夜煌石の祝福

「まず僕の事情から話そうか。僕はドン・リーガルの実子であり、リア・ラムスの後継者候補だ。だが僕は今回の襲撃にほとんど関与していないし、そもそも襲撃自体に反対していた。わざわざ保安局に摘発の口実を与えるようなものだからね」

「道理ね。でも実際、ヴァレットは襲撃されたじゃない」

「ドン・リーガルが強硬に進めたからね。リア・ラムスでは彼が法だ。反対し続けた僕の立場は危うくなった。でも僕はここで死ぬ訳にはいかない」

「まあそうでしょうね。でもだからって、どうして私を娶るの?」

「だって君はヴァレット家の至宝だろう?」

 当然のように言い放ったレイモンドに、ルチアの眦がキッと吊り上がった。

「怒らないでくれよ。実際そうだろう、損得に聡いヴァレット家がわざわざ専用の邸宅まで拵えて囲い込んでいたんだから」

 レイモンドの瞳が静かに瞬いた。魂を焦がすように燃える紅と、夜の底を凍り付かせたような紺紫がバチバチと火花を散らす。

「ヴァレット家唯一の生き残りであり、大陸でも希少な貝の火を宿す生ける宝石。保安局への交渉材料にもなるし、身一つで無尽蔵の価値が生まれる。極上の戦利品だ。君を掌中に収めている限り、ドン・リーガルもおいそれと僕を排除することはできないだろうね」

「官吏への脅迫・交渉は罪に問われる、祝福の子及びその涙の売買も禁じられている……なんて言っても無駄なんでしょうね」

「学んでくれたようで何より。地面の下じゃ地上の法なんか無力だよ」

 当たり前のように宣うレイモンドに、ルチアは今更ながらリア・ラムスの名が持つ意味を実感した。ここは、地上の常識も良識も通じない世界だ。改めて突き付けられると、喉元に刃を突き付けられたように身が竦む。

「筋書きはこうだ。僕は後始末のために襲撃の現場へ向かった。そこで隠れていたルチア・ヴァレット嬢を捕えて見初め、婚約者に迎え入れる。ロマンティックだろう?」

「つまり、あなたの生存戦略の手駒になれと?」

「その通り。命と自由が惜しいのなら、せいぜい大人しく使われるといい」

 ルチアは深々と溜め息を吐いた。ここまでくるといっそ清々しいかもしれない。少なくとも堂々と取引を持ち掛ける辺り、父親よりは余程マシな相手だろう。

「まあいいわ。でもどうしてふた月半なの?随分と短いじゃない」

「不服かい?もっと僕と一緒にいたいって言うならやぶさかじゃないけど」

「何を言っているの?ただ根拠を聞いているのよ、その短期間で私が不要になるほど足場を固められるとは思えないもの」

 レイモンドに冷たい視線を送りながら、ルチアはピシャリと言い放った。レイモンドの言葉が真実だとしたら、ルチアの存在は彼の盾になるはず。一生閉じ込められてもおかしくないのに、わざわざ期限を設けるなんて非合理だ。疑念を容赦なくぶつけるルチアに対して、偽装婚約を突き付けた張本人は気怠げに手を振ってみせた。

「悪いけど、それは教えられない。ふた月半で君は不要になる、ただそれだけの話だよ」

「それで納得できると思うの?」

「君が知る必要はない」

 何度目かの拒絶に、ルチアはついに脱力して突っ伏してしまった。頭を掻きむしりながら睨み付けるルチアを、レイモンドは薄笑いを貼り付けたままただ眺めている。

 得体の知れない男だ。軟派に見えて頑なで、何に対しても飄々としている。何を考えているのかさっぱり分からない。レイにそっくりな顔で、レイとは真逆の表情しか見せない。利用されることには慣れていたが、ここまで真意を見透かせない人間と相対するのは初めてだった。

