廻る歯車

 耳を擽る、聞いたことがないほど低く霞んだテノール。冷たい風に煽られて翻った黒いコートが視界を横切り、ルチアは思わず振り返った。

 途端に男の顔が眼前に広がる。その瞬間、ルチアの膝は砕けるように崩れ落ちた。

 夜に同化するように溶け合う黒髪、白皙の肌。黒檀の黒と雪の真白、瞳に宿るのは宝石。記憶よりもずっと濃くて暗い、それでも確かに鮮烈に煌めく青紫色だった。

 宵の青紫。ルチアが知る色よりも濃くて深い、だけどそっくりな美しい光。

 薄い唇は硬く引き結ばれ、彫刻のように整った眦は冷たく吊り上がっている。この世の全てを排斥するように凍て付いた眼差し。記憶の何処を探しても見つからない、仮面染みた表情。

 夜そのものを纏って地上に降り立った死神のような、人間離れした美貌の男だった。

 飾り気のない黒のフロックコート、上着と同化して見える黒のトラウザーズ、よくなめされて艶のある革靴。身に纏っているものは地味だが、全てが上質であると一目で分かるものばかりだ。本人の高貴な容姿とも相まって、何処かの貴公子のように見える。しかし、ルチアは教育の一環として貴族の情報を叩き込まれている。高位貴族の男性の名前と家柄、容姿まで全て網羅したリストの何処にも、こんな男は記載されていなかった。

 ああ、それでも。分からないはずがない。

 視界が滲んでいく。月明かりがぼんやりと霞んで、大きな貝の火が一粒だけ、白い光を吸い込んで鈍く輝く石畳に転がり落ちた。

「レイ……?」

 全身の震えが止まらない。七年間ずっと、焦がれながら生きていた。死んだように息を潜めても、心まで殺されずにいられたのは、いつだって瞼の奥にレイの笑顔があったから。

 覚束ない足を必死に動かして、震えが治まらないせいで感覚が乏しい右腕を必死に伸ばす。会いたくて、会いたくて、会いたくて。泣きながら守ってきた初恋を晒け出すように、左腕を鷲掴む大きな手を包み込んだ。

「レイ、レイ、あなたなの……?私よ、ルチアよ。覚えているかしら、目の色は変わってしまったけれど……」

 もう二度と会わない。硬い決意も脆く崩れ、ルチアは必死に愛しい人の名前を呼んだ。

 必死に縋り付くルチアを見ても、黒髪の男はまともに見も合わせないまま、ただ氷像のように佇んでいる。大きくなっていく喧噪を運ぶ風さえ意に介さず、月下の宝石は星が降る真夜中の東空を写し取ったように揺らめいていた。

 やがて、男は盛大に顔をしかめた。不機嫌を絵に描いたような顔つきなのに、伏せられた瞼は何故か悲しげに見える。

「誰の話をしている?僕は君のレイじゃない。何の話か知らないけれど、覚えている訳がないだろう」

 虫でも払うように振り払われた手と、嘲笑いながら放たれた言葉に、ルチアは確かに己の心がひび割れる音を聞いた。

 嘘だと思いたかった。だって、彼はあまりにもレイに瓜二つだ。瞳の色は記憶よりも濃くて、表情はあまりにも冷たいけれど、他は紛れもなく昔のままなのに。

 信じたくなかった。冗談だと笑って欲しかった。しかし、目の前の男は刃よりも鋭い否定を撤回しようともせずに、立ち直れないままのルチアをジッと見詰めている。

 夜を取り込んだような紺紫の視線を一身に受け、ルチアはふらりと体を起こす。現実を受け止めきれないまま、それでも確かに前を向いて、明けない夜闇の中で立ち上がった。

 レイではない、レイにそっくりの男。レイじゃないのなら、この男がルチアに声を掛ける理由は何処にもない。ルチアの瞳に灯る赤が、男を映して仄かに燃え上がり始めた。

「人違いでしたか。なら、あなたは一体どちら様かしら?」

 必死に平静を取り繕うルチアに、男は平然と言い放った。

「僕はレイモンド。レイモンド・リア・ラムスだ」

 リア・ラムス、それはセントリアに住む者なら一度は耳にする名だった。世間から引き離されて育ったルチアですら、その恐怖と畏怖はよく知っている。

 百年前に成立して以来政府から見捨てられた奈落の街、アギリアを支配する組織。しかし表に出ている情報があまりにも少なく、知名度とは裏腹に実態は謎に包まれている。ルチア自身、実在するとは夢にも思っていなかった。

