契約結婚
東地区の中央通りを南に向かって進んで行く。背を向けた方角がにわかに騒がしくなっても、ルチアが振り返ることはなかった。真夜中と夜明け前の狭間、一層深く垂れ込めた闇の中。まるで明日の散歩先でも決めるように、レイモンドはあっさりとルチアに告げた。
「アギリアの入口は南地区に多いが、東地区にもない訳じゃない。黒曜部隊に見つかる前に地下に潜ってしまおう」
「リア・ラムスも保安局が怖いのね」
ルチアは薄く嗤った。
黒曜部隊とは、セントリア保安局直属の戦力だ。王都の治安維持を目的に、高度な試験をくぐり抜けた軍人で組織された少数精鋭の特殊部隊。彼らは正義の代名詞であり、セントリアの英雄だった。
「アギリアで何をやろうが、リア・ラムスが咎められることはない。だけど、ここは地上だからね。僕らの領域外では治外法権も通用しない」
「それならどうしてわざわざ地上のヴァレット家を襲撃したの?随分と非合理な組織ね」
「君が知る必要はない。間一髪で拾った命を大事にしなよ」
レイモンドの瞳が冷酷な光を纏い、傍らを歩くルチアを静かに射抜いた。ルチアは不快感を露わに眉をひそめるが、レイモンドが足を止めることはない。こんな男が初恋であるはずがない、そう胸に言い聞かせて見上げた横顔は、哀しいくらいあの頃の面影を纏っていた。
曲がり角を数回横切り、煌びやかな商館の裏手に回り、運河沿いの通りを小走りで駆け抜ける。北寄りの本邸から南に向かえば向かうほど建物が小さくなり、道幅も狭くなっていく。ガス灯の数も少ない寂れた小径に入ると、レイモンドは小さな溜め息を漏らした。
「ようやく着いた。ここが入口だ」
ポツリと佇む煉瓦の小屋の軋む扉を押し開けながら、レイモンドは警戒するように周りを見渡した。暗い小屋の中には何もなく、格子付きの天窓だけがぽっかりと浮かび上がっている。部屋の中央には暖炉があり、レイモンドは床に膝を着いて暖炉の傍で何やら作業を始めた。壁の煉瓦を何度か叩き、時折暖炉へ目を向ける。二十秒ほど手を動かし続けると、暖炉の中からガタリと何かが外れるような音がした。
古びた床を軋ませながら歩み寄ると、レイモンドは躊躇なく暖炉の煤の中へ右腕を突っ込んだ。ギョッと目を見張るルチアのことはお構いなしに煤を掻き回し、何かを手繰り寄せるように腕を引き上げる。すると、暖炉が再びガタガタと耳障りな音を立て始めた。そして瞬く間に暖炉の前の床が凹み、下へと降りていく階段が姿を表した。
「着いて来てくれ」
「言われなくとも」
狭苦しい階段に一歩足を踏み入れると、レイモンドは不意にルチアの腕を掴む。ルチアが顔を上げて軽く睨むと、レイモンドは前を向いたまま素っ気なく言った。
「転げ落ちたくないなら我慢してくれ。下に降りるまで灯りはない。僕は夜目が効くけれど、君はそうじゃないだろう」
確かに下へ下へと限りなく続いていく石段は闇の方へ伸びていて、ほんの少し先に目を凝らしただけで何も見えなくなるほどだった。ルチアは渋々頷くと、黙ってレイモンドに導かれるままゆっくりと段を降りていく。
「さすがに長過ぎるわ」
「アギリアは蟻の巣のような構造になっていて、七つの階層のそれぞれに複数の居住区があるんだよ。リア・ラムスの本拠地『地底街』は最も下の階層に置かれている。この階段は直接地底に繫がっている」
薄闇の中、低く通る声がたわんだように木霊する。ルチアの頬がピクリと震えた。
「何故地下の街をそこまで拡張したの?費用も時間も、あまりにも膨大でしょう」