「あなた、本当にそればかりね」

「不満なら死ねばいい」

「結構よ。でも一つだけ」

 一対の貝の火がゆらゆらと光を放つ。爆ぜる前の激情を孕んで、瞳の奥に閉じ込められた紅が正鵠を射抜くように正面を見据えた。

「何故、私の好物を知っているの?」

「調べたんだよ」

「嘘よ、あの家でチョコレートなんて出された試しがないもの。色が可愛らしくないから私には相応しくないんですって」

 レイモンドは僅かに目を瞬かせる。仮面がほんの少しだけ綻んだ隙を見逃さず、ルチアは畳み掛けるように口を開いた。

「本当に調べたのなら、『ルチア・ヴァレット』の好きなものは砂糖菓子と花ってことになっているはずよ。あの家の人間にとって私は極上のお人形だもの」

「それは……」

「私の好物を知っているのなんて、この世にほんの一握りしかいないわ。レイはその一人だったけれど」

 ヴァレット家にとって、『ルチア・ヴァレット』は人ではない。祝福という特別な価値を付与された極上品だ。より高い地位と権力を持つ貴族に嫁がせるため、ルチアという少女の肖像は御伽噺の王女様よりもか弱く可憐に脚色されている。そのシナリオに、ルチアの好みなんて反映されるはずがないのだ。

 ルチアという一人の少女の素顔は全部、あの雪の日にクオーレの家に置き去りにしてきた。戻らない日々を拳に握り込んで、ルチアは頑なに頷かない紺紫をピタリと見据えた。

「ねぇ、あなたは本当にレイではないの?」

「違うって言ってるじゃないか」

「ならその瞳はどう説明するのかしら。あなた、祝福の子でしょう?」

 七年前、最後にレイの瞳から零れ落ちた雫はこの世で最も美しい青紫色をしていた。夕闇の青紫色は、レイモンドの瞳よりもずっと淡い。

 しかしこの世に一つとして同じ石が存在しないように、同種の祝福でも宿主によって内包物も、その色合いも全く異なる。全く同じ色の瞳を持つ祝福の子はこの世に二人と存在しないのだ。それでも、内部から発光するような硬質な煌めきは間違いなく夜煌石のもの。

 完璧な弧を描いていた口元が強張る。ひびの入った仮面を取り繕うように、レイモンドは平坦な声で応えた。

「まあ否定はしない。でも君ほど珍しいものじゃないさ。腐っても宝石商の娘だ、菫青石アイオライトは分かるだろう?」

 ルチアは黙って頷いた。深海の青をほんの僅かに淡くしてから、菫の紫を溶かし込んだような美しい石だ。宝石としては希少性が低く安価な石は、確かにレイモンドの瞳に酷似している。

「祝福は決して唯一無二のものじゃない。この程度の祝福ならセントリアにも何人かいるだろう。君の知り合いもそうなんだろう?」

「見え透いた嘘はやめてちょうだい」

 ルチアは眉根をさらに顰め、レイモンドを睨み付けた。

「確かに色は菫青石に似ているけれど、あの石はもっと控えめに輝くのよ。それに、菫青石は当てられる光の種類と角度で微妙に色が変わるの。でも、あなたのは全然違うじゃない」

「僕の目がおかしいとでも?」

「ええ。炎、月光、カンテラ、それからこのシャンデリア。どれも違う光よ。だけど、何処へ行ってもあなたの瞳は鮮やかな青紫色のまま」

 何処へ行っても、何を見ても変わらない夜の色。吸い込まれるくらい深く鮮やかで、夜空を切り取ったような絶妙な青紫は無二のものだ。最も深く美しい青を持つ蒼玉サファイアでも、群青の空に金の星を散りばめたような天藍石ラピスラズリでも、勿論菫青石でもない青い宝石の名を、ルチアは知っていた。

