計画的脱走

 か細く灯る蝋燭の火が、一人ベッドに腰掛けた少女をぼんやりと照らし出す。太陽よりもずっと仄暗く柔らかい光の下で、ルチアは膝を抱えたままボソリと呟いた。

「そろそろ頃合いかしら」

 アギリアに連れて来られてからおよそひと月。与えられた場所からほとんど出ないまま、ルチアは息を殺すように生きていた。ルチアが外に出たいと言ったことはないし、宣言した通りレイモンドの方もルチアを無理に連れ回すことはない。同じ空間で生活していても、二人の間には必要最低限の会話しか存在しなかった。

 生活に不自由はさせないという約束を違える気はないようで、レイモンドからは毎日食事と物品が与えられる。しかし前者はともかく、後者は明らかに過剰だった。

 一度、ルチアは渡された箱を開けながら半眼でカーテンを開け放ったことがある。

「レイモンド、あなた一体どういうつもり?」

「何か不満でも?趣味に合わなかったかな」

「そもそも必要性が感じられないわ」

 ルチアは柘榴石のブローチと金細工の髪飾りを掲げた。ベッドの上で本を読んでいたレイモンドはほんの少しだけ顔を上げると、微笑の仮面を貼り付けたまま心外だと言わんばかりに首を振る。

「必要に決まっているだろう?だから渡しているんじゃないか」

「どう考えてもいらないでしょう。生活の何に役立つって言うのよ」

「君に似合いそうだと思ったんだけどね」

「金の無駄だわ。それに、こんなにドレスを渡されたってどうしようもないじゃない」

「それはどうかな?路銀は多い方がいい」

 しれっと言い放つレイモンドに、ルチアは眉根を吊り上げた。

「別邸を出る時に金目のものはいくらか持ち出したもの。仕事を見つけるまで、当面の暮らしには事欠かないわ」

「考えが甘すぎる。そう簡単にはいかないよ」

「私が一人じゃ生きていけない箱入りだって言いたいの?」

「少なくとも、酒場や工場なんかで働いたらすぐに体を壊すか、下手したら死ぬだろうね」

「否定はしないわ。でもそれだけが仕事じゃないでしょう」

 レイモンドは面白そうに鼻を鳴らすと、挑発するような視線を向ける。

「じゃあ聞こうか。君は何ができるの?」

「孤児院の出だもの、家事は何でもこなせるし子どもの相手もできるわ。嗜みだったから裁縫も得意だし、教養なら完璧なはず。他国に嫁がせる想定もされていたから四か国語は問題なく操れる。工場以外の仕事で、できないものはほとんどないわ」

「なるほど、思った以上だ。戸籍があれば身元も保証されるし、すぐにでも働けるだろうね。でもやっぱり甘い」

 レイモンドはパタンと本を閉じ、まっすぐにルチアに向き直った。階下の男の見透かすような視線に内心息を呑みながら、ルチアはジッと耳を傾ける。

「君が就くのは使用人、寄宿学校の教師や家庭教師、針子ってところだ。教養はあるんだろうし、使用人ならすぐにでも上級職になれる。でも君みたいな人間を雇うのは決まって高位貴族なんだよ。自由どころか、鳥籠に戻されるのがオチだ」

 ルチアの顔がサッと赤く染まる。聡い彼女も、孤児院とヴァレット家別邸という二つの世界しか知らないのだ。性質はまるで異なるが、どちらも箱庭であることに変わりはない。

 己の無知を恥じる少女を諭すように、レイモンドは淡々と言葉を並べた。

「ヴィアラントに留まる限り、君を狙う手からは逃げられない。なら国を出てアストレア辺りに渡ってしまうのが一番無難だ。あの国なら身分もあまり関係ないし、仕事の幅だって広がる。女だって医者や学者になれる国だからね。それなら資金はいくらあっても足りない」

「……あなたの言う通りね」

 何も言い返せずにうなだれるルチアを眺め、レイモンドは仮面のような微笑を浮かべたまま再び本を開いたのだった。

 その日以来、ルチアに与えられた小さなクローゼットは圧迫される一方だった。お陰で服装には困らない。色とりどりの布の波間を掻き分けて、煉瓦で覆われた街並みに馴染む臙脂色のウォーキングドレスを手に取る。

