潰えぬ炎
「これからしばらく寝込むだろうけど、君の食事くらいは用意できるから。君は何も気にせず過ごせばいい」
淡々と言葉を並べ立てる横顔から、胡散臭い微笑が段々と抜け落ちていく。滴る鮮血が飴色の床に垂れても、レイモンドは眉一つ動かさない。ただぼんやりと虚空を見つめる紺紫に、ルチアは思わず口を噤んだ。
石自体の価値が高くない菫青石は資金源になりえないだとか、食事の心配なんてしている場合なのかとか。言い返そうとすればいくらでもできるのに、翼を切り取られた鴉のようなレイモンドを見ると何故か手が震えた。
「関係ないって言うなら、どうして私を庇ったりなんかしたの。あなたの立場が悪くなるだけじゃない」
思いの外弱々しく響いた声に、レイモンドは億劫そうに顔を上げる。ルチアの炎の瞳は僅かに翳っていた。
「あなたがレイじゃないのなら、どうして私に情けをかけるの?どうして私を守ろうとするの?」
「やめろ、僕は君を守るような人間じゃない。僕は、地底のサソリなんだよ」
痛みに顔を歪めながら、レイモンドは期待するように揺れる貝の火を睨み付けた。
「貝の火は出し惜しんだ方が得だからそうしただけだ。君のためなんかじゃない。」
「だけど、あなたは……」
「やめろ‼」
初めて耳にしたレイモンドの怒鳴り声に、ルチアは思わずビクリと身を縮める。何もかもを拒絶する冷たい声は抜き身の刃のように鋭く、子供の慟哭のようによく響いた。
「僕は君のレイじゃない。君のレイは死んだ。もうこの世の何処にもいない。僕が、この手で殺したんだ!」
まるで神に宣誓でもするかのように、レイモンドは酷く明瞭な口調で言い放った。事実という名の剣がルチアの心を粉々に砕いても、顔色一つ変えずに淡々と言葉を続ける。
「君のレイは僕が殺した。それだけが事実だ」
薄暗い部屋の中で、紅蓮の炎が苛烈に爆ぜた。
「貴方が殺したの?」
問い質す声は酷く掠れている。しかし、応える声は何処までも平坦だった。
「そうさ。僕が殺して祝福を奪った」
何の温度もない声で告げられた言葉に、ルチアは心臓が静かに凍て付くような感覚に襲われた。身を焦がすような憎しみと、全身が氷の中に閉じ込められたような寒さの繰り返しで、心の奥が腐り落ちるように色を失くしていく。また一つ、ルチアの宝物が零れ落ちた。
星が消えた世界を見渡すと、確かに今までよりもずっと暗くくすんで見える。カラッポだと信じていたのに、何故かまだ残っていたらしい心が散り散りに砕けてジクジクと痛む。しかし、ルチアという少女は哀しいほど強く聡明で、星よりもずっと無情な信念が鎖のように彼女を捕えて離さなかった。
震える体で必死に立ち上がりながら落ちていた毛布を掴み取り、覚束ない足取りで階段を降りる。よろよろと壁伝いに扉の前まで歩いていくと、レイモンドの前に立ちふさがった。
「まさか僕を殺すつもりか?随分と無謀なことを」
「黙ってちょうだい。処置がなっていないわ。せめて止血くらいはきちんとしてちょうだい」
毛布を無理矢理押し付けられたレイモンドはポカンと目を見開いた。
「私は非力だし、手当もできないから手は出さないわ。貴方は慣れているんでしょう?早く血を止めて寝なさいな」
「えっ……?」
「食事はあなたが用意しているのよね。調理場は何処?」
「いや、あの」
「何処かって聞いているのよ」
「出てすぐ、浴室の向かいの扉がそうだけど……」
「ああそう。ならしばらく私がやるわ。不味くても文句は言わないでちょうだいね、母の記憶だけが頼りなんだから」
そっぽを向いたまま言い捨てると、ルチアはさっさと踵を返す。どんどん遠ざかる背中に、レイモンドは悲鳴のような声を上げた。
「お、おい!僕を殺さないのか?」
「ええ、今は」
「何故?僕が憎くないのか?」
「憎いに決まっているでしょう。だけど、今のあなたを殺したっていいことはないわ。勝手に死んでくれるなら結構だけど、天下のリア・ラムスの参謀兼金蔓に手を出して処刑されるなんて御免よ」
氷のような声音で吐き捨てると、ルチアはやや乱暴な足音を立てて自分のベッドに戻っていく。一人残されたレイモンドが呆然としていると、閉め切られたカーテンの向こうから、粉雪のように冷たく儚い声が降ってきた。
「……復讐は自由を手に入れてからよ。だから、契約している間は生きてちょうだい。死なれては仇がいなくなってしまうわ」
レイモンドは思わず中二階を見上げた。朱色のカーテンに遮られるせいで、少女がどんな顔をしているのかは分からない。一人分の影しかない部屋に、二人分の息遣いだけが確かに存在している。奇妙な事実を噛み締めながら、レイモンドはポツリと呟く。
「君は強い。君みたいになれたらどれだけよかったか」
聞こえなかったのか、無視したのか、ルチアから返事が返ってくることはない。レイモンドも求めなかった。それきりレイモンドも口を噤み、部屋は冬眠のような沈黙に包まれる。時計が針を刻む音に紛れて、石礫が転がるような音だけが微かに響いていた。
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