「その色も輝きも、間違いなく夜煌石やこうせきのものだわ」

 夜煌石、それは世にも稀な貴石の名だった。僅か二十年前に新大陸で発見されたばかりの、この世で最も新しい宝石。採掘できる鉱山はたった一箇所、それも日に僅かしか採れない希少さから、市場で出回ることはほとんどない。色は菫青石に似ているがもっと鮮やかで、透き通るような青紫はどんな星よりも燦然と煌めく。

 迷いのないルチアの宣言にレイモンドは瞠目し、僅かに口を戦慄かせた。

「いくらヴァレット家とは言え、ただ飼い殺されていただけのお人形が夜煌石を見分けられるとは思えないけど?」

「私は祝福の子、高貴な方々とやらに侍るためのお人形よ。ヴァレット家が私の価値を高めるのに手を抜くわけがないじゃない。僅かにでも市場に出回っていれば見分けられるわ」

 最もルチアが裸石ルースを目にしたことがあるのも一度だけだ。しかし、そのたった一度の邂逅で記憶が埋め尽くされるほど、夜煌石は天上の美を誇る宝石だった。

 ビロードのクッションに並べられた、小指の爪の先よりも小さな二粒の石。右側の石は鮮やかな藍に近い青紫色をしていた。気が遠くなるくらい深くて、それでいて透き通った宵の紺紫。凛と澄んだ冬の夜天のような美しい石は、まさにレイモンドの瞳の色だった。

 そして、左側の石はもっと淡くて柔い色を宿していた。忘れるはずがない、この世で最も綺麗な色。昼と夜のあわいを溶かし込んだような、勿忘の花にも似た夕闇の色。

 それは、確かにレイの瞳を写していた。

「レイは祝福の子だったわ。昔は彼の運命石を知らなかったけれど、今なら断言できる。レイの祝福も夜煌石で間違いないわ」

「なるほど、それならとんでもない偶然だね」

「誤魔化すのが下手ね。夜煌石は金剛石ダイアモンドよりも貴重なのよ。そんな祝福が同じ時代に二人も現れるわけがないじゃない」

 祝福の希少性は運命石の希少さに比例する。たとえば、それなりに出回る水晶クォーツの祝福の子は王都でもいくらかは存在する。ルチアの貝の火はかなり珍しい部類だから、少なくとも現時点では唯一といっていいだろう。

 王族が受け継ぐ金剛石、大公家の四大貴石も古くから貴ばれる祝福だ。しかし運命石の希少性という一点のみでは、大陸の南方でしか採取されない貝の火の方が高い。

 そして、夜煌石はそれよりも更に希少な幻の宝石だ。同じ時代、同じ土地で二人も同時に存在し得る確率は無に等しい。レイと目の前の男では瞳の色合いが多少異なるが、成長と共に運命石の色が微妙に変わるという話がないわけではない。

 真っ向から注がれる赤い視線は火花のようで、何処までも真摯にレイモンドだけを映している。しかし、レイモンドは少女の想いを振り払うように肩を竦めた。


「僕の運命石が夜煌石だったとして、それが根拠になるとでも?君は知っているはずだろう。祝福は他人が奪うことだってできるんだよ」


 今度はルチアが目を見開く番だった。

 祝福は一代限りの力。金剛石や四大貴石のように特別な祝福は血の繋がりと共に遺伝するが、それ以外は宿主が死ねばそれきりだ。巡り巡って異なる地、異なる時代で産まれる命に新たに宿るだけ。そこに血縁は関係ない。