 張りが強いタフタ生地のドレスの胸元に、昨日贈られたブローチを飾る。ブローチには上質な柘榴石があしらわれているものの、薄暗いアギリアでは独特の深紅もほとんど黒に見えてしまう。残念に思いつつも、結局はその方が都合はいいのでそのまま立ち上がった。

 テーブルの上の燭台に息を吹きかけ、分厚いカーテンを持ち上げて中二階の階段を下る。そして扉の前でジッと息を潜めた。耳を澄まして扉の向こう側に意識を集中させるも、物音どころか人の気配すらも感じられない。誤魔化し切れない緊張に震える手を必死に動かして、ルチアは真鍮のノブに手を掛ける。

 ガチャリ。大仰な音を立て、分厚い扉は案外呆気なく開いた。

「まさかとは思っていたけれど……あの男、本当に鍵を掛けていなかったのね」

 部屋から出るなと言いながら、レイモンドがいつも扉に鍵をかけずに出ていた。だから外側から施錠しているとばかり思っていたが、あの男は本当に何もしていないようだった。

 周囲に人の気配がいないことを確かめ、ルチアはそっと部屋を出る。足音を殺しながら煉瓦の道を踏みしめると、土埃の匂いが鼻を衝いた。

 幹部というだけあって、レイモンドは一日中部屋を開けていることが多い。昼も夜もない地下で、地上と同じように夜に眠って朝に起きるルチアとは対照的に、レイモンドは酷く不規則な生活を送っている。今朝もルチアの朝食を持ってくると、自分は何も口に入れずに慌ただしく立ち去った。レイと同じ顔でそんな生活を送る男を見ると無性に腹が立つ。しかしだからこそ日付が変わるまでは帰ってこないと踏んだルチアは、白昼堂々と脱走を敢行した。

 運よく無人だった通路を通り抜け、記憶した通りに角を何度か曲がれば扉が見える。呆気なく辿り着いてしまった出口を見詰めながら、ルチアは呆れたように肩を竦めた。

「本当に、一体何を考えているのかしら」

 粗末な木戸を押し開け、隠れ家の外に出る。ひと月ぶりの地底街は相変わらず箱庭のようだった。カンテラと天幕の間を縫うように石畳を歩くと、何だか魔法の世界に迷い込んだような心地がする。

 地底の広場を取り囲む四方の壁のうち、左右の壁の扉が他の居住区に通じているらしい。レイモンドの言葉を頼りに無数の扉の中から手頃なものを選ぶと、ルチアは躊躇なく開け放つ。中はやや広い階段になっており、最初に通った真っ暗な階段とは違っていくつものカンテラで仄明るく照らされている。人通りもそれなりに多い。

 行き交う人の動きや様子をジッと観察しながら、見知らぬ道を歩いていく。短い階段を上がり、カンテラの灯りを頼りに目を凝らすと曲がりくねった坑道が広がっていた。しばらく進むと、一本道だった通路は目の前で三本に分かれる。どの道が何処へ通じているのか、案内するものは何もない。何処へ行くべきか見当も付かずに、ルチアは路上で立ち尽くすほかなかった。


「レディ、どちらへ?ここは危ない、よければ私が案内しよう」


後ろから投げかけられた柔らかい声にピクリと肩を揺らすと、背後に一人の美しい男が立っていた。

金色の髪は短く切り揃えられ、すらりと均整の取れた体格とその長身から、凛々しく精悍な印象を受ける。しかし、よく見れば整った顔立ち自体は優しげで、紅の瞳も鮮烈さの中に深みと甘さを含んだ温かい色合いをしていた。恐らくレイモンドよりも年上で、年の頃は二十代の半ばだろうか。くたびれた茶色の上着に生成り色のトラウザーズと、いかにも労働者らしい服装だ。しかし、格式ばった口調や美しい姿勢から滲み出る品格は隠し切れていない。

恐らくお忍びでやってきた高位貴族だろう。即座に判断すると、ルチアは白百合のように可憐で清らかな微笑みを浮かべた。

「まあ、ご親切にありがとうございます。地上への行き方が分からなくて困っていたのです」

「では私が案内しよう。着いておいで」

 男は手慣れた仕草でスッと手を差し出す。途端にしまった、と言わんばかりに歪んだ眉にルチアは内心クスリと笑った。社交界での仕草が染み付いているのだろう。

「暗いせいで、足元が覚束ないのです。お優しいのですね」

 差し出された手にそっと掌を重ねると、男は一瞬不意を衝かれたように瞳を瞬かせた。しかしすぐに取り繕うと、小柄なルチアに歩幅を合わせるようにゆっくりと歩き出す。気遣いに溢れた言動に反して、触れ合う手はやけにゴツゴツと硬いのがやけに印象深い青年だった。

