アギリア

 土で覆われた高い天上、足元には幾筋も敷かれた石畳の道が続いている。道の隙間の剥き出しの大地を覆うようにいくつもの天幕が連なっており、全ての天幕から例外なく吊り下げられているカンテラが、太陽のない地中を仄明るく照らし出していた。広さはヴァレット家本邸が五つほど入りそうな程度で、四方の壁は天井まで隙間なく煉瓦で覆われている。全ての壁には複数の扉が取り付けられていて、僅かな間にも絶え間なく人が行き交っていた。向かって左側の壁には一際大きな両開きの扉があり、そこからは荷車や家畜が出入りしていた。

「ここはアギリアの最下層、地底街。こう見えてこの街の心臓部だからね、案外栄えているだろう?」

「随分と整備されているのね。でも、あまり無法の匂いはしないわ」

「当たり前だろう、ここはリア・ラムスの本拠地なんだから。あの天幕は市場だよ。日用品に髪飾りに毒薬にナイフ、何でも手に入る」

「つまりは闇市と言ったところかしら。でも、彼らは何処に住んでいるの?家のようなものは見当たらないけれど」

「あの天幕が家なんだ。アギリアには太陽も雨もない。外気に晒されない地下では、冬も夏も大して差は感じない。だから、ああいう簡易的な住居が好まれる。特別に広い居住区では小屋を建てる者もいるし、横穴を掘り進めて住み着く者も多いけど」

「随分と簡素なのね」

「身軽な方がアギリアでは生きやすい。他の居住区では自衛の必要だってあるけれど、地底街はリア・ラムスの目が行き届いているからね。その分、住むにはそれなりの上納金がいる」

 確かに、どの天幕も特別な何かが仕掛けられているようには見えない。しかし、商品として表に陳列されているものはかなり奇妙だった。

 薬草やハーブが干されている天幕では、煎じ薬と同じ棚にしゃれこうべの印が描かれた瓶が並んでいる。珍しい褐色の肌を持つ美女が売っているビーズ刺繍入りのハンカチーフの中には、イミテーションのガラス玉に紛れて、明らかに本物の宝石が縫い付けられたものがあった。   

 チョコレートや干した果実の隣に、干したイモリやトカゲがぶら下げられていたり、せっけんやブラシの横に弾薬が並んでいたり。ごく普通の市場の中に異物が紛れ込んで、まるでパズルのピースのように歪な形で噛み合っている。魔法の世界に入り込んでしまったような、奇妙で不思議な空間だった。

「彼は毒薬や媚薬も調合している。そういった危険物を売る時は解毒剤も渡すんだ。地上では随分と散々な目に遭っていたらしいが、今はこっちで好き勝手やってるよ」

「確かに、そんな知識があれば怖がる人も多いのでしょうね」

「ハンカチーフのレディは元々娼婦だった。今は気ままにやっているようだけど、客から巻き上げた宝石を持て余しているみたいでね。時折こうやって適当に売り飛ばすんだ」

「……そういえば聞いたことがあるわ。地上では違法だけど、アギリアでは娼館が当たり前にあるのだと」

「その通り。この街では粗方の違法が合法になる」

「じゃあ、あのイモリやトカゲは一体何のためにあるのかしら。あれも違法な生物?」

「いいや。店主の趣味だよ」

 驚きが隠せないルチアに、レイモンドは案外律儀に一つ一つ説明をしていく。果物や酒と言った何の変哲のない売り物も多いが、その隣の店に剣やら戦闘用ナイフやらが並んでいるのも当たり前のようだった。悪人面の屈強な武器屋に果物屋の看板娘が気安く話し掛けても、周囲の人間は気にも留めない。しかし、レイモンドを見た街の人々は、揃って驚いたように目を見開いてから何やらニヤニヤと笑い始める。不思議に思って視線を上げたルチアに、レイモンドは肩を竦めた。

「僕が君を連れているのが珍しいんだろう。僕が個人的に女性と関わることはほとんどなかったから」

「それにしては随分と微笑ましげに見られるのね」

「まだ子供扱いが抜けないんだろう」

「もう立派な大人じゃない」

「奈落の底で生き延びてるような連中だからね。二十なんてまだまだ若造だよ」

 二十歳、という単語にルチアの眉がピクリと跳ねた。

 もう日付はとうに変わっている。ルチアは十七歳になっているはずだ。そしてレイはルチアよりも三つ年上で、もし元気なら今頃二十歳になっているはず。

 ルチアは無表情の下で唇を食む。溢れそうな激情をなんとか呑み込んで、繊細な氷細工のように優美に微笑んだ。

「私と三つしか変わらないなんて。意外だわ」

「もっと老けて見えるとでも?」

「そうでもないけれど、得体が知れないんですもの。あなたみたいに恐ろしい人、五百年生きてる吸血鬼だって言われても信じるわ」

「君はちっとも怖がらないじゃないか」

 肩を竦めるレイモンドに、ルチアは静かに目を伏せた。

「恐怖心は失いたくないものがある証拠だわ。自分が叶わない相手に大事なものを奪われたくはないもの、だから人は得体の知れないものを恐れるのよ」

「なら、大切なものがない君は何も怖くないと?」

「大切なものならあるわ。でも、失うようなものは何も持っていないの」

 結果的に当初の脱走計画が頓挫することになったとはいえ、汚れてしまったルチアの心を初恋の人に見せるなんてまっぴらだ。だから彼が生きていたとして、もう二度と顔を合わせる気はない。この男が本当にレイでないなら、の話ではあるが。

