奈落の底の一等星

「四年くらい前だったか。アタシはまだ娼婦でね、リア・ラムスの老人どもを相手にしてたんだ。ある時常連があんまりにも手荒くてね、つい逆らっちまった。すぐに後悔したよ。客に首を絞められてからだけどね」

「最悪の客ね」

「本当にね、殺してやりゃあよかった」

 ヴィクトリアはカラリと笑う。強くしなやかな、修羅場を生き抜いた者の笑みだった。

「この街じゃリア・ラムスは絶対だ。アタシらみたいな小虫、何人殺したって毛ほどの裁きも受けやしない。あの時はねえ、さすがに死ぬかと思ったよ」

「……それでも、あなたは生きているわ」

「ああ。音を聞き付けて飛び込んできた若君が取り成してくれてね。相手もさすがに首領の息子には強く出られなかったんだろう。すぐに解放されたよ。それからアタシは娼婦を辞めて、若君の手を借りながらアギリアを転々としたんだ。トネリコ街にも住んだことがあるよ。ここも悪いとこじゃないんだ。いい酒場がある」

「それは……とても大変だったのでしょうね」

「さあねえ、別にそうでもないさ。アンタもお人好しだね」

 夏空のように朗らかなヴィクトリアの姿からは、当時の苦労の欠片も伺えない。しかし、彼女が辿った轍はきっと、不確かないばらの道だったのだろう。平坦な道をただ歩いてきた人間には纏えない凛然とした空気がその証明だった。

「半年くらい経った辺りで、件の男が死んだって報せが来てね。若君には止められたけど、また地底街に住むことにしたんだ」

「それはどうして?やっぱり慣れていたからかしら」

「慣れてたって誰も住みたかないよ、あんな場所。でもさ、近くにいた方が恩も返しやすいだろう?」

 ルチアは目を見張った。

「どいつもこいつも、地底街の他の連中はみんな似たようなもんさ。若君に恩があるから住んでいるんだ」

 一度言葉を切ると、ヴィクトリアはルチアの貝の火を覗き込む。運命石のような輝きのない暗い橙色の瞳が、太陽のようにキラキラと光っていた。

「アギリアは奈落の街だ。地底街なんて、英雄の銅像みたいな顔して断頭台が鎮座してる。地獄みたいだろう?」

「……ええ」

「だけど、みんなそれを承知で生きてるんだ。明日死ぬかもしれないって思いながらね。だって仕方ないじゃないか、アタシらは何処にも行けない。アタシは故郷が戦争で焼けちまったし、特別な才能があったせいで居場所を失った奴もいる。アタシの隣の天幕の女の子は騙されて小汚い金持ちの妾にさせられてたのを、必死に逃げてきたらしい」

 ルチアは目を見張った。レイモンドの言葉が思考を駆け巡る。

 誰もが太陽の下で生きられる訳じゃない。

 あの時は意味が分からなかった。アギリアは犯罪の巣窟で、住人はみな極悪非道な悪人だと信じていた。でも、きっとそれは大きな間違い。

 ヴィクトリアのように強く美しい人が、誰かを傷付けるはずがない。

「あなたみたいな人がアギリアに住んでいるなんて、ちっとも思わなかったわ」

「まあそうだろうね。特にこんなところでのし上がるような奴はどいつもこいつも屑ばっかりだ。人を人とも思いやしない。でもね、若君だけは違うんだ」

 眩しいものを仰ぎ見るように、ヴィクトリアはそっと目を細めた。


「あの子は、あの子だけはアタシらの命を散らせないために身を粉にしてくれる。闇夜にポッカリ浮かんだ星座みたいに、若君だけがアタシらの光なんだよ」


 ヴィクトリアの透明な声に、ルチアは静かに目を伏せた。レイモンド・リア・ラムスという男を知れば知るほど、雲を掴むように何も分からなくなる。

 ルチアを脅して生存戦略の駒にしておきながら、時には身を挺して庇いさえする。しかし本人はレイを殺したと宣い、その証拠のようにレイと同じ夜煌石を宿している。

 今のところは利害が一致しているだけの、憎むべき存在。それなのに、ルチアは何故かヴィクトリアの言葉を笑い飛ばすことができなかった。代わりにポツリと言葉が零れ落ちる。

「……私、あの人のことをもっと知るべきなのかもしれないわ」

 思考を通さずに転がり出たそれは、確かにルチアの本音だった。

 疑念は尽きない。嫌悪は消えない。何も知らないままあの男を殺してしまえれば楽だろ

「ああ、その方がいい。大切な人間のことは何だって知っておいた方がいい。馬鹿な男が一人で突っ走ってアンタを置き去りにして、暗い方に行っちまったとしてさ。知っていることが多ければ、何とかして連れ戻せるかもしれないからね」

「……何か、悲しいことがあったの?」

「昔の話さ。アンタは後悔するんじゃないよ」

 そう言って笑ったヴィクトリアの横顔は美しく、暗い影なんて感じさせない。視線を逸らした先でぼうっと光るカンテラを眺めながら、ルチアはボソリと呟いた。

「見えているものが全てとは限らない、か」

「うん?何か言ったかい?」

「いいえ。ありがとう、ヴィクトリア」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る