運命の夜

 王都セントリアは四方を城壁に囲まれた城塞都市だ。大陸から狭い海峡を経た北東の浮かぶステラリア島には三つの国が存在する。ステラリア三国と呼ばれる国々は長い歴史の中で時に協調しながら、しかし大抵の時代では争いを繰り広げていた。度重なる戦争のなかでも、セントリアは数多の侵攻を瀬戸際で食い止めてきたヴィアラントの心臓だ。鉄壁の守りと経済規模を誇る街には、四本の揺るぎない境界線が敷かれていた。

 浮島のような中央広場を起点として、斜めにクロスを描きながら東西南北に伸びるディアード運河。流麗な人工の川が、セントリアをさらに四つの世界に分けていた。

 巨大な王城が鎮座する北地区には、社交季に領地から貴族が所有する煌びやかな王都邸宅が集っている。市街の隅々にまで手入れが行き届いており、磨き上げられたガス灯の間を四頭立ての馬車がひっきりなしに駆け抜けていた。

 隣接する西地区と東地区は経済の中心地であり、いずれも商人が多く居住する。しかし、その性質は大きく異なっている。生粋の商売人が事業を起こし、その身一つで生計を立てる西地区に対して、東地区の住人の多くは新興貴族だ。古い血筋は持たず、古くても二百年ほど前に成り上がって爵位を授かった下級貴族。彼らは先祖代々の領地を持たず、議会での席を得られない者も多い。事業の成功による功績を取り立てられる者が大多数であるため、彼らが多く住まう東地区も商業地域として発展していった。そのため情熱的で喧噪に満ちた西地区に比べて活気は劣るが、北地区に匹敵する財力を持っている。

 王城から最も離れた南地区は、セントリア最大の面積と人口を持つ雑多な街だ。ディアード運河沿いの大通りから枝分かれした無数の小径によって、迷路のように複雑な構造が作り出されている。細々とした区画の中で、織物やせっけんなどの工場と粗末な民家がギッシリ詰め込まれている。当然、治安も悪い。それは下町という性質上の理由も大きいが、最大の原因はアギリアと呼ばれる特殊な地域への入り口が開かれている点にある。

 第五の世界、アギリア。

 四分された帝都に存在するもう一つの世界であり、南地区と東地区の地下を呑み込んで拡張を続ける、打ち捨てられた奈落の街。百年前の戦争で身寄りをなくした南地区の住民が、放棄された古い地下水路に住み着いたことから始まった地下街である。日の光も政府の目も届かない、帝都に潜む闇が集結する非合法の巣。現在はリア・ラムスと呼ばれる一族が、治外法権の下に恐怖という名の統制を敷いていた。アギリアへ続く玄関口は南地区を中心に複数存在するが、具体的な場所については箝口令が敷かれている。故に、北地区の人間は他三地区を訪れる際、必ず馬車を使用していた。

 ヴァレット家本邸は東地区の一等地に建てられている。一方で、ルチアが隔離されている別邸は最も保安機能に優れた北地区の端に位置していた。本邸の使用人の手によって大まかな支度を終えた後、夜明け前にルチアは馬車に揺られて本邸へと移ることになる。一人になれる唯一の機会を見逃す訳もなく、彼女は静かに手のひらの凶器を確かめていた。

「ないよりはマシってところかしらね」

 ルチアがねだれば無制限に与えられる唯一のものがアクセサリーだった。たとえば東の島国の珍しい髪飾りが欲しいと手紙を送れば、数週間後には美しい異国の花を象った珊瑚や水晶の髪飾りが贈られてくる。目論見通り、全て本で読んだように先端が鋭く尖っていた。結婚式にはそぐわないとはいえ、お気に入りの髪飾りくらいなら持ち込んでも咎められることはない。これで胸か腹を突いてしまえば、息の根は止められなくとも逃げることは可能だろう。

 ガラガラゴロゴロ、大仰な音を立てて黒光りする馬車が石畳の上を滑っていく。別邸の使用人が数人、先に本邸に向かっていると侍従から話を聞いた。月明かりを映して運河越しに浮かび上がるのは、新興貴族が辣腕を振るう洗練された街。今は寝静まっているとはいえ、七年間外に出ていないルチアにとっては初めて訪れる場所だった。だけど、ルチアは次第に近付く新鮮な景色には全く興味を示さず、ただ黙りこくったまま到着を待っている。ジッと息を潜めた先にある光を信じて、今は牙を隠していた。

 人口の河で仕切られた四つの地区を繋ぐのは、帝都に散りばめられた大小さまざまな橋である。中でもライラの架橋と呼ばれる石造りの橋は幅も広く、初夏には橋を彩るように水際に咲き誇るライラックの美しさも相俟って、北と東をつなぐ最も主要な架け橋であった。今はガス灯と月の冴え冴えとした光に照らし出され、町全体が孤島のようにぽっかりと浮かんで見えた。

 夜闇の中でも分かるほど、一部の隙もなく漆喰で塗り固められた美しい白い壁、装飾に趣向が凝らされた門。重厚な屋敷ばかりが立ち並ぶ北地区を背に、ルチアの馬車はライラの架橋に差し掛かった。秋の夜長に晒されて、橋は何処か物足りない淋しさを帯びている。雪よりも柔く降り注ぐ光を吸い込んでいく石の欄干を横目で見ながら、ルチアがひっそりと思考を巡らせていた時。

 ガタンという音と共に、車体が激しく揺れた。

「どうなっているの?」

 転倒も覚悟するほどの大きな振動に、流石のルチアも目を丸くした。各地区をつなぐ無数の橋の中には、粗末で不安定なものも存在することは知識として知ってはいた。しかし、ライラの架橋は王都有数の大きさと頑丈さを誇る上に、多くの貴族が通行する要所でもある。危険な箇所があるとは考えにくい。しかし、現に馬車は橋の途中で立ち往生を強いられていた。

