星降る街のパトリオット

綺月 遥

賽が投げられた日

 その日は朝から快晴で、せめぎ合う青からしんしんと雪が降っていた。凍る前のかたまりをそっと拾い上げて、彼女はふわりと微笑んだ。

「レイ、こっちよ!たくさん積もってるわ!」

 小さな孤児院の狭い庭も、冬は夢のように綺麗な白で敷き詰められる。ふわふわした轍の上をゆっくりと踏みしめながら、レイと呼ばれた少年は大きな瞳を嬉しそうに瞬かせた。

「ねぇ、すごいよルチア!白い聖夜って本当なんだね!」

 今日の空よりも綺麗な目を真ん丸に見開いて、まるで珍しい花でも見つけたかのようにはしゃぐレイ。ひらひら舞い落ちる雪に手を伸ばして、飛び跳ねてしまわないのが不思議なくらい目を輝かせている。その様子がなんだかおかしくて、ルチアはつい吹き出してしまった。

「どうして笑うんだよ……」

 拗ねたようにこちらを向いたレイに、ルチアはまた手を叩いて笑った。赤くなった頬と、雪よりもきらきらと潤んだ両目。このセントリアでは雪なんて珍しくもないのに、小さな子供よりも楽しげなレイはとても可愛らしくて、でもやっぱり変だと思った。

「だってあなた、とっても嬉しそうなんだもの。聖夜祭の日に雪が降るのは普通なのに」

「仕方ないじゃないか。僕は初めて見たんだから」

 いつもより小さな声、そっと伏せられた淡い青紫色の目。ルチアにはレイが嘘を吐いているようには思えなかったけれど、白い聖夜を見るのが初めてだなんてとても信じられなかった。グランディア大陸と周辺の島々で祝われる聖夜祭は、一年で一番日が短い日に光を呼ぶためのもの。雪が降らない地方の聖夜はモミの木の色を例えて緑の聖夜と呼ぶらしい。しかし、ルチアたちが暮らすヴィアラントが属するステラリア島は地図の上でも北の方だから、白以外の聖夜なんてありえない。

「なら、レイの知っている聖夜は何色だったの?」

 からかうようにルチアが尋ねると、レイは不意を衝かれたように黙り込んだ。そうして顎に手を添えて、何やらジッと考え出す。伏せられた睫毛は驚くほど長くて、真っ白な頬も黒檀よりも黒い髪も、一枚の絵のように綺麗。でも一等綺麗なのは、昼と夜のあわいを溶かし込んだような青だった。勿忘の花によく似た、世界で一番眩く煌めく青紫色。それが神様から愛された特別な色であることを、ルチアだけは知っていた。透明な瞳がゆらりと揺れて、顔を上げたレイがルチアの方に向き直る。揺れる宝石は何故か少し哀しく見えた。

「茶色と灰色。時々赤が混じって、あまり綺麗じゃない」

「何それ、変な聖夜ね。信じられないわ」

「本当だよ。聖夜じゃなくても、僕のいるところはずっとそうなんだ」

 それはルチアが知らない世界だった。どんなものなのかまるで分からないけれど、レイが悲しそうに笑うから、ルチアもきっと綺麗だとは思えない。だから、ルチアは冷たく悴んだレイの手をそっと握った。

「なら、あなたのところに連れて行って。だって赤は私の瞳の色だもの。綺麗じゃなくても、二人ならきっと好きになれると思わない?」

 ルチアはここに住む孤児だけど、レイはそうじゃない。随分前から入り浸るようになった他所の子だ。何も言わずにふらりと現れて、ほんのちょっぴりルチアたちと遊んで帰っていく。ルチアや小さな子どもたちのおしゃべりは目を輝かせて聞いてくれるけれど、自分のことは何も話さない風変わりな男の子だった。一番一緒にいるルチアにさえ、彼が自分よりも三つ年上なことくらいしか話してはくれない。何処から来たのかも、誰と暮らしているのかも、誰にどれだけ問われようともレイが口にすることはなかった。

知らないから、知りたい。

ただそれだけなのに、レイは難しい顔で首を振る。

「ダメだよ。君はここにいなくちゃ」

 諭すようなレイの口ぶりに、今度はルチアが拗ねて唇を噛んだ。

「何よ、私じゃ不満なの?」

「そんなこと言ってないだろ!」

 思わぬ展開にレイは慌てた。そんなことを言わせたかった訳じゃない。ただ、レイにも譲れないものがあっただけだ。

「君の赤とは全然違う。君の赤は綺麗な夜明けと黄昏の色だけど、僕が知っている赤はもっと暗くて冷たい。だから、君は来ない方がいいんだ」

「でもあなた、自分の住んでいる場所は嫌いじゃないって言っていたじゃない」

「好きだよ。守りたいとも思っている。でも君は来ちゃいけない」

 淋しさの欠片をひとつだけ落として、それきりレイは口を噤んでしまう。こうなったレイは頑固だ。だからルチアは、俯いて黙りこくったままのレイの手を取って立ち上がった。

「悪かったわ。もう行きましょう。マザーのケーキを食べそこなうのはいやでしょ?」

 レイの瞳から憂鬱がパッと弾けて消えていく。

 院長のマザー・オリヴィアはとても厳しい人だ。外からふらりと遊びに来るレイを睨み付けたり、お祈りに遅れそうになったルチアを叱ったり。代わりに子どもたちを甘やかすのは若いシスター・グレースの役目だった。でもルチアのような年長の子どもたちとレイは知っている。シスター―が優しく取り分けてくれるお菓子は全て、マザーの手作りなのだ。

 マザーの作るケーキは温かくて柔らかくて、夢みたいに軽くて甘い。レイは両目をキラキラ輝かせながらルチアの右腕を掴んだ。 

「早く行こうよ!」

「もう、引っ張らないでよ!」

 文句を言いながら口元を綻ばせるルチアの手を引いて、レイは雪の降る広場を駆けていく。白雪に刻まれた足跡の先に、小さな孤児院の礼拝堂が見えた。聖夜祭の日は毎年、礼拝堂でお祈りをした後に全員でケーキを食べることになっている。お祈りの時間まではまだ時間があったから、子供たちはまだ誰も集まっていない。代わりに簡素な正装に身を包んだ美しいシスターが、ルチアたちを見つけてふわりと微笑んだ。

「あら、レイは今日も来てくれたのね。ルチアも寒くはない?風邪を引いたらいけないわ、早く礼拝堂に入ってしまいなさいな」

「はーい。ほら、レイも!」

手招きするルチアとは対照的に、戸惑ってしまったレイにシスター・グレースは笑いかけた。レイが孤児院に通ってくるようになってから、今日が初めての聖夜祭だ。もしかしたら、よそ者だからと遠慮してしまったのかもしれない。

「レイも入りなさいな。外は寒いわ。それに、聖夜祭のケーキは特別なのよ。ルチアが大好きなチョコレートも少しだけど入れて、マザーが心を込めて作ってくださったの」

「チョコレートですって⁉いいの?高級品なんでしょう?」

「いいのよ、せっかくのお祝いですもの」

 ルチアの目がきらきらと輝いた。海の向こうの隣国アストレアから渡ってくる舶来品。つやつやした茶色の塊は口に入れた途端とろりと蕩けて、夢みたいに甘いのにほんの少しだけほろ苦い。以前貴族の慈善活動で一度だけ振る舞われて以来、何年経っても忘れられない味だった。

「レイも来るでしょう?そういえば、あなたがいる聖