鳥籠の婚約

 時折、死んでしまったような感覚に襲われる。似たようなものかもしれない。閉じられた穴の底でただ息を吐き出すだけの生き物を、生きているとは到底言えないだろうから。

 日も今日とて固く閉ざされたまま扉を一瞥し、ルチアは何度目かの溜め息を零した。心が腐っていくような生活は、一体どれだけ続いていくのだろう。

 寝室はそれなりに広く、家具も全て上質なものを与えられている。衣装部屋には流行のドレスが押し込まれ、彼女専用の書斎まで設置されていた。でも、それだけだ。外に出ることは許されない。三つの部屋だけが窮屈なルチアの世界だった。

 衣食住に事欠いたことはない。だが、全ては予め用意されたもの。ルチアの意思はないものとして扱われていた。

 聖夜祭の日の悲劇から七年。五歳から孤児として生きてきたルチアは、セントリア随一の宝石商の末娘として養育されていた。

 生後僅か五カ月で母に連れられて失踪し、現当主が方々を探し尽くした末に小さな孤児院でようやく見つけた愛娘。その溺愛ぶりには果てがなく、わざわざ専用の別邸を与えてまで大切に守っているのだと言う。

 孤児として虐げられながら、慈悲深い富豪の父親に恵まれた幸運な少女。高嶺の花よりも厳重に愛され守られる、麗しきヴァレット家の至宝とは彼女のことだった。

 しかし当の少女は、鉄格子が嵌った窓をジロジロ眺めて忌々しげに呟くだけだった。

「ヴァレット家の至宝とはよく言ったものね。所詮は単なる籠の鳥じゃない」

 眉をひそめて呟いた愚痴も、結局誰にも拾われずに消えていく。外を眺めようと窓に目を向けても、鉄格子が邪魔で気が滅入るばかり。面白くなさそうに手元の本をベッド目掛けて放り投げると、ルチアはもう一度大きく息を吐き出した。血縁上の父親は自分の価値を上げようと必死になるあまり、わざわざ別邸という名の鳥籠まで拵えて囲っている。それでもルチアは声を上げることも、鳥籠から出ようと足掻くこともしなかった。七年間ずっと息を潜めて、か弱くて従順な乙女として生きている。

 窓から差し込む黄昏の光が、物憂げに沈む横顔をそっと照らし出した。亜麻色の髪と白皙の肌、人形のように細い四肢。何よりも目を引くのは、西日を浴びて燦然と煌めく赤。それも、紅玉ルビィ柘榴石ガーネットとは全く異なる、世にも不思議な色だ。内側からゆらゆらと燃え盛る炎のように光を放つ瞳は、この世のものとは思えない不思議な硬質さを孕んでいる。

 静寂に包まれた部屋の中。しかし、不意に乾いた音が小さく響いた。

 コンコン、コン。

 扉の向こうでノックが三度。食事が運ばれる時間にはまだ早い。恐らく何かあったのだろう。大して興味も湧かないからいっそ早く寝てしまいたいけど、こっちの心情なんて汲み取られたことは一度もない。

「失礼致します、ルチア様。お迎えに上がりました。御当主様がお呼びです」

 無機質に告げられた用件に、ルチアは思わず机に突っ伏した。ヴァレット家当主、つまりはルチアの血縁上の父親。七年前に誘拐同然に連れて来た挙句に、こんな窮屈な鳥籠にポイっと放り込んだ張本人だ。会いたい道理は何処にもない。

 だが、ここで要求を突っぱねる訳にもいかないのだ。他でもないルチア自身のために、世界で一番嫌いな男に会わなければならない。

「少し待っていて」

「畏まりました」

 口調だけは慇懃でも、扉の向こうの使用人はそれ以上のことは何もしない。ルチアも彼女を部屋の中に招き入れようとはしなかった。朝目覚めてからろくに梳いてもいなかった髪を結い、申し訳程度に濃紺のベルベッドリボンで飾る。ドレスは続き部屋のクローゼットの中から比較的地味で上品なものを。どうせ全て管理されているのだから、何を着てもそう変わらないのは分かっている。それでも、最低限胸を張れるだけの虚勢は保っていたかった。

