運命の曲がり角
不意にヴィクトリアがルチアの肩を叩き、そっと視線を交わらせる。
「アンタ、あちらをご覧。通りの向こうに怪しい男がいる」
咄嗟に差された方に目を向けると、確かに一人の男が立っていた。
「あの男、さっきからずっとアンタのことばっかり見ているんだ。知り合いかい?」
ルチアがジッと目を凝らすと、男の方も気が付いたようで無言で見返してくる。ヴァレット家の関係者だろうか、とルチアは一瞬顔を蒼褪めさせた。しかしよく見ると、目深に被った帽子の隙間から黄金色の髪がほんの少し飛び出している。途端に胸を撫で下ろしながら、ルチアはにっこりと微笑んだ。
「ええ。少し縁があった人なの。話してきてもいいかしら?」
「何だい、浮気じゃないだろうね」
「まさか。でも、できればここから見守っていて欲しいの。危険なことにはならないでしょうし、やましいこともないもの」
「……まあ、いいけどさ。目は離さないからね」
「ええ。お願いね」
腕を組んだヴィクトリアに送り出され、ルチアはゆっくりと男の方へ歩み寄っていく。ルチアが近くに来ると、男は帽子を取って会釈をした。途端に翻った黄金色と煌めく紅に、ルチアは少し困ったように微笑んで礼を返す。
「お久しぶりです、アレクシア少佐。まさかこんなに早くいらっしゃるなんて」
「久しいな、ルチア嬢。私は仕事で潜り込んでいるんだ。どうか内密に願う」
「ええ、もちろん。潜入調査ですか?」
「いや、調査しているのは部下だ。私は演技が得意ではないから、適任な者に任せている」
「あら、ではあなたがいらっしゃる必要もないのでは?」
「そうだな、下手をすれば足手纏いかもしれない。だが危険な場所に部下を駆り出しているのだから、私だけが地上に留まる訳にもいかない」
「そうですか。一度しかお会いしていない身で言うべきではないでしょうが……あなたらしいですね」
「そうだろうか?」
「ええ、とっても」
大きく頷くルチアに、ルーカスは凛々しい眼差しを綻ばせた。ヴィクトリアの笑顔が地中の太陽なら、ルーカスの微笑は木漏れ日を閉じ込めたように温かい。思わず目を逸らすルチアを柔らかく見下ろし、ルーカスは以前のように優しい声音で語り掛けた。
「また貴女を見掛けるとは思っていなかった。不躾な視線を浴びせてしまってすまない。貴女に頼まれた件の調べはもうついているんだ。予定通り言付けてもよかったが、一刻も早く伝えておきたかった」
「もう調べてくださったのですか?」
「二週間も経っているんだ、当然だろう」
当たり前のように頷くと、ルーカスは真剣な表情で語り始める。
「結論から言う。クオーレの家という名の孤児院は今も南地区に存在する。老いたマザーと隻腕のシスターが二人きり、細々と切り盛りしている様子だった。シスターの方は体が思うように動かせないらしく、車椅子を使っていた」
「……そう、ですか」
「だが、話を聞くと経営が苦しい訳ではないようだ。六年ほど前から、とある人物が毎年寄付を行っているらしい。あまりにも額が大きいそうで、むしろ持て余していると言っていた」
ルチアの心臓がぞわりと波打つ。クオーレの家は小さな孤児院だ。慈善活動の一環として貴族が施しを行うことはある。しかし、毎年多額の支援を受け取れるような場所ではない。
「その支援者とは誰です?」
「さぁ、私も詳しくは分からない。何せ身元も顔も隠しているそうだからね。だが、長身の若い男だそうだ」
「もっと特徴はありませんか?」
「すまないが、他は何も。孤児院側からは毎年お礼の手紙を渡しているそうだ。
「そうですか……」
ルチアはそっと奥歯を噛み締める。そしてすぐに取り繕い、ルーカスに向き直った。
「……お二人はどんな様子でしたか?」
「子供たちの世話に追われているようだったが、本人たちは充実しているように見えた。シスターは支援者から贈られた義手を嵌めていたんだが、それが随分と精巧な造りだったんだ。最初は隻腕だと気が付かなかった。二人とも子供たちからとても慕われていて、とても理想的な孤児院だったように思う」
「そう、ですか……よかった、本当に……よかったわ。ありがとうございます」
「礼は必要ない。約束を果たしただけだ」