「主に水源の問題だね。アギリアは運河の恩恵にあやかれないから水源が少ない。だから地下水が汲み上げられる地点の周辺に、かつての地下水路から岩盤を掘り進めて居住区を確保した。そうやって造られた小さな街が通路で繋がって、迷宮のようになっているのがアギリアなんだよ。中でも、王の住処たる地底街は最深部にあるのさ」
「本当に蟻の巣ね。そこまでして、どうして住み続けるの?住人を閉じ込めて、奈落の底に繋ぎ留めているのかしら」
「まあ、そう思うのも無理はないけど。残念ながら違うよ」
ルチアは思わずポカンと口を開けた。レイモンドは粛々と階段を下りながら、平坦な声で淡々と言葉を紡いでいく。まるで機械仕掛けの鳥が歌っているようだった。
「この通路は秘匿されているけれど、南地区の方にいくつか常に解放されている入口がある。逃げ出す人間は後を絶たないし、借金でもなければ止められもしない」
「それなら、何故アギリアは存続しているの?」
政府からも打ち捨てられた犯罪都市。環境は劣悪で、街を牛耳るリア・ラムスも決して英雄にはなってくれない。まさに奈落の街だ。しかし、アギリアはもう百年近くこのセントリアの地中で拡張を続けている。奈落の住民が何故いつまでも不自由を強いられているのか、ルチアという一人の少女にとっては奇妙で仕方がなかった。
レイモンドはまた淡々と口を開く。しかし、ポツリと落ちた言葉はひとかけらの感情が滲んでいた。
「光の当たる世界にいれば、そのうち焼け死んでしまうような人間もいるんだよ」
いつの間にか周囲から光は消え失せていて、暗闇に二人分の存在感だけが浮かんでいる。足音に紛れて響く声は、歪さの中に確かな芯を宿していた。
「誰もが太陽の下で生きられる訳じゃない。正しさに虐げられて、こんな奈落まで逃げ延びてきた人間だっているんだ」
「罪を犯した人々が流れ込むんでしょう」
「それだけじゃないさ。色んな連中がいる」
それきり、レイモンドは口を開こうとはしなかった。ルチアも詮索せず、ただお互いの存在だけを確かめながらひたすらに下を目指して歩いていく。コツン、コツンと乾いた音が絶え間なく反響し、一歩進むたびに空気が湿っていくのを肌で感じられる。何十段と連なる石段を降り続けた先で、レイモンドはゆっくりと立ち止まった。
「着いたよ、この先だ」
「分かったわ。入る前に一ついいかしら?」
「何かな、あまり余計なことは聞かない方がいいと思うけど」
「取引の内容を聞いていないわ。どうせここまで来てしまったのだから、いい加減教えてくれたって大して変わらないでしょう」
「それもそうだ。とはいえまだ核心までは話せない。何処に耳が付いているか分かったものじゃないからね。今は最低限の要求だけ伝えておくよ」
ふわりと僅かに空気が揺れた。掴まれたままの右腕が軽く引かれたことで、レイモンドが後ろのルチアを振り返ったことが分かる。
「僕が求めることはただ一つ、君が僕の望むままの役を演じてくれることだ」
「そう。何を演じればいいの?」
「僕の婚約者だよ」
平然と言い放たれ、ルチアは虚を衝かれて押し黙った。しかし徐々に現実を呑み込むと、途端にとてつもなく苦いコーヒーを飲み干したような渋面を浮かべる。二回り年上の男の花嫁に宛がわれたと思えば、今度は得体の知れない男の婚約者を演じろと言う。奇妙なうねりを見せ始めた運命に、ルチアは思わず真っ黒に塗り潰された天を仰いだ。
「冗談でしょう?」
「本気さ。特別な付加価値を持つ女の子が必要なんだ。何も、本気で僕と契れと言っている訳じゃない。人前でだけ演じてくれればいい」
「私に大した価値なんかないわ」
「それこそ冗談だろう、ヴァレットの至宝殿」
平静を取り繕いながらも動揺が隠せていないルチアと比べて、レイモンドの声音は不気味なほどに凪いでいた。
「それで、あなたは私に何を差し出すの?」