「リア・ラムス?本当に?」

「おや、疑うのか?」

「当然でしょう。あの混沌としたアギリアに王がいるとは思えないもの」

 面白そうに口角を吊り上げるレイモンドに、ルチアは胡乱な眼差しを向ける。地下都市アギリアはセントリアに根を張る裏社会の総本山であり、犯罪者が堂々と蔓延る巣窟。王都の民で、その混沌とした様相を知らない者はいない。もしも本当に統率者が存在するのなら、もう少し秩序が保たれていて然るべきだ。しかし疑惑の目を向けられてなお、レイモンドは澄ました顔で肩を竦めてみせるだけだった。

「王はいるさ。規律ではなく、死と恐怖を以て秩序を敷いているだけでね」

「それで王と呼べるの?」

「僕が決めることじゃない。王がそう定めたのなら、僕らは従うまで」

 飄々と首を傾げ、顔色一つ変えずに狂信染みたことを口にする。会話が進むほどに、ルチアは目の前の男が自分の知るレイではないことを信じ始めていた。

「そう。それで、何の用がおありなの?急いでいるのだけど」

「さっき言っただろう?そっちは危険だ。ヴァレット家本邸の方角だからね」

「どうしていけないの?早く行かなくてはならないのよ」

「殺されるとしても?」

 レイモンドは口調を変えず、諭すように淡々と言葉を重ねていく。語気を荒げる訳でも、大声で脅しつける訳でもないのに、何故か体が硬直してしまうのだ。辛うじて保っている虚勢が剥がれ落ちるのも時間の問題だった。不気味で危険な、怪物みたいな男だ。

 知らずのうちに怯んでしまったルチアの隙を、彼は容赦なく突いてきた。

「君、ルチア・ヴァレットだろう?」

 今度こそ、ルチアの仮面が音を立ててひび割れた。

「どうして、それを……」

「有名だからね、君。ヴァレット家の姫君さん」

「だとしてもあの父親がアギリアに私の情報を流す訳ないわ!」

「情報は水みたいなものだ。完全にせき止めるなんて至難の技だよ」

 男はなんでもないように宣った。しかしルチアはぎりりとこぶしを握り締める。本能が悲鳴を上げていた。

「ヴァレット家本邸は今、リア・ラムスの襲撃を受けている。屋敷に向かえば君も死ぬよ」

 淡々とした声だった。しかし、それゆえに嘘には聞こえない。

 根拠は?そもそも、あなたがリア・ラムスの人間だってどう証明するつもり?」

 言い募るルチアに顔をしかめながら、レイモンドは溜め息を隠そうともせずに懐に手を突っ込む。取り出した黒いかたまりは、月光を跳ね返して嫌に存在感を放っていた。

「これでどう?流石に難しいかな」

 黒く鈍く光る、単なる鉄の塊。しかしその正体を見抜いた瞬間、ルチアは思わず瞠目した。

回転式拳銃リヴォルバー……」

「知ってたんだ。珍しいね」

「……祝福の子は攫われやすいから。武器を持たされることはないけれど、拳銃の撃ち方くらいは教えられるわ。でも実際に見たのは初めて」

 ルチアの唇が震える。紺紫の双眸がすうっと細められた。

 回転式拳銃。技術大国と称される隣国、アストレアで開発されたばかりの最新鋭の銃だ。

 ゴツゴツとした銀色の銃身が特徴で、弾丸を回転する弾倉に装填することで七発ほど連続して撃つことができる。従来の単発式と比べて威力も幾分か高い逸品だった。

 生産に大金と高度な技術が要求されるため市場には出回らず、友好国のヴィアラントでさえ高位の将校に下賜される分しか入手できない。しかし連射が可能であるという利点から裏社会を中心に高値で取引が行われている代物だ。七年前、シスター・グレースの腕を喰い破った銃よりもずっと精巧で狂暴なそれは、男の身分を表すには十分だった。