穏やかに締めくくったルーカスに、ルチアは心の底から安堵したように深い溜め息を吐いた。体の自由を失ったシスター・グレースを想うと心が裂けそうだったが、彼女が生きていたことが何よりも嬉しかった。もう二度と会うつもりはないけれど、あの美しい場所で笑っていた優しいシスターとマザーが変わらないままで笑ってくれるのなら、ルチアも少しだけ前を向けるような気がしたのだ。
潤んでいく視界をギュッと閉じても、溢れ出した雫は抑え切れずに頬を伝う。すぐに硬化した涙を慌てて受け止めると、手のひらの中でゆらゆらと火焔が燃えていた。灯のような欠片を握り締め、ルチアはルーカスに向き直った。
「アレクシア少佐。お伝えしたいことがあります」
涙に濡れても消えない炎を向けるルチアに、ルーカスは真摯な視線を交錯させる。意を決したように口を開いたルチアの声は、喧噪の中でもやけに際立って聞こえた。
「今からひと月後、リア・ラムスで何かが起こります」
「何か、とは?」
「分かりません。ですが、聖夜祭の日に何かが起きるのは間違いありません」
一度言葉を切ると、ルチアは大きく息を吸った。何故か速くなっていく鼓動を必死に抑え付けながら、もう一度そっと口を開く。
「私はこれから、レイモンド・リア・ラムスという男を知るつもりです。あの男が本当に冷酷なサソリなのか、確かめてみる価値はあると思いませんか?」
ゆっくりと噛み締めるように言葉を並べるルチアの声は僅かに震えている。しかしルーカスは表情一つ変えず、決意の在り処を確かめるように彼女の顔をそっと覗き込んだ。
「それは、貴女の求める自由と何か関係があるのか?」
「いいえ、恐らく何も。ですが何故でしょうか。知らなければいけないと思ったのです。こんなことを考えるなんて、母に顔向けできないかもしれませんが……」
「……いや、そんな訳がない。貴女の母君はきっと、誰よりも喜んでいると思う」
思いがけない否定の言葉に、ルチアは俯き掛けていた頭を跳ね上げる。ルーカスはそんな彼女を慈しむように微笑み、きっぱりと断言した。
「貴女が自らの意思で動くことが重要だ。母君の願いを叶えたいのなら、貴女自身の心に従ってみてはどうだろうか」
「何故そう思うのですか?」
「貴女の母君は、自らを犠牲に貴女を逃がしたんだろう。だから分かるんだ。子を愛する母親が願うことなど、民衆も犯罪者も貴族も変わらない」
ルチアはポカンと呆けたように口を開ける。やがて我に返ると、恥じるように小さな声でポツリと呟いた。
「分からない。何も、分からないわ」
「……本当に、そうだろうか」
「母の記憶を探ってみても、祖母の記憶はほとんどありません。私自身の記憶にも、母の姿はあまりありません。だから、少佐が仰っていることが理解できません。ですが、少佐に分かるのですか?」
「ああ。貴女もすぐに分かる。だから、今はただ信じた道を往けばいい」
ルーカスの声音はいつも通り柔らかく凪いでいる。しかし、紅の瞳は鮮やかに煌めいていた。
「そろそろ戻った方がいい。あのレディが心配しているようだ」
振り返ると、ヴィクトリアが何か言いたげにこちらをジッと見ていた。疑るような視線を受けたルーカスは肩を竦めると、困ったように微笑んでみせる。
「私はここで失礼する。幸運を祈るよ」
「……ええ。ありがとうございました」
ルーカスが立ち去ると、ルチアは踵を返してヴィクトリアに駆け寄った。宣言通り何も起きなかったことに安堵しながら、ヴィクトリアはルチアの頭をグシャリと撫でる。
「随分と話し込んでたじゃないか。あの男、一体誰なんだい?」
「実は私もあまり知らないの。でも、優しいのは確かだわ」
「若君よりもかい?」
「さあ、どうかしら」
クスクスと笑うルチアに、ヴィクトリアも豪快に笑った。それからしばらく他愛のない会話を続けていると、ヴィクトリアがルチアの肩を軽く抱いた。
「若君が帰って来た。迎えてやりな、お嬢さん」
「あら、本当だわ」
人と土埃の間から垣間見えた黒髪に、ルチアはスッと右手を挙げた。レイモンドも左手を振り返すと、ゆっくりと二人の方へ歩み寄ってくる。こちらを見詰める紺紫の瞳は何処までも透き通っていて、何だか吸い込まれそうな色合いを宿していた。
しかし次の瞬間、ヴィクトリアがカッと目を見開いた。長い髪を振り乱しながら右腕を伸ばし、絹を裂くような声を上げる。
「若君、後ろ‼」
悲鳴のような叫びにルチアが反応するよりも早く、レイモンドの体がぐらりと傾いた。
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