 重たい頭を持ち上げて無理矢理前を向いたルチアを、レイモンドは本心が読めない深い色の瞳でジッと見つめていた。

 石畳の道の先を辿っていくと、天幕の数は次第に減っていく。ポツリ、ポツリと寂しく灯されたカンテラの向こうに目を凝らすと、奥には小さな広場のようなものが広がっていた。円形に敷き詰められた石畳の中央が、そこだけそそり立つように高くそびえている。遠目からは背の高い台座に銅像が置かれているように見えるが、近付くにつれてそのあまりにも奇妙な形が浮き彫りになっていった。

 台座の中心で、天井に届くほど巨大な細長い長方形の木枠が、三角に組まれた骨組みに支えられてどしりと鎮座している。その後ろには分厚くて背の低い板が立てられ、橋を渡すように一枚の板が平らに置かれていた。木枠の中は空洞で、ぽっかりと空いた穴から向こう側が覗いている。しかし、上部には鋭利な鉄が短い紐でぶら下げられていて、鈍色の先端が恐ろしく尖っていた。天辺からだらりと垂れ下がった縄は驚くほどに太くて、ところどころ酷く黒ずんでいる。

 そのあまりの異様さに、さすがのルチアも身震いを隠せなかった。

「これ、は……」

「ああ、本物を見たのは初めてかい?」

 青い顔で立ち止まってしまったルチアを振り返りながら、レイモンドはゾッとするほど凪いだ視線を異形の置物に向ける。呆然と固まったルチアの肩を一度だけそっと撫でると、彼は土の塊でも見るような目のまま、淡々と口を開いた。

「ルイゾン、ルイゼット、ギロティーン。色んな呼び名があるけれど、まあ有り体に言ってしまえば、いわゆる断頭台だよ」

 カンテラの光を反射して、鈍色の刃がギラリと光った。傾斜が急な右上がりの形状は、どんなに太い首も切断できるように工夫された結果だと本で読んだことがある。絵空事と同じ距離にあるとばかり思っていた殺戮の道具が目の前に急に現れ、ルチアはよろめきそうになるのを必死に堪えながらレイモンドを睨んだ。

「どうしてこんなものが……」

「決まっているだろう。粛清と脅しのためだよ。恐怖は目に見えてこそだからね」

「……実際に使われたことはあるの」

「何度も。あまりいいものじゃない」

 僅かに翳った微笑でそれだけ言うと、レイモンドはクルリと身を翻した。そのまま去っていく背中を小走りに追い掛けると、素知らぬ顔を必死に取り繕いながら隣に並ぶ。足早に広場を抜けた先にはもう天幕もなく、目の前には壁が立ち塞がっていた。

 レイモンドは、おもむろに煉瓦で覆われた赤茶色の壁を無造作に指で指した。

「この先はリア・ラムスの隠れ家だ。正面の壁に三つ並んだ扉があるだろう?あそこが入口だ」

 指を指された方向に視線を巡らせると、確かに煉瓦の壁の中央と両端に当たる位置に、それぞれ頑丈な木の扉が嵌め込まれていた。

「他の居住区への通路だと思っていたのだけれど」

「左右の壁はそうだよ。他の居住区と水源への通路になっている」

「そう、ならあの扉の向こうの横穴が住処ってわけ。モグラみたいね」

「何とでも言えばいい。中は迷宮のようになっていて、奥に行けば行くほど身分の高い構成員の部屋になるんだ。最奥に幹部の居住区がまとまっている。僕の部屋もその一部なんだ」

「組織の上層部が皆一緒に住んでいるの?息が詰まりそうね」

「その方がお互いを監視できるだろう。鉄の絆は裏切り者を許さないんだ、首領の意向だよ」

 ルチアは思わず息を呑んだ。己を閉じ込めるための屋敷に囲われていたルチアの耳にも、その在り方はあまりにも異様に思える。それを何でもないことのように受け入れているレイモンドという男も、まるで全く違う生き物のように思えてならなかった。

「とはいえ幹部ごとに一定の区域が割り当てられてはいるし、暗黙の了解で互いの縄張りをみだりに行き来することもない。君が他の幹部と遭遇することはほぼないから安心してくれ。僕も無暗に会わせる気はない。敢えて見せびらかすつもりで契約したわけじゃないからね」

「なら、そもそもわたしは必要なのかしら?」

「君を手に入れたって既成事実さえあればいいんだよ。何もしなくとも、君の存在そのものが僕の盾になるからね」

「……どういう意味?」

 レイモンドが質問に答えることはなかった。

 代わりにルチアの腰に右腕を回し、強引に引き寄せる。突然縮められた距離にルチアは目を見開き、引き離して文句をぶつけようと手を伸ばした。しかしレイモンドはルチアの口を軽く塞ぎ、もっと密着するように上半身をピッタリと寄り添わせる。せめてもの抵抗として思いっきり睨み付けると、紺紫の瞳と視線がかち合った。

「悪いけど少しだけ耐えてくれ。くれぐれも、変な気は起こさないように。死にたくないなら僕に合わせて」

 ルチアの耳元で、掠れた低い声が小さく囁いた。弾かれたように前を向くと、向かって右側の扉から一人の老人が複数人の男を伴ってこちらへ向かって来るが見える。レイモンドはルチアの腰を抱き、恋人のように密着した状態のままでゆっくりと歩き出した。ルチアは叫び出しそうな心を必死に抑えながら、なけなしの理性を絞り出してレイモンドに身を任せる。老人の前まで辿り着くと、レイモンドはさっと左手を胸に押し当て、ルチアの腰をするりと離して優雅に腰を折り曲げる。

「只今戻りました、ドン・リーガル」

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星降る街のパトリオット 綺月 遥 @Harukatukiyo24

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