 ましてや他人が奪うなど決して有り得ないはず。本来なら、という枕詞が付く話ではあるが。

 ルチアはガタンと椅子を蹴って立ち上がり、思いきり身を乗り出した。

「あなた、何者なの?」

「レイモンド・リア・ラムス。教えただろう?」

「祝福を奪うことは誰にもできない。そんな方法、この世に存在してはいけないのよ」

「仕方ないだろう、実際あるんだから」

「それでも、あなたに知る資格はないはずだわ!」

 ルチアは声を荒らげる。しかしレイモンドは意にも介さず肩を竦め、せせら笑ってみせる。

「それはお互い様だろう?王族と大公家にしか許されない知識を、何故一介の人形が知っているんだ」

 ルチアは黙り込んだ。煉瓦の要塞を沈黙が包み込むと、レイモンドはさっさと立ち上がる。

「話は終わった?なら僕は首領の機嫌でも伺いに行くよ。君はもう寝るといい。まあ、今頃地上では夜が明けているだろうけど」

 被り直された微笑の仮面は完璧で、氷のように冷ややかな視線は無邪気だったレイとは全くの別人のようにしか感じられない。しかしそれほどかけ離れているのに、何故か仮面の奥底に面影がちらついてしまう。

「それじゃあさようなら。せいぜい、いい夢を」

「待って、まだ話は終わっていないわ!」

「あいにく暇じゃない。ああそうだ、決して部屋からは出ないでくれ。面倒だからね」

 それだけ言い残してレイモンドは踵を返す。俯いたルチアを置き去りにしたまま、ガタリと大袈裟な音を立てて扉が閉まった。

 一人残された薄暗い部屋で、ルチアはズルズルと座り込んだ。ツンと痛む目頭を押さえると熱い雫が零れ落ちる。そうして、十七歳になったばかりの少女は声を殺して泣いた。

 この暗い街の片隅で、ルチアはひとりぼっちだった。どれだけ泣いたって、声の限り叫んだって誰にも届きやしない。だから今だけは思いっきり泣いたって誰にも気付かれない。

 赤い涙を無理矢理拭って、ルチアはレイモンドが去っていった方角を思いっきり睨み付ける。ひたむきな炎が結晶となって、冷たい煉瓦の上をコロコロ乾いた音を立てて転がった。

「あの男が、レイの祝福を奪った……?」

 考えたくもない可能性を思考から追い出したくて、ルチアは長い髪を意味もなく引っ張る。亜麻色が何本か千切れて宙を舞っても、頭皮が軋む嫌な音が鳴っても、彼女の細い手が止まることはなかった。

「ありえないわ、そんなの、ありえない、あるわけがない。あってはならない」

 祝福を奪う。あってはならない禁忌だが、方法は確かに存在する。同じ祝福でも宿主が異なれば全く違う色の瞳を持つのは当たり前のことだ。そう考えると、何もかも辻褄があってしまう。だが、もしそれが本当だとしたら。

「嫌よ、嫌!そんなの嫌なの、だって、それは、もしそうだとしたら……!」

 あの男が、レイの祝福を奪ったのだとしたら。


「レイはもう、この世にいないってことになるじゃない……」


 口に出した途端、ルチアの心臓を暗い闇が食い千切った。

 やめろ、それ以上想像するなと本能が叫ぶ。もしそうだとしても、今更後戻りなどできるはずもない。どれだけ失おうとも、今のルチアは自由を手にしなければいけないのだから。

 ああ、でも。

 もし、あの男の言葉がすべて真実だとしたら。

 床に散らばった運命石に封じ込められた大粒の炎がシャンデリアの光を吸い込み、篝火のように一斉に煌めき出す。ルチアは独り、大きく息を吸い込んだ。

「レイがいない世界なんて耐えられない。生き残れたとしても、きっと仮初の正気すら保てなくなるわ。でももし、本当にレイがあの男に殺されていたとしたら」

 ぎゅっと拳を握り込む。瞳に宿る紅が業火のように烈しく熱を吹き上げた。


「自由になったあとで、刺し違えてでもあの男を殺してみせる。それまでは死ねない。私は、いいえは……もう、鳥籠で息絶えるわけにはいけないのよ」


 自由にならなくては。行く先がどれだけ暗くても、もう光が何処にもなくても。それでもルチアは、どんな手段を使ってでも自由を勝ち取らなければいけない。

 ルチアにとっては、ただそれだけが生きる意味だった。

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