「貴女は何故アギリアへ?間違っても女子供が来る場所ではないが」

「ここは地上では手に入りにくい宝石も流通していますから。でも道に迷って、気付いたら家の者とはぐれてしまったようで……」

「家人は大丈夫なのか?捜すのならば手を貸そう」

「いえ、彼は私と違ってこのアギリアに精通しておりますから。もしもの時の合流場所も決めていますし、心配はありませんわ。それより、あなたはアギリアに何をしにいらっしゃったの?」

「私は……まあ、仕事だ」

 男はそっと視線をさ迷わせ、言い逃れるように目を伏せる。ルチアはにこやかに微笑みながらも、男が選び取る道を覚えようと油断なく目を光らせた。

(右、左、左、そのまま真直ぐ。この分かれ道は真ん中、一つ目の角を右に。この階段は……通り過ぎるのね。その隣の階段を登って、今度は一本道。突き当たりには……また階段だわ。途中まで登って、脇の小道に入る。その先にまた狭い階段が……気が遠くなりそうね)

カンテラが連なる煉瓦の壁が永遠と続く中、募る疲労を隠し切れなくなったルチアは恨めしげに天を仰いだ。金髪の男は荒い息一つ吐いていないのに、七年間の軟禁で弱った足腰は既に限界を訴えていた。

「すまない、急ぎ過ぎただろうか。少し休むか?」

「いいえ、まだ歩けます。あまり時間もありませんから、どうぞお気になさらず」

「そうか。この階段の上はもう地上だ。少しだけ頑張ってくれ」

 カメリアのような瞳に励まされ、無限にも思える石段をゆっくりと踏みしめていく。ゼエゼエと繰り返す呼吸のせいで、心臓がドクドクと跳ねる。七年前はいくらでも走れたのに、今では少し歩いただけで全身が散り散りになりそうだった。しかし、どれだけ全身が悲鳴を上げようと、ルチアが足を止めることはない。男が心配そうに見守る中で、ルチアは酷く時間を掛けてようやく最上段まで辿り着いた。

最上段は他の段よりも僅かに広く、目の前の壁には簡素な木戸が嵌め込まれている。男が躊躇なく木戸を開くと、ルチアの頬を冷たい風が撫でた。驚いて身を木戸の向こうに身を乗り出すと、正面を横切る小径を一匹の猫が通り過ぎるのが見える。思わず一歩踏み出せば、頭上には煉瓦の空とは似ても似つかない晴天が広がっていた。

「よく頑張ったな。ここは南地区の西端、橋を渡ればすぐに西地区にも行ける。常時解放されている連絡通路はいくつかあるが、最も安全な道を使わせてもらった。お陰でかなり歩かせてしまったが、具合が悪くなっていないか?」

「靴を新調したばかりなものですから。心配をおかけして申し訳ありません」

 安堵するように息を吐いた男ににっこりと微笑んでみせると、ルチアは疲労を感じさせない品のある仕草でドレスの裾を摘まみ、流れるように頭を下げた。

「何から何までありがとうございました。あなたにとっての今日に幸運が訪れますように。では、私は戻ります」

 躊躇なく踵を返すと、ルチアは抜けるように青い空に背を向ける。肩で息をしながら暗い方へ去ろうとする少女に、男は今度こそ度肝を抜かれたように目を見開いた。

「待ってくれ、貴女はアギリアから出るのではなかったのか?」

「せっかく親切にしていただいたのに、謀って申し訳ありません。ですが、私は地上に出る道を把握したかっただけなのです。では失礼いたします」

「待て!」

 凛とした大声がルチアの背を打つ。そして何拍かの逡巡を経て、彼は柔和な顔立ちに苦い表情を貼り付けて口を開いた。


「悪いが、私は貴女を行かせる訳にはいかない。ヴァレット男爵家七女、ルチア・ヴァレット嬢。貴女はセントリア保安局の保護対象だ」


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