「鍵を開けてちょうだい」

「はい、ただいま」

 ギイギイと重苦しい音を立てて開いた扉の先で、案内役の使用人が静かに頭を下げていた。ルチアの部屋に一日三回訪れ、食事や言伝を渡しては去っていく若いハウスメイドだ。さっさと外に出て歩き始めたルチアの半歩後ろを歩く彼女はいつも無表情で、幽霊のように静かすぎる立ち居振る舞いが少しだけ苦手だった。

「お父様がこちらにいらっしゃるなんて、随分と珍しいこと。いつも伝令を寄こすだけなのに。貴女は何か聞いていないの?」

「いえ。ですが、とても重要なことであるとは伺っております」

「そう。まあ予想はつくわ」

 ついに『売却先』が見つかったのか、それとも別の利用方法でも思い付いたのか。いずれにせよ、わざわざ訪ねて来るだけの用はあるのだろう。

「お父様もお疲れでしょうし、早くお会いしてしまいましょう」

 お父様だなんて呼びたくもないけれど、名前も知らないのだから他に呼びようもない。父親に興味は毛ほどもないが、機嫌を損ねても困るのだ。目も耳も塞がれたまま、与えられる物品と教育だけは貪り尽さねばならない。情も義理も、愛もない。それでも、従順に振る舞う理由があった。

 長い廊下をせかせかと通り抜け、曲がりくねった階段を降りていく。ルチアと数人の監視役兼使用人だけが暮らすこの別邸はささやかな造りで、部屋数も多くはない。一方で逃亡防止のためか構造はやたらと複雑で、ルチアの私室は門から最も離れた屋敷の奥にある。無駄に遠い道のりを静々と進んだ先で、辿り着いた目の前の扉が音も立てずに開かれた。

 途端に、眩しい白と僅かな茶色で埋め尽くされた空間が眼前に広がる。瀟洒なシャンデリア、凝った細工が施されたテーブル、黒檀の脚以外は純白で誂えられたソファに安楽椅子。窓際に飾られた薄紅色のダリアだけが唯一の色彩で、普段部屋に閉じ込められているルチアが一等気に入った季節の欠片だった。

 目眩がするほど清潔な客間の中央で、初老の男が安楽椅子に凭れていた。

 白が混じった焦げ茶の髪、少々派手なウエストコート姿。ルチアをジロジロと見定める両目も焦げ茶で、言われなければとても肉親だとは思えない。

「お久しゅうございます、お父様。本日はどうされましたの?」

 口上を淡々と述べるルチアの声は低く這い回り、高い天井に木霊する音は氷のように冷たい。男の方もルチアを見ているようで、彼女自身には決して目を向けていなかった。ただ容姿に衰えはないか、瞳の光に陰りはないか。石の状態を見極めるのと全く同じ視線を浴びせるのみで、彼女に優しい言葉の一つも掛けることはない。父娘という関係が結ばれてから七年、二人の間に温もりが存在したことは一度もなかった。

「お前の婚約が決まった」

 抑揚の乏しい宣告を受け止め、ルチアは僅かに目を見開く。しかし瞬きの間に元の無表情を貼り付けると、同じような無機質さを孕んだ動作で首肯した。

「そうですか、承知致しました」

「相手はロディ伯爵だ。お前の祝福を所望されている」

「貝の火がお気に召したのですね。承知しました。光栄ですわ」

 心にもない言葉を紡ぎながら、ルチアは内心で大きな溜め息を吐いた。ロディ伯爵家は古くからの名家ではあるが、時代の流れに着いて行けずに斜陽になりつつある家でもある。当代の伯爵はルチアより二回り歳上だ。父親も婚約相手も、いっそ清々しいほどルチアを金蔓としか見ていない。

 暁の光のように眩く、黄昏の光のように奥深く、燃え盛る炎のように揺らめく。宝石のように内側から硬質な光を放つルチアの瞳は、『運命石の祝福』と呼ばれる特別なものだった。

 運命石の祝福。それはステラリア島の民にごく稀に宿る神秘の力だ。

 運命石の祝福を宿す人間は『祝福の子』と呼ばれ、古い文献や神話では星のいとし子とも称される。

 極々稀な確率で生まれる祝福の子は、美しい宝石を瞳に宿してこの世に産み落とされる。

 神話の時代より、運命石の祝福は神に愛された証とされ、ヴィアラントでは祝福の子を特別視する風習が根強く残っている。ヴィアラントを統べる王族や四つの大公家の当主も、例外なく全て祝福の子で構成されているほどだ。

