奈落の支配者

 騎士のように頭を下げたレイモンドを一瞥し、老人は厳かな仕草で頷いた。ぬるりと佇む長身はがっしりと体格が良く、立ち姿はまるで年齢を感じさせない。焼け残った灰のようなくすんだ白髪と刻まれたシワから見るに、それなりに高齢ではあるのだろう。しかし灰色の両目はおぞましく血走り、衰えを知らない眼光を放っていた。


 ドン・リーガル、あるいはリーガル・リア・ラムス。

 治外法権の地底都市、アギリアを支配する男である。


「随分と遅かったな。お前は襲撃に反対していたはずだが」

「首領の御命令の前には僕の浅慮など無価値です。後始末でも探し物でもなんでも、命じられなくとも身を砕くのは当然でしょう」

「どうだかな。口では何とでも言える」

 レイモンドよりもずっと低く重たい声は酷くしゃがれていて、地を這うようにくぐもって鼓膜を貫く。岩のように控える男たちは全員黒い服を着て、ピクリとも動かずこちらを威嚇そている。辺りに漂う重苦しさと尋常ならざる冷たい視線にルチアが身を竦ませると、老人はギロリとルチアに視線を向けた。

「その娘は戦利品か?その瞳、祝福の子だろう」

「ええ。彼女こそがヴァレット家の宝、ルチア・ヴァレット嬢です」

 促すように右肩を軽く押され、ルチアは控えめな仕草でスカートの裾を摘まんで首を垂れる。戦利品のように連れて来られた娘が堂々と振る舞うわけにはいかない。だからあくまでもおどおどとした様子で、怯えと心細さを演出できるように、それでも貴族の娘としての品格は忘れずに。可憐でか弱く、触れれば折れてしまうような深窓の乙女を演じなければいけなかった。

 背後のレイモンドが満足げに微笑んだ気配を察知しながら、ルチアは老人の視線から逃れるように俯いてみせる。リーガルはニタリと嗤い、緩慢な仕草でルチアを指差した。

「ルチア・ヴァレットの祝福は貝の火だったか。速やかにギルバートに引き渡せ、少なくとも今はアレの管轄だ」

「それでは宝の持ち腐れでは?新興とはいえ、曲がりなりにも貴族令嬢です。運命石の希少性も高い。使いようによっては保安局に対する切り札にもなり得ます。そうでなくとも、用途はいくらでもあるかと」

 紺紫の瞳がギラリと閃く。リーガルの目がすうっと細められ、大剣のような視線がレイモンドの全身に突き刺さった。

「ならあとで改めて連れて来い。俺が直々に管理してやろう」

「いえ、それには及びません。僕が引き受けましょう」

「お前が?」

 真意を伺うようにギロリと眼球をすぼませるリーガルに見せつけるように、レイモンドは微笑を湛えたままルチアの肩を抱いた。

「五体満足でアギリアに繋ぎ留めておけばいいだけです。なら、管理者は誰でも大差ないでしょう。それに、御身は丁度僕の連れ合いをお探しだったでは?」

 リーガルの目が見開かれる。

 レイモンドはルチアの髪を慈しむように撫でた。そしてくすりと笑うと、柔らかく波打つ亜麻色にそっと唇を寄せる。

「気でも違えたか」

「いけませんか?希少な祝福に加えて、いつ社交界に出ても恥ずかしくない教育を受けていた生娘。おまけに今は天涯孤独です。彼女以上の適任はいません」

「だが、お前がそれだけの理由で面倒事を背負い込むとは思えん。手を汚すことなく、厄介な仕事は適材に割り振るのがお前のやり方だろう」

 ハゲタカのように抜け目のない老人に凄まれようが、レイモンドの微笑は揺るがずに陶器のような肌に張り付いていた。

「確かにそうです。僕は参謀、監視役は僕の仕事ではありません。他に彼女を任せたとしても、全ては滞りなく運ぶでしょうね」

「だったら何故だ?何を考えている?」

「愛してしまったのです。それだけで充分でしょう」

 リーガルはもう一度目を見張った。余程信じられなかったのだろう。レイモンド・リア・ラムスはサソリのような男だ。強大な毒を生まれ持ち、自ら手を下すことなく敵対者の息の根を止めてしまう。リーガルは嘆息した。

「ガキのころに従者を殺し、死体まで売り捌いてみせた男が?なんだ、愛だと?」

「ええ、愚かしいことではありましょうが」

「全くだ。お前の不興を買って消された奴らに聞かせてやりたい」

「さて、何のことやら」

「白々しい真似はやめろ。幹部だろうと気に入らなければ奸計を巡らせて殺すようなサソリに、まさか情など残っていたとはな」

「情で僕は動きませんよ。これは紛れもなく恋です。僕がサソリだとしたら、彼女はとんでもない魔女でしょう。この僕の心を捕え、骨抜きにしてしまったのですから」

 レイモンドはルチアの右手をそっと握り、壊れ物を愛でるように丁寧な仕草で包み込む。ルチアは内心鼻白んだが、余計な口を挟むほど愚かではない。奈落の王を真っ向から見返し、花のような乙女を侍らせて悠々と佇むレイモンドは何処までも堂々と微笑んでいた。

 老人の口角が半月のように吊り上がる。従順の仮面を貼り付けて身を任せるルチアをまじまじと観察すると、彼は愉快そうに肩を竦めてみせた。

「まあいい、勝手にしろ。せいぜい自分の役目を見失うなよ」

「畏まりました」

 深々と頭を下げたレイモンドをニタリと一瞥し、リーガルはすぐに踵を返す。一つ、二つ、三つと数えるたびに遠ざかっていく足音の群れに内心安堵しながら、ルチアは声を発することなくレイモンドの左胸に頬を押し付ける。やけに生々しく脈打つ鼓動に耳を傾けて息を潜めていると、不意に降ってきた低い声が鼓膜を揺らした。