 本能的な恐怖に引き摺られるように逃げ出そうとする足を必死に抑え、ルチアは静かに男を見据える。

「……私に何の用?」

「持ち掛けたい取引がある。着いて来て欲しい」

「断ったら?」

「僕は名乗った上に銃だって見せた。正体が割れた以上、逃がす訳にはいかない。保安局にでも駆け込まれたら面倒だ。本意じゃないけど、この場で殺すことになる」

「……分かったわ」

 底知れない恐怖を覚えながらも、ルチアは案外すんなりとこの脅迫を受け入れた。この世には手段を選ばない人間が山のようにいることなんて、七年も前に嫌というほど思い知っている。本邸が襲撃を受けているという話も、あまりの唐突さに実感が湧かないが信じられない話ではない。生憎ルチアには見当もつかないけれど。

 今この瞬間にも父親が命を落としているかもしれない。名前も知らない姉や兄がのたうち回っているかもしれない。どれだけ想像しても、どうしたって悲しむことはできない。

 全てを失っていたとしても、ルチアは悲願を叶えるために足掻くだけ。家族のために流す涙すら枯れ果てた紅は、紫がかった宵の色を真摯に捉えていた。

「私も死ぬ気はないもの。もしも本当にヴァレット家が壊滅してしまったのなら、大人しくあなたに従いましょう」

「襲撃現場を確かめるつもりかい?正気とは思えない」

「あの家に押し込められてから、私が正気だったことなんて一度もないわ」

 僅かに目を見開いた後、レイモンドは呆れたように目を逸らす。当たり前だろう、家族が殺されたと聞いても悲しむ素振りすら見せない。何人も死んでいるのに動揺もせず、ただ自分の生だけは何処までも貪欲に縋り付く。そんな女が正常な訳がない。

 傷付いた少女として、悲劇のヒロインとして誂えられたかのような人生。しかし、ルチアはヒロインでもなんでもない。だから優しさも健気さも、倫理さえも捨てて心を守り続けた。

 たった一人の一等星と、一等星にすら背を向けられるほど絶対的な覚悟。たった二粒の宝物だけ大事に抱き締めて、ルチアは夜の街を一歩踏み出す。

「早く連れて行ってちょうだい。夜が明けてしまうわ」

「やれやれ。とんでもない乙女が、随分と大人しく飼い殺されていたものだね」

「飼い殺されてやっていた、の間違いだわ。別邸の周りは棘付きの塀で囲ってあるのよ。私の部屋は監獄を手本に設計されたらしいわ。下手な手を打つよりも、出される日を待った方がずっと確実じゃない」

「そこまで金をかけておいて、たかが女一人壊せないヴァレット家は無能だね」

 心底呆れたように呟くレイモンドに、ルチアはほんの少しだけ眉を引き上げた。

「あら、あなたなら私の心を折れるとでも?」

「そうだね、今の君相手じゃ難しいかもしれない。三年あれば容易かっただろうけど。」

「あら、随分と評価してくださるのね。でも三年あろうが思い通りになんかなりやしないわ。私の生きる道はもう決まっているもの」

 それ以上は何も語らず、ルチアは転ばないように足元を見ながらひたすらに歩く。コツコツ、石畳をノックするような音がやけに小さく聞こえた。反比例するように大きくなっていくのは刺すような悲鳴と怒声と、吹雪によく似た轟音。時折爆ぜるような重たい音が鳴り響く。どんどん巨大になっていく喧噪と、焼け付くような気配。それだけで充分な証明になっていたのに、何かに憑かれたように歩き続けるルチアは止まらなかった。長年の軟禁で弱った足腰を叱咤し続けた先で、隣で忙しなく動いていた革靴がピタリと止まる。

