トネリコ街

 レイモンドはあれから高熱を出し、結局三日ほど塞ぎ込むことになった。と言っても本人は慣れているようで、食事以外は自分の力でこなしてしまう。ルチアが四苦八苦して拵えた簡単な食事を摂る以外はほとんど寝て過ごし、起きればルチアの手を借りながら浴室に向かう。拒否しても無視して腕を引くルチアに、レイモンドは溜め息を吐いて零した。

「普通、憎い相手には触れたくないものなんじゃないか」

「私、じれったいのは好きじゃないの」

 ルチアはそのままグイッと乱暴に、ベッドに座っていたレイモンドの右腕を引っ張り上げる。その瞬間、レイモンドの脇腹がズキリと悲鳴を上げた。

「いたっ、手加減してくれよ」

「細々とした世話は向いていないのよ、嫌ならさっさと立ってちょうだい」

「……よくもまあ七年も深窓の令嬢を演じていられたね」

「女はみんな役者ですもの」

 つっけんどんに言い放ちながら、ルチアは何度も何度もレイモンドの手を引き、彼の指示で包帯を変えたりもした。何だかんだ手を貸していると、気付けば一日のほとんどを下の部屋で過ごしているようになっていた。するといつの間にか熱は下がっていて、レイモンドが仕事に戻るとルチアも中二階に閉じこもる生活に戻ったのだが。

 偽装婚約の期限もそろそろひと月を切ろうとしていたある日、ティーカップを傾けていたルチアが唐突に口を開いた。

「あなた、今日は外出するって言っていたわね」

「それがどうかした?」

「私も行くわ」

「……はあ?」

 忙しく身支度を整える手を止め、レイモンドは訝しむように中二階を覗き込んだ。対するルチアは心外だとでも言いたげに肩を竦めてみせる。

「婚約者よ?デートくらい行かなくちゃ、説得力がないじゃない」

「君を連れ回さなくても怪しまれないために、僕はわざわざ監禁趣味なんて不名誉な評判に甘んじているんだけど?」

「なら鎖で繋ぎながら歩いたら?私、そろそろ手持ちが欲しいのよ」

 胡乱な視線を微風のように受け流し、ルチアはさらりと宣った。レイモンドは一瞬目を見開くと、次いで呆れたように溜め息を吐く。ルチアは退く気はないようで、こめかみを抑えるレイモンドに背を向けて、せっせとクローゼットを漁っていた。

「今渡しているものじゃ足りないのかい?幾ら用立てればいいのかな」

「違うわよ、換金がしたいの。いざという時のために、貨幣を何枚か持っていたいもの」

「いざという時って、脱走でもするつもりかい」

「さあね。あなたがヘマして死んだらきっとそうなるでしょうけど」

 ルチアはクローゼットの奥に身を乗り出し、隠すように置いていた麻袋を取り出した。

「だからってどうして君が出る必要があるんだ。僕が換えてくればいいんだろう」

「七年も自分で店に入ったことすらないのよ?何事も練習は大事よ、別に逃げやしないわ」

 手に握った小さな麻袋を軽く振ると、ジャラジャラと金属同士がこすれ合う音が階下のレイモンドにも聞こえてくる。レイモンドは頭を思わず抱えた。

「本当に来る気か?」

「そう言っているじゃない」

 どれだけ渋られても曲げないルチアの強情さに辟易して、レイモンドはもう一度深い溜め息を吐き出した。

「……僕一人で会わないといけない人間がいるんだ。その間は君のことは知人に任せる。換金も彼女にやってもらう。いいね?」

「ええ、いいわ」

「……直ぐに支度してくれ」

 このままでは平行線だと悟ったのか、レイモンドは渋々折れた。そして途端にくるくると動き出すルチアを見ると、三度目の溜め息を落とす。彷徨いながら伏せられた紺紫が、一瞬だけ交わった貝の火を映してきらりと光った。

「それで、何処に行くのかしら」

 隠れ家の外に出ると、ルチアはクルリと振り返ってレイモンドを仰ぎ見る。無邪気で無垢な少女にも見える仕草に肩を竦めると、レイモンドはいつも通りの微笑を貼り付けて、二歩先を歩いていたルチアの左手をするりと絡め取った。

「トネリコ街。アギリアの第五層だよ」

「トネリコって、木の名前でしょう?アギリアの地名は面白いのね」

「住んでいる連中が適当に名付けるんだ。地底街だって、単に最下層にあったから付けられた名前だからね。他に気になることはあるかい、婚約者殿」

「地底街は第七層でしょう。二階層も上に行くの?」

「ボスの御命令でね。ドン・リーガルの旧友に伝言を仰せつかっているんだ」

「それって参謀の仕事?使い走りの間違いじゃないの」

「悪いね、立場が弱いもので」

 小声で応酬を繰り広げる二人の空気がどれだけ冷たかろうと、傍から見ればぴったりと寄り添って歩く姿は仲睦まじい恋人にしか見えない。見世物小屋のように集まってきた住人の生温い視線を受け流しながら、レイモンドは向かって右側の壁の前まで進み、手前から二番目の扉を勢いよく開いた。

 カンテラと土埃だらけの道を並んで抜けていく。レイモンドと二人なら、少なくとも迷う必要はない。いくつかの角をくねくねと曲がり、分かれ道を迷いなく突き進む男に手を引かれていると、気付けば目の前には木戸が鎮座していた。

「この先がトネリコ街だ。地底街よりはリア・ラムスの目が届きにくいから、目的地に着くまで絶対に僕から離れないで」

 いつになく真剣な響きを帯びた言葉に頷くと、ルチアは木戸に手を掛ける。開け放たれた扉の先には、地底とよく似た箱庭が広がっていた。

「地底街とあまり変わらないのね」

「まあ。だけど、地底よりも統制が取れていないだろう?断頭台はないけどね。」

 レイモンドの問い掛けに、ルチアは通り過ぎていく景色をジッと眺めた。街全体は恐らく地底よりも大きいようで、道行く人の数も大違いだ。しかし、石畳の通り沿いに店も兼ねた天幕が並んでいた地底と違って、トネリコ街では剥き出しの地面に敷き詰められた小さな天幕の間に狭い道ができていた。天幕自体も地底のものよりもずっと小さく、穴だらけでボロボロのものまでちらほら見える。露店の商品はそう変わらないが、地底で紛れ込んでいたような宝石や珍しい薬の類いは一切ない。代わりに、店頭に並ぶ武器の量は明らかに地底よりも多かった。極め付きには、天幕にも入らずに路上で身を寄せ合う老人や子供たちも何人か見掛ける有り様だった。堂々とそびえる断頭台を除けば、地底よりもずっと剥き出しの姿に、ルチアは思わず息を呑む。隣でやけに注意深く辺りを見渡すレイモンドの腕を引くと、いつもより僅かに弱々しい声で呟いた。

「……分かってはいたけれど、随分と物騒ね」

「だから言っただろう。だから君を誰かに任せたいんだけれど……ああ、やっぱり彼女はここにいたか」

 人混みの中で目を凝らしながら、レイモンドは一人の女を見つけ出した。途端に駆け足になる彼に必死で着いて行くと、前を歩いていた彼女がゆっくりと振り返る。

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