金緑石の貴公子
思いがけない言葉に、ルチアは思わず足を止めて振り返った。
開かれたままの扉の向こうの天上から、秋の穏やかな陽光が絶え間なく降り注ぐ。日差しを受けて鮮やかに輝く翠の瞳を真っ向から見返すと、ルチアは動揺を隠すように再び頭を下げた。
「その瞳は
ヴィアラントに君臨する四大公家が一つ、金緑石のアレクシア家。
建国当時より王家を支え、軍事において絶大な権限を持つ一族だ。アレクシア家の男は多くが軍人として国家に尽くし、直系男児の多くは若くして軍や王都保安局の要職に就くことが定められている。
彼らの瞳に宿る祝福は金緑石。深紅と深緑の二つの色を持つ神秘の石だ。
金緑石は不思議な性質を持っており、照らされる光の種類によって色を変える。それも菫青石のような微妙な変化ではなく、蠟燭やカンテラの灯りの下では紅、陽光に当たれば翠とガラリと塗り替わるのだ。ルーカスは現大公の四男であり、一族の例に漏れず眩い宝石を瞳に宿す。二十五歳の若さでヴィアラント北方のオディルーン地方の総督に任じられ、保安局でも頭角を現している。
つい数分前までカメリアのような紅を宿していた翠瞳を揺らし、ルーカスはほろ苦い微笑を浮かべた。
「美しい瞳だ。貴女はやはり、ヴァレット嬢で間違いないだろうか?」
「ええ、間違いありませんが……申し訳ありません、ヴァレットという呼称は避けていただけますか?」
「では、ルチア嬢。貴女はヴァレット家襲撃の難を逃れた後、レイモンド・リア・ラムスに誘拐されたと報告が上がっている。貴女の保護は私の任務だ」
「お断りいたします」
御伽噺の騎士のように差し伸べられた手を、ルチアは躊躇わずにするりと避ける。思わず瞠目するルーカスに、ルチアは軽やかに微笑んだ。
「正義の名のもとに救われてしまえば、私は元の地位に戻されるのでしょう?それだけは死んでも御免ですもの。リア・ラムスに身を置いているのも、別に囚われている訳ではありません。私の意思でレイモンド・リア・ラムスと取引を交わしたのですから」
「何だと……?」
呆然とするルーカスに、ルチアは畳み掛けるように言葉を続ける。
「襲撃について、私はなにも知りません。ですが、悲しいとも思いません。孤児院から無理矢理攫って閉じ込めて、挙句の果てに当主の愛娘だなんて、随分と笑わせてくれるものです。無礼を承知で申し上げますが、大公家のような特別なものでもない限り、祝福の子なんて利用されるだけの玩具でしかありませんから」
溜め込んでいた全てを言い切ると、ルチアは荒い息を吐き出した。禁忌の継承ではなく、遺伝によって代々受け継がれる大公家や王族の祝福は特別で、至上のものとされる。駒にされるどころか、彼らの祝福は最高の地位と権力の証だ。そして目の前の男もまた、大公家に連なる人間である。激情に燃え上がる貝の火に見つめられてもなお、二つの金緑石は何処までも真摯に輝いていた。
「貴女の言いたいことは分かった。確かに保安局として保護すれば、貴女を貴族階級に引き戻すことは避けられない。私個人で手を回したとしても、立場上どうしてもあの世界の影響は着いて回る。貴女はそれが耐えられないということか?」
「ええ。その通りです」
「それは、本当に貴女自身の望みなのか?」
「無論です」
赤い炎がルーカスを貫く。ルーカスが何の下心もなくルチアを救おうとしていたのは事実だろう。しかし差し伸べた手を拒まれた時、この紳士がどう出るのかまでは予測できない。身構えたまま返答を待つルチアの警戒心を見抜き、ルーカス苦笑して諸手を挙げた。
「幸い、今は私一人だ。貴女が頑なに拒むのなら、今回ばかりは何も見なかったことにしてもいい。だが、次の保証はできない」
「随分とお優しいのですね。もっと頑固な方とばかり」
ルチアの言葉は本心だった。先ほどまでの一連の行動のせいか、彼は不器用で機転が利かない性格のように見える。ルーカスは視線をどう受け取ったのかぴしりと表情を引き締め、翠の双眸を力強く瞬かせながら口を開いた。
