手負いのサソリ

普段より何倍も乱暴な音を立てて、ノックもなしに重い扉が開け放たれる。思わず顔を上げたルチアの視線の先に立っていたのは、一度しか面識のない長身の老人だった。

「ドン・リーガル……」

ルチアは面食らった。レイモンドの父親であり、アギリアを支配する王。何のためにわざわざ、と喉から出かかった言葉を何とか押しとどめる。ルチアはレイモンドによって見初められ、アギリアに囚われた乙女。か弱く臆病で、従順に躾けられた女を演じなければいけない。

「何故、あなたがこちらへ……?あの人はまだ、」

「あれは関係ない。俺はお前に用がある」

 怯えを強調するために自分の体を抱き締め、絡み付く視線から逃れるように顔を背ける。本懐も本性も、何もかも悟られてはいけない。泣き出しそうな仮面の裏で息を潜めて、ルチアは獅子に睨まれた子猫のようにブルブルと震えてみせた。

「何処からどう見てもただの小娘だろうに、あれも愚かなことをしたものだな」

 深い皺が刻まれた厳めしい顔を愉快そうに歪め、リーガルは中二階のルチアをジロジロと見上げる。灰色の眼球がグルリと回り、老人は広い部屋をゆっくりと進み始めた。

「な、何の御用ですか?私は、何も……」

「御託はいい。早く降りて来い」

 臆病な兎のように壁際に縋り付くルチアを嘲笑いながら、リーガルはゾッとするほど冷たい声で突き刺すような視線を注ぐ。本能的な恐怖に噴き出す冷や汗を拭い、ルチアは得体の知れない大蛇のような老人から逃れるように目を逸らす。

「俺の息子を誑かした女の涙はさぞ美しいんだろうな?」

 伸ばされた手があまりにも欲に塗れているせいで、ルチアの肩がガタガタと震え出す。何かに祈るように瞑目した瞬間、カタリと軽快な音が張り詰めた空気を揺らした。

「こちらにおいででしたか。僕の婚約者が何か粗相でも?」

 掠れたように響く低い声に、ルチアは恐る恐る目を開いて様子を伺った。扉の前に、酷く疲れた様子のレイモンドが静かに佇んでいる。その異様な姿に、ルチアは思わず瞠目した。

夜を溶かし込んだような黒髪は乱れ、吐き出される息も荒い。部屋を出ていく前は歪み一つなかったシャツは破られ、覗く肌は目を覆いたくなるほど血が滲んでいた。しかし紺紫の瞳は静かな湖面のように凪いでいる。反射的に腰を浮かせたルチアを視線で制すると、レイモンドはいつものように薄く笑った。

「レイモンド、お前こそ何故こんなところにいるんだ?今日は『採取日』だろう」

「見ての通り、済ませてから参りました。今年は豊作ですよ。あとでご確認ください。それで、何の御用ですか?」

 夜煌石がギラリと光る。微笑の仮面の隙間から垣間見える凄絶な威圧を振り払うように、リーガルは両眼に並々ならぬ重圧を込めてレイモンドを睨み返した。

「貝の火を手中に収めたまではいい。だが一向に石が上がってこない。何を考えている?」

「これは失礼致しました。ですが、あいにく僕は愛する人の泣き顔が苦手でしてね」

「随分と腑抜けたことを言うようになったな。女をどう扱おうと勝手だが、お前の役目はその娘の管理だ。立場を忘れているんじゃないか?」

「まさか。ですが、今我々が優先するべきなのは貝の火ではないでしょう」

 気味が悪くなるほどにこやかに言い放つと、真夜中を閉じ込めた瞳が妖しく揺れる。傷だらけの体を晒しながら、レイモンドは決して王者のような振る舞いを崩さない。鉄壁の微笑を一身に向けられ、リーガルは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。

「忘れるなよ、お前の代わりなどいくらでもいるんだ」

「無論肝に銘じておりますよ」

「フン、せいぜい命を大事にしろ」

 不愉快だと言わんばかりに鼻を鳴らすと、リーガルはクルリと踵を返してさっさと部屋を出ていった。成り行きを呆然と眺めていたルチアの眼下では、レイモンドが大胆不敵な微笑を浮かべて遠ざかる背中を見送っている。しかし足音が完全に聞こえなくなると、レイモンドの体は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

「一体何があったの⁉」

「別に何も。大したことない」

「嘘が下手ね。猛獣にでも襲われたの?」

「別に嘘じゃないさ。毎年恒例だから慣れたんだよ」

慌てふためいて駆け寄ろうとするルチアを押し留め、レイモンドは気怠げに頭を掻きながら壁に凭れかかる。そして脇腹の血を拭い取りながら、ポツリと雫を零すように呟いた。

「僕は祝福の子だ。地上にもアギリアにも物好きな金持ちなら腐るほどいる。麻薬も毒も当たり前に流通する街だ、天下のリア・ラムスが異様に質のいい石ころを売ったところで、別に誰も咎めやしない」

「まるで私みたいね」

「どうだろう。今のところ僕自身は非売品みたいだ」

 何でもないように宣うレイモンドを睨むと、ルチアは階段を駆け上がって毛布を掴み取り、仕切りの柵から憎たらしい黒髪目掛けて投げ付けた。

 鞭のような音を立てて床に落下した毛布をまじまじと見て、レイモンドはしばらく沈黙するそして、目をパチパチ瞬かせながら溜め息を吐いた。

「……君にしては随分乱暴だね」

「そんなところに蹲っている方が悪いのよ。それにしても、随分と手酷くやられたものね。祝福の子は人形でも神でもないのだから、過度な虐待は劣化にしか繋がらないわ。リア・ラムスこそ無能じゃない」

「言ってくれるね。仕方ないだろ、一年分の流通量を稼がないといけないんだから」

「なんですって?」

 ルチアは耳を疑った。一度に一年分の涙を採取するなど、母親の記憶にも一度もない。レイモンドは珍しく忌々しげに顔をしかめて舌打ちを落とした。

「僕の涙はリア・ラムスの資金源の一つだ。値崩れなんかしちゃ堪らないからね、そもそもの生産量も絞ってる」

「だから年に一度……でも、それにしたって」

「過剰に見える?まあそれは仕方ないさ、管轄してるジジイの性格だよ。それにもう、痛みにも薬物にもとっくに耐性が付いてしまった。だから自然と容赦もなくなる」

 そこまで言ってから彼はハッとしたように肩を揺らし、目を逸らす。

「どちらにせよ君には関係ないよ」

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