 ルチアの赤い瞳は、貝の火と呼ばれる希少な宝石を宿している。乳白色の結晶の中に七色の中に七色の光を閉じ込めた蛋白石オパールと同種の、この世の情熱を封じ込めたような鮮烈な石。

 貝の火の鉱山はステラリア島に存在せず、採掘される量も少なくいせいで希少性は高い。そのため、ルチアはヴァレット家にとって有益な相手を繋ぎ止めるための駒として囲われてきた。

「伯爵は一日二度、お前の涙を採取したいと仰せだ。そうすれば大公家にヴァレットの陞爵を打診すると約束してくださった。子爵家となれば上院の議席、上手くいけば普代貴族のように領地も賜れるかもしれん」

 冗談じゃない。咄嗟に握り締めた左手を背中に隠しながら、ルチアは油断をすれば歪んでいく表情を必死に凍り付かせていた。

 祝福の子が特別視される理由は瞳の美しさと、流される涙の特異性にある。祝福の子が流す涙は空気に触れると瞬く間に凝固し、瞳と同質の宝石に変わるのだ。『運命石』と呼ばれる宝石の涙は特別な価値を持ち、鉱山で採掘されるものと比べて破格の高値が付けられる。

 一日に二度、貝の火を生み出すためだけに嫁ぐのか。

 屈辱と怒りが膨れ上がって、小さな心はあっという間に覆い隠されてしまいそうになる。でも、そんな感情ばかりに支配される訳にはいかない。

「承知致しました」

 自分を売り飛ばす男の前で、誰が嘆いてやるものか。叫び出したい心臓を押し退けて、ルチアは乾いた唇をそっと噛み締めながら前を向く。曲げられない定めなら、今ここで無様な姿なんて見せてやる訳にはいかない。

 泣きもせず、動揺すら表に出さなかったルチアを面白くなさそうに一瞥し、男は念を押すように七年間呪いのように言い続けた文言を紡いだ。

「お前も知っているだろうが、現在の法は祝福に関する全ての売買を禁じている。だがそれは表向きに過ぎん。祝福によって生み出される宝石は極上品だ。高貴な人間ほど祝福を貴び、傍に置こうとかき集める。お前はそのためだけに磨かれた、ヴァレット家の宝なんだ」

 この国において、祝福の子とは高貴で貴重な家畜である。

 身分の高い人間ほど祝福の子を欲する。時代によっては、より希少価値がある運命石の祝福を求めて、錬金術の名のもとに人体実験が行われた事例だってあるのだ。時代が下った現在のヴィアラントでは運命石、及び祝福の子の売買は禁じられているが、状況はほとんど何も変わっていない。祝福を宿す娘は特に、貴族の側室や妾として破格の価値がある。だから父親はルチアを囲い込み、閉じ込めて生かし続けたのだ。反吐が出るような話に荒む思考を宥めながら、ルチアはドレスの裾をそっと摘まんだ。

「分かっております。御家のため、尽くしてご覧にいれましょう」

「式は九月三十日、正午より本邸にて執り行うことになっている。前日のうちに本邸の者を向かわせるから、お前はできるだけ身なりを整えてから来い」

「承知致しました」

「必要なものは全てこちらで手配している。お前は何も考えずに待っていればいい」

「ええ、分かっています」

 相変わらずルチアの意思など欠片も考えられていない。ドレスの趣味くらい、本人の希望を聞いたって罰は当たらないだろうに。七年間餌付けのように与えられ続けたドレスの山が、記憶の中で一層くすんでいく。

 もう用はないと言わんばかりに目を背けた男の無関心な様子に、ルチアはこっそり肩を竦めた。これ以上この男と同じ空間に留まっていたくはない。気が狂ってしまわないうちに、とっとと部屋に籠もってしまいたかった。

「御用はまだございますか?ないのならもう下がらせていただきます。それでは失礼いたします」

 せめてもの礼儀として、踵を返す前に形式的に頭を下げた。呼び止められないのをいいことに、ルチアはろくな見送りもせずさっさと部屋を出る。振り返らずに進み続ける彼女の背後で、重厚な扉が微かな音を立てて閉められた。

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