「堅物の自覚はあるが、他人の幸福を勝手な正義で決めるほどうぬぼれてはいない。だが、私は軍人として黒曜部隊を束ねる身だ。地上のヴァレット家が襲撃された以上、リア・ラムスは摘発しなければならない」
「あら、随分と苛烈なこともおっしゃるのですね。でもあの男が言うには、彼は襲撃に関わっていないそうなのですけれど」
「ああ。だからレイモンド・リア・ラムスだけは罪に問えない。だが、それでもやるべきことは変わらない。それが保安局長官の意向であり、私の意思だ」
セントリア保安局はリア・ラムスを危険視している。地上でいくら徹底した秩序が敷かれようと、アギリアが存在する限り犯罪の余波が流れ込んでくるのだから、当然と言える。一方で独立状態のアギリアをセントリアに併合しようにも議会の反発があまりにも大きく、現状では現実的ではない。しかし、ルーカスには譲れない信念があった。
「私はアギリアを廃したい。奈落の街を地上に引き上げ、リア・ラムスの恐怖政治から解放する。そのためなら私は喜んで地獄に墜ちよう」
「……子どもみたいなことをおっしゃるのね」
「自覚はしている。だが、覚悟も決めているつもりだ。リア・ラムスに身を置き続けるのであれば、私はたとえ無関係だろうと貴女を巻き込むことも厭わない。貴女はそれでも保護を拒むのか?」
翠の光は揺らぐことも翳ることもなく、真摯にルチアを貫いている。しかし、それでもルチアはあえて肩を竦めて笑ってみせた。
「何の瑕疵も身分もない、単なる幹部の愛人として見逃してくださるのなら話は別ですけれど。貴方が職務に誠実な方である限り、そういう訳にもいかないでしょう。ですから、そうなれば私は全力で逃げ続けます。たとえ、この手を血に染めることになったとしても」
「そこまでして、貴女は一体何を求めている?」
「全ての呪縛を断ち切って、自由を手に入れる。それだけが私の願いです」
「レイモンド・リア・ラムスとの契約の対価も自由か?」
「ええ。ふた月半偽りの婚約者を演じることと引き換えに、逃亡の手伝いをしてくださるようで」
二対の宝石が交錯し、静かに火花を散らす。しばらくの沈黙の後、ルーカスは深い溜め息を吐きながらゆっくりと顔を上げた。
「分かった、見逃そう。真に貴女が救われないのなら意味がない。だが貴女がいくら割り切っていようが、私から見れば貴女は人生を奪われ搾取された悲劇の乙女だ。だからどうか、何か手を貸させてはくれないだろうか」
「それは、憐れみでしょうか」
「違う。単なる自己満足だ」
ルーカスは苦々しく微笑んだ。ルチアは思わず下を向く。彼の陽だまりのような優しさはあまりにも純粋で混じりけがない。薄暗い籠の中で爪を研ぎながら息を殺して生きてきたルチアにとって、眩し過ぎる光は毒にも似ていた。動揺と高揚に逸る心臓を抑えながら、ルチアは慎重に口を開く。
「……では、調べて頂きたいことがあります。もう七年も前の話にはなりますが……セントリア南地区の端に、クオーレの家と呼ばれる孤児院がありました。私のもう一つの故郷ですわ。ですが、ヴァレット家では一切の情報が遮断されていましたの。あの場所がどうなっているのか、私に知る術はありません。ですからせめて、現状だけでも知りたいのです」
それは、かつてのルチアのもう一つの願いだった。いつか、自由を掴むために手を汚す覚悟を決めてからは手放してしまった夢。今の自分は汚れ過ぎて、どうしてもあの場所と向き合う勇気が持てなかったから。
他人を利用して、捨てた願いにしがみ付く。ルチアの臆病さを受け止めるように、ルーカスは朗らかに笑ってみせた。
「承知した。では、一つだけ質問をしても?」
「ええ、何でしょう?」
「自由を求めて闘う貴女の意思は尊重しよう。だが、些か捨て身が過ぎるようにも感じられる。私には少し理解し難い。だからどうか、理由を聞かせていただきたい」
「……少し、長い話になります」
過去に切り込むような問い掛けに内心呼吸を整えながら、ルチアは慎重に口を開いた。
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