「よし、そろそろ大丈夫だ。離れていいよ」

 途端に腕の力が緩まり、ルチアはようやく解放される。隙間なく埋められた距離が急に離れ、ルチアは反射的に右手を彷徨わせる。一方でつい数秒前までルチアを恋人のように扱っていた男は、大胆な行動を恥じる素振りも見せずに肩を竦めてみせた。

「彼には決して逆らわないでくれ。当代のリア・ラムスの首領で、僕の父親だよ」

「殺し合いでも始めるのかと思ったわ。到底親子には見えないのだけれど」

「父親が焼き殺されても表情一つ変えなかった君には言われたくないな」

 図星を突かれ、ルチアは言葉を詰まらせた。父親の死を悲しむことなく踵を返したルチアと、父親を飄々と謀ってみせたレイモンド。どちらも同じく、心の大事な部分が欠けている。

 黙り込んだルチアを一瞥し、レイモンドは短い溜め息を吐き出した。小さく歪んだ表情は不快感を露わにしているようで、何かを堪えているようにも見えた。

「他の幹部と顔を合わせたら面倒だ。さっさと君の部屋に行こう」 

「もう用意してくださったの?」

「最低限はね」

 そう言い放つと、レイモンドはとっとと扉を開けてしまう。足早に去っていく背中を小走りで追い掛け、ルチアは煉瓦に吸い込まれるように向こう側へ足を踏み入れた。

 一歩中に入ると、ふわりと立ち昇った土埃が二人を包む。驚いて周りを見渡すと、そこは細長く伸びた通路だった。剥き出しの地面は赤茶色の土が敷き詰められていて、街と同じように天井と壁は全て煉瓦で覆われている。無数の仄暗いカンテラの灯りに照らされたレイモンドはするりとルチアに身を寄せると、耳元で愛を囁くように唇を寄せた。

「最初に言っておこうか。君は僕と同じ部屋で生活して貰うことになるよ。その方が周りの目を欺けるし、君を監視下に置きやすい」

 ルチアの喉がヒュウと乾いた悲鳴を漏らした。しかし彼女はすぐに取り繕い、前を歩くサソリのような男を冷たい目で睨み付ける。

「嘘の契約なんでしょう?何も本当に婚約者みたいに過ごす必要ないじゃない」

「言っただろ、相互に監視し合う環境なんだ。危ない橋は渡らない。心配しなくとも無体は働かないし、そもそも君が想像しているようなものではないよ」

 それだけ言うとレイモンドは口を閉ざし、微笑の仮面を貼り付けたままルチアの腰をそっと抱く。真っ赤な貝の火がぐらりと燃え滾るなか、二人は淡く光るカンテラの間を無言で通り抜けていった。

「ここが僕たちの部屋だよ、レディ」

「ありがとう」

 突き当りの扉を開けると、レイモンドは芝居がかった口調でルチアを招き入れる。訝しみながら中へ入ったルチアは、部屋を見渡して目を見開いた。

「これは……初めて見る構造ね」

 幹部の私室ということもあってか、広さは別邸の客間よりも広かった。煉瓦の壁は漆喰で塗り潰され、窓がないせいで独房のように寒々しい。家具は乏しく寝台とクローゼット、重厚な本でぎっしり埋まった本棚の他は中央のテーブルセットくらいしかない。おまけに床は剥き出しで、薄汚れた煉瓦が敷き詰められているだけだ。殺風景な空間の真ん中で、吊り下げられたシャンデリアが華々しく煌めいている。しかし、ルチアが驚いたのはそのどれでもなかった。

「だから言っただろう、君が想像しているようなものじゃないって」

 レイモンドはため息交じりに呟いた。

 奥の壁際に備え付けられた小さな階段。その上に、ちょうど別邸の寝室の三分の一程度の空間が広がっていたのだ。レイモンドのベッドの正面の壁の上半分がくり抜かれ、ぽっかりと開いた穴の中に一人分の部屋が浮かんでいる。奥には簡易的な寝台と小さなテーブル、置き時計、背の低いクローゼットが並んでいた。元の天井が高いためか、頭をぶつける心配をしなくて済むくらいの高さは確保されている。レイモンドの部屋との境目には低い木の柵が嵌め込まれ、中を覆い隠せるように朱色のカーテンが設置されていた。

「部屋とは呼べない代物ですまないけど、ふた月半だけ我慢してくれ」

「……まあ、仕方ないわ」

「浴室や簡易的な調理場は隣にある。特に制限は設けないから、君は好きに過ごしてくれればいい」

 それだけ言うとレイモンドはさっと動き、ルチアをテーブルの前のソファに座らせた。そして後ろの戸棚から小さな茶色の包みを二つ取り出すと、片方を無造作に差し出す。

「チョコレート。好きなんだろう?別に毒も入っていない。僕からの最初の贈り物だと思ってくれ」

「お客様用のお菓子は紅茶と一緒にお出しするものよ」

「君は僕の婚約者だろう?なら客じゃない」

 ひらひらと手を振ると、レイモンドはさっさと包みを開けた。一粒取り出して茶色い塊をくるんだ淡い色紙を破り、ゴロゴロとした中身を躊躇いなく口に放り込む。彼の身に異変がないことを確認すると、ルチアも一粒手に取って口内に滑り込ませた。

「そろそろ詳しく説明してちょうだい。何故、私を花嫁に仕立て上げるの?」

 甘い欠片を飲み込んで、ルチアは待ちかねたように問いかける。ジッと注がれた視線に軽く頷くと、レイモンドはガリッと音を立ててチョコレートを噛み砕いた。

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