「着いたよ、レディ」

 顔を上げると、目の前に思い描いた地獄が広がっていた。

 それは途方もなく大きな、一つの業火だった。ルチアの瞳と同じ色の渦がうねり、揺られ、咆哮を上げながら天へ昇っていく。屋敷も庭も全て呑み込まれ、朱色の幕の中に焼け爛れた瓦礫が包まれていた。所々、炎の勢いが弱い箇所から真っ黒に煤けた家人がほうほうの体で逃げ出し、悲鳴を上げて駆けていく。彼らは皆ルチアのことなど眼中にないようで、真っ赤な光で満たされた敷地を走り抜けて闇の中へ一目散に飛び込んでいった。しかしそれもほんの少数で、服装からして使用人ばかり。当主一家や縁者らしき人間は見当たらない。

 燃える。燃える。燃えて、焼けて、焼け落ちる。

 ヴァレット家本邸は大陸南西部の建築様式やモチーフも取り入れた優美な屋敷であると聞かされていた。故に石や煉瓦のみで造られたヴィアラント式の伝統的な屋敷とは異なり、煉瓦だけではなく随所に木材が使われている。だからだろうか、バラバラと崩れ落ちる赤煉瓦の向こうから酷く焦げたような匂いがした。

 有機物が焼け落ちて、灰に還っていく。木が燃える匂い、脂が燃える匂い。一体どれだけの命を吸いながら、周囲に散乱するこの瓦礫は積み上げられていったのだろう。

 ゴウゴウ、ガラガラ。燃え上がり、崩れ落ちていく。

 阿鼻叫喚を静かに眺めながら、ルチアはレイモンドを振り返る。

「襲撃者は?何処にも見当たらないのだけど」

「僕以外はとっくに引き上げた。あと二時間もすれば夜が明け始めるし、保安局の部隊だって到着してしまう」

「あなたは何人殺したの?」

 知らず知らずのうちに握り込んでいた拳を開いて、ルチアはレイモンドの顔を覗き込んだ。端正な顔に張り付いた表情はゾッとするほどカラッポで、眩い紺青は虚ろな硝子玉のように光っている。何かを落としてしまったような顔で、怪物のような男は素っ気なく口を開いた。

「殺してなんかいないさ。それは僕の役割じゃない」

「それなら、あなたの役割とやらを教えてくださる?それともリア・ラムスの姓は張りぼて?」

「失敬な。僕は参謀、他人に手を汚させるのが仕事だ。蠍みたいに毒を仕込むのが特技でね」

「そう、あなた自身は人を殺さないのね」

「役目じゃないってだけだ。必要なら殺すよ」

 火花が庭に飛び散って燃え広がり、二人の足元で朱色の熱を帯びた灰が飛び跳ねた。熱に充てられたのか、レイモンドは鬱陶しげに皮手袋を外し、懐に仕舞い込む。剥き出しになった白い手は異様なほど骨張っていて、確かに血を知っているように見えた。

「あなたが嘘を吐いていないのは分かったわ。好きになさいよ、大人しくするわ」

 未だ燃え続ける炎に背を向けて、ルチアはさっさと本邸を立ち去ろうとする。レイモンドは軽く肩を竦め、闇に消えようとする亜麻色を追い掛けた。

「淡白だね。家族が皆殺しにされた人間とは思えない」

「あいにく、私は今生きているヴァレットの人間を血族だと思ったことは一度もないの。私の家族はお母様だけよ。そもそも私は父親の名前も、兄弟姉妹が何人いるのかも、不要だと判断されたことは何も知らされていないの。情を抱けという方が無茶だわ」

「だけど、君は母親の心配もしていないじゃないか。慕っているようには到底見えないけど?」

 ルチアの肩がピクリと跳ねる。何か思い出したように立ち止まってしまった少女に、レイモンドは意外そうに眉を吊り上げた。

「……お母様は、もういないわ。とうの昔に死んだもの」

「そうか。僕としても都合がいい」

 ルチアの顔からすうっと表情が抜け落ちる。レイモンドは空々しく微笑んだまま肩を竦めた。

「……それで、行き先は教えてくださるの?」

「決まっているだろう?アギリアだよ」

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