「ヴァレット家の庇護を失った君の身の安全、それから生活の保障。しばらくは不自由だろうが、それなりの環境を用意しよう」
「……結局、私を囲い込んで利用するだけなのね。ヴァレット家を無能と罵ったわりには、あなたも何も変わらないじゃない」
ルチアの声に失望の色が滲む。結局何処へ行っても、誰の下でもただ飼い殺されるのだろうか。懐に仕込んだままの髪飾りを探り当て、湧き上がる激情を抑えるように握り締める。しかし、レイモンドは平然と言葉を連ねた。
「否定はしない。でも、永遠じゃない」
「あら、幾分か話が分かるのね。期限はいつ?」
「聖夜祭の日の日没まで。日が落ちる前に君をアギリアから解放する。君が『ルチア・ヴァレット』である限り利用されると言うのなら、新しい戸籍だって用意する。貴族の身分は失うけれど、そんなもの君には必要ないだろう?」
何もかもを見透かしたようなレイモンドに、ルチアは思わず嘆息した。
「よく分かっておいでね」
「ただ助かりたいだけなら、僕の取引に乗るなんて馬鹿な選択はしない。移動する間に逃げて、保安局を頼った方が万倍マシだ。でも、君は逃げる素振りすら見せなかった」
「保安局を頼れば、いずれヴァレット家の遠縁か婚家に引き渡されることになるもの。もう一度鳥籠に戻るくらいなら、悪魔と取引するくらい何万倍もマシだわ」
大公家や皇族にでも生まれない限り祝福の子は愛玩物でしかなく、それは貴族社会でこそ最も顕著になる。だからこそ王都の外か、さもなければ南地区に逃げるつもりだったのだから。転々としながら暮らせば身分を隠しながら生きてはいけるが、身元が保証されていた方が選択肢は増える。レイモンドの提案は、決して都合の悪いものではなかった。
「ふた月半、あなたの花嫁を演じれば自由が手に入るの?」
「ああ。約束しよう」
たったふた月半、もう一度耐えれば自由が手に入る。監視付きとは言え、恐らくルチアがリア・ラムスを密告でもしない限りは手出しされないだろう。手が届く場所にぶら下げられた悲願に、ルチアは思わず固唾を飲み込んだ。
「口約束を信用しろと?」
「僕はどちらでも構わないよ。君が引き返すなら撃つだけだ。この扉の向こう側は治外法権だけど、地上で君を攫ったことが保安局に知られたら面倒だからね。万が一逃げ切れたとしても、階段の入口は東地区にある。土地勘のない君じゃすぐに保安局に見つかるよ」
可能性と命を投げ出して逃げるか、得体の知れない男に身を委ねるか。
どちらを選び取るかなんて、悩む余地すらなかった。
「……どれだけ癪でも、受け入れるしかないのでしょうね」
「物分かりが良くて助かるよ」
暗闇の向こうで、死神が微笑んだような気がした。
「じゃあ、行こうか」
ギシギシと耳障りな音が耳を衝いた瞬間、一気に開かれた視界にルチアは一瞬気圧された。レイモンドによって開け放たれた扉の向こうから、一面に張り巡らされた茶色の天井がちらりと覗く。人混みの気配と喧噪、何処からともなく漂う、焦げ付くような匂い。七年もの間、静かな寝室が世界の大半だったルチアにとっては、この先はあまりにも未知だった。
ルチアはゆっくりと扉の向こうへと歩み寄っていく。ほんの少し前に立っていたレイモンドの隣に並ぶと、彼は掴んだままの腕をそっと手放し、ゾッとするほど綺麗に微笑んだ。
「奈落の街、アギリアにようこそ。地獄の底まで転げ落ちていかないように、せいぜい気を付けるといい」
一歩足を踏み出すと、ルチアの足元で土埃がふわりと舞い上がる。
そこは土色の小さな箱庭だった。
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