「申し訳ありません!突然車輪が破損してしまったようで……」

 泡を吐くように駆け付けた侍従もこの事態は全く予想していなかったようで、戸惑いの表情が隠し切れていない。数えるほどしか使われないから、誰かが整備を怠っていたのかもしれない。ルチアは内心ほくそ笑んだ。

「歩いて向かいましょう。アルバート、案内してちょうだい」

「しかし、ルチア様!」

「待っていても埒が明かないでしょう」

 躊躇いなく言い放ったルチアに、侍従のアルバートは焦り出した。この少女を人目に晒してはいけない。それは、別邸の使用人全員にきつく申し付けられている規則だった。その上、今のルチアは花嫁衣裳の着付け以外は結婚式の支度を粗方終わらせている状態だ。軽率に外を歩かせる訳にもいかなかった。

「すぐに代わりの馬車を手配致します!ですからどうか、そのままお待ちください‼」

「こんな真夜中に代わりを用意できるとでも?そんなことをすれば支度が間に合わないわ。ただでさえ詰め込んだ日程なのに、遅れを出しては伯爵に失礼ではなくて?」

「ですが!」

「行きましょう。アルバート、道案内をしてちょうだい」

 有無を言わせずに馬車を降ると、ルチアはライラの架橋を悠々と歩き出した。

 慌てて追い縋って来たアルバートに導かれるまま、本邸へと足を進める。薄く漂う霧と月光が入り混じった闇を照らすガス灯の下、ルチアは黙って後ろを着いて行った。

(本邸は確か、東地区のかなり北寄りにあったはず。一度北地区へ戻って追っ手を撒いてもいいかもしれない、それなら道順は曲がり角を順に左、右、左……でも今、西地区に接する運河が見えた。橋を使うなり、泳ぐなりして西地区、南地区の方へ渡るのもいい。場合によってはアギリアへ……いや、それは危険過ぎるかしら)

 通り過ぎる風景を目に焼き付けながら絶え間なく思考を働かせる。建物は北地区よりも比較的小規模で、代わりにどの区画も新しく洗練されていた。伝統に則った煉瓦や石造りばかりの北地区と比べて、大陸中央部の華やかな様式を上手く取り入れた屋敷が立ち並ぶ東地区。華美で優雅で、絵画のように美しい。豊かな新興貴族の街らしく、工夫を凝らされた外観はどれも個性が強く、夜の間も目印になりやすい。これなら迷うことも少ないだろう。

 馬車が壊れるのは予想外だったが、ルチアにとってはあまりにも都合がよかった。逃げ出すための算段とその後の身の振り方は散々考えていたけれど、実際にどう逃げるかは全くの手探りだったのだ。東地区の構造も道も、行く道すがら馬車の中で頭に叩き込むしかなかった。それやりはこうやって実際に歩いた方がずっといい。できる限り遠くまで行って、最低でも西地区や南地区、場合によってはアギリアに身を隠してセントリアから出る。そのために、街の構造は知っておく必要があった。

「ルチア様、もう少しで本邸です」

「分かったわ」

 アルバートに声をかけられ、ルチアは思案に沈んでいた意識を無理矢理叩き起こした。勘付かれてしまっては全てが無駄になる。気を引き締めようと内心で拳を握り締めた時、前を歩くアルバートが突然立ち止まった。つられて顔を上げると、髪と揃いのハシバミ色の瞳が戸惑ったようにこちらを見ていた。

「どうかして?もう少しで本邸に着くのではないの?」

「いえ、そのはずなのですが……どうも妙なんです」

「妙って、何か起きているの?説明してちょうだい」

「もう真夜中ですし、この辺りは怖くなるほど静かなはずです。ですが、何やら人の声がするのです」

 焦りを滲ませるアルバートの様子に、ルチアはようやく周囲を取り囲む奇妙な喧噪に気付いた。別邸を出た時点で既に日付は越えていたが、夜明けにはまだ遠い時間帯だ。こんな歓楽街でもない場所に出歩いている人間がいる訳がない。しかし、ヒュウヒュウと吹き付ける風の音に紛れて聞こえるのは、まぎれもなく人間の声だった。

 しかも、もっと奇妙なのは。

 その声は決して一人のものではなく、誰かに話し掛けるような穏やかなものでもなく。

 明らかに大勢の人間が、悲鳴としか思えないような大声を上げていることだった。

「この方向……まさか本邸の方じゃないでしょうね?」

「様子を見て参ります。どうかこちらでお待ちください!」

 焦燥に駆られ、アルバートは慌てて駆け出した。遠ざかる背を見守ると、ルチアも慎重に歩いていく。何が起きているのかは分からない。それでも場合によっては利用できる可能性だってあるのだ。状況だけ確認してすぐに戻ればいい。

 足音を殺しながら、小さくなる侍従の背を慎重に追い掛ける。しかし、ルチアはもう七年もろくに出歩いていない。暗闇の中、どんどん速くなる足取りを必死に追っていくうちに足がもつれ、盛大に転倒してしまう。

「いやね、怪我でもしたら何を言われるか分からないのに」

 仮にも結婚を控えた身だ。本邸で騒ぎが起きているのなら、そもそも結婚式が執り行われるかどうかも怪しい。それでもいずれ逃げることに変わりはないのだ。咎められて、余計な監視を増やすような真似をしたくはなかった。

 今は状況を把握することしかできない。少しでも早く屋敷へ、その一心で起き上がる。

 その瞬間、強い力がルチアの左腕を掴んだ。

「そっちに行ったら死ぬよ」

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