夥しい量の血が道を汚している。知ることも殺すこともできないまま、このまま死んでしまうかもしれない。嗚呼、そんなの。

 そんなの、認められる訳がない。

「いやよ、いやだわ。そんなのいやよ」

 握り締めた掌の温度を感じながら、炎を灯す瞳がパチリと見開かれた。本能的な恐怖に、全身が震えて役に立ちそうもない。それでも、倒れる訳にはいかなかった。

「ヴィクトリア!私は何をすればいいの!」

 悲鳴に近い叫びは予想よりもずっと上擦っていて、広場に響いたのは随分と間抜けな声だった。しかし、ヴィクトリアのもとにはしっかりと届いたようだった。彼女は走りながら勢いよく振り返ると、ルチアに向かって何かを投げ渡す。何とか受け止めると、それはレイモンドのコートと彼の所持品だった。

「悪いけど、アンタにできることはないよ!お嬢さん育ちで血生臭いことも慣れてないんだろう。アギリアじゃ珍しいことでもないさ。邪魔になるくらいならそれ持って帰りな!」

「だけど!」

「安心しな、見た目より傷は深くない!すぐ医者に担ぎ込めば助かる。アギリアにはね、地上を追われたはぐれ者が集うんだ。毒だの切開術だの、そんなものばっかり研究したせいで、顔を焼かれて追放された名医だって例外じゃないさ!」

「本当に無事で帰って来るの⁉」

「ああ、保証するよ‼」

 突き放すようにルチアを遠ざけながらも、ヴィクトリアは汗まみれの顔で力強く微笑んだ。ルチアに声を掛けている間に周りの人間にも次々と指示を出していく。ルチアがコートを握り締めることしかできないでいる間にも、彼女はレイモンドを慎重に抱き起こして担架に乗せている。運ばれていく担架がルチアの横を通った時、低く呻くような声が耳を衝いた。

「きみ、だいじょうぶ、か」

「レイモンド!」

「ああ、きみ、がぶじで、よかっ……」


 どうして、そんなことを言うの。

 どうして、あなたは笑っているの。


 腹からダラダラと血を流しているのに、レイモンドは確かに微笑んでいた。いつもみたいに貼り付けた仮面ならまだ憎らしかったのに、緩むように上がった口角はまるでとっさに滲んでしまったかのように自然だった。

 再び凍り付いてしまったルチアを見つけ、業を煮やしたヴィクトリアが駆け寄ってくる。半ば突き飛ばすように背中を押され、ルチアはぼんやりと顔を上げた。

「ほら、さっさと行きな‼アンタまで危ない目に遭うつもりかい⁉」

「本当に、助かるの……?」

 口にしておきながら、ルチアは自分が信じられなかった。

 この男は仇だ。それなのに、何故そんなことを。

 やけに遠く聞こえる喧騒の中で、ルチアは呆然と天を仰いだ。渦に呑まれそうになる意識に身を委ねそうになった時、背中に鈍い痛みが迸った。

 ルチアの意識を乱暴に叩き起こし、ヴィクトリアは何処までも真摯に叫んだ。

「アタシのことは信じなくたっていいさ!だけどアンタの旦那の人望は信じておやり!言ったろ、若君は星なんだよ!死なせる訳にはいかない‼」

 太陽のように烈しい叫びは、ルチアの心臓を確かに揺らした。

「……彼が目覚めたら、約束は守るように伝えておいて」

 ルチアはコートを握り締めると、転がり落ちるように駆け出した。走って、走って、振り返らずに狭い通りを駆け抜ける。躓いても、奇異な目で見られても、気にしている余裕なんてありやしなかった。そして来た時と同じ木戸から狭い通路に飛び込むと、ルチアは崩れ落ちるように蹲ってしまった。

 露わになった血の気の失せた顔は、気が狂いそうなくらいレイにそっくりだった。

 きつく瞑った瞼も、痛々しいシワが刻まれた眉根も、記憶の中の初恋と同じ形をしている。いつもは瞳の色でようやく別物なのだと思うことができるのに、閉ざされてしまっているせいで僅かな違いさえ曖昧になってしまった。

「他人よ、あの男は他人なの。レイを殺した仇で、だけど地底街の人たちにとっては星で……駄目ね、何も分からない」

 憎むだけ憎んで、利害関係が消えたら復讐すればいい。カラッポの心を埋めることはできなくても、少なくとも意味は残る。それなのに、あの夜ルチアはレイモンドを手に掛けることができなかった。だから知るべきだと思ったのだ。彼の真実を掴めば、少しだけ前に進めるような気がするから。

「自分の心に従え、だったかしら。いいわ、やりたいようにやってみようじゃない」

 茶色と灰色と、時々赤が混じっている。レイが愛した世界もまた、こんな風に煉瓦に覆われていたのだろうか。砕けたように竦む足を必死に動かして、立ち上がった先の景色は相変わらず無機質な茶色だった。

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