ふるえる覚悟
「ふざけるんじゃないわよ」
ふざけるな、ふざけるな。そればかりが脳内を攻め立てて、今は冷静な思考なんて何処にも残っていない。少しでも刺激すれば砕けてしまう自制を必死に握り締めて、半ば逃げるように階段を昇っていく。ようやく着いた自室に飛び込むなり、そのまままっすぐ大きなベッドに体を預ける。外から施錠される不愉快な音さえ気に掛からないほど、心にぽっかりと空いたままの虚ろがシクシクと痛んだ。
「……レイ、私結婚しちゃうんですって。いやね、もう決まってしまうなんて」
無駄に派手な天蓋をぼんやりと眺めながら、ルチアはポツリと呟いた。湿った声と一緒に瞳から一粒涙が零れて、飴色の床をコロコロ軽快に転がっていく。追い掛けるようにまたコロコロ、コロコロと溢れてやまない涙は冷たくて硬くて、揺らめく炎の色を映していた。
「ねぇ、あなたは何処にいるのかしら」
最後に見たのは、彼の美しい瞳から零れた祝福だった。
七年だ。七年間ずっと、ルチアはレイを想い続けている。
あの頃、ルチアはまだ十歳だった。三つ年上のレイはもうとっくに大人だ。レイはどんな風に成長しただろう。もう、想像することしかできないけれど。
自分そっくりの瞳の持ち主だった母親が、たまたまヴァレット家当主の愛人だっただけなのだ。結果的にルチアは道具として攫われ、世間の目から離すように隔離され、都合のいい教育だけを与えられたまま飼い殺されている。過剰な評判も贅沢な所持品も全て、ルチア・ヴァレットという少女の値打ちを上げるためのもの。そこにはルチアの意思も幸せも、自由だって欠片も存在しない。
それでも、ルチアの心は死んでいなかった。
「ねぇ、レイ。私、ちゃんと生きているわ。悲しみは埋まらないけど、息をするだけで苦しい夜も沢山あったけど、それでも生きているわ。だからどうか、安心していてちょうだいね」
痛くて、痛くて。今だって涙が止まらなくて、顔を埋めた枕の周りには無数の貝の火が散らばっている。クオーレの家にはもう二度と帰れない。だからもう、この世界にルチアの居場所は何処にもないのだ。
でも、それでも諦められなかった。諦めてはいけなかった。諦められない理由があった。
だから、緩やかな地獄の淵で心だけは守り続けた。
従順に、大人しく、無表情の仮面の裏ではいつだって牙を隠していた。誰にも折られないように。決して解かれないように。心が弱れば、きっと真綿で首を絞められたまま殺されてしまう。だからたとえ虚勢でも、何年経っても不屈であれるように。
そうすればきっと、必ずチャンスは訪れると確信していたから。
とめどない涙を軽く拭って、重たい身体をゆっくりと起こす。覚束ない足取りで窓際へ歩み寄れば、鉄格子の隙間から糸のような三日月が覗いていた。
「結婚式は一月後。あの人は覚えていないでしょうけど、私の誕生日になるみたい。ああでも、覚えているからあの日なんでしょうね。誕生日に嫁ぐ花嫁なんて、祝福の子を飼うような人間なら喜びそうだもの。ああ、長かったわ、ようやく……ようやく、チャンスが巡ってきたのね。あとはそう、踏み出すだけだわ」
婚約を告げられた時、心臓が凍り付くような心地がした。張り裂けそうな心が悲鳴を上げるせいで、一歩足を踏み出すたびに赤い涙が床にばら撒かれる。月明かりに反射して煌めく貝の火は何処までも力強くて、今はそれすらも悲しくて仕方がない。
だが同時に、ルチアは決してこの婚約を悲観していなかった。むしろ喜んでさえいるかもしれない。だって、彼女は七年間この報せを待ち侘びていたのだから。
「結婚式の日なら外に出られる。それがきっと、最初で最後のチャンスでしょうね。だから私決めたの。パーティの最中、婚約者を刺すわ。混乱に乗じて逃げてやるのよ」
父親には恨みしかないから、本当はあの男こそ刺し殺してやりたい。でもきっとその時隣にいるのはフィアンセだろう。だから、何の恨みもない強欲なだけの婚約者を選ぶ確率の方が高くなってしまう。それでも、他に方法なんてないのだ。式までの間、きっと花嫁は厳重に監視される。隙を衝いて逃げるのなら、参列者に酒が入るパーティしかチャンスがない。凶器ならもう手に入れてある。ほんのささやかで、頼りなくて、でも喉さえ突ければ確実に殺せるだろう。
声が聞こえる。悲痛で悲惨で、何処までも優しい声が。救いを求めるような声が、血を吐くような泣き声が、強く哀しく希う声が。こびりついたままずっと、離れてくれない。
だから、掴み取らなくてはいけないのだ。手段を選べるほど強くも賢くもなれなかったから、もう振り返らずに進むしかない。
「たとえ手を汚すことになっても、私は自由にならなきゃいけないの。だからごめんなさい、レイ。たとえ解放されたとしても、私はもうあなたの隣には立てないわ。」
レイだけが光だった。暗闇の底で息を潜め続ける七年間を、思い出の中で幸せそうに笑う彼だけが照らしてくれた。レイはずっと、ルチアの一等星であり続けてくれたのだ。
自分が汚れる覚悟はとうに出来ている。だけど、レイだけは綺麗なままでいて欲しい。居場所も消息も分からないけれど、ただ笑っていてくれればそれでいいから。
ああでも。
それでも。
「好きでいることだけは許してちょうだいね」
俯いて下を向いた視線の先で、真っ赤な炎がゆらゆらと揺蕩っている。ルチアの運命石、黄昏と暁の狭間の貝の火。宝石はただ煌めくだけ。慰めることも励ますこともなく、いつだってルチアを一番近くで見ていた。
祝福は宿主の運命を宿しているという。なら、自分の運命とは何なのだろう。
投げ掛けた疑問も仄暗い覚悟も、消せない思慕も、夜の帳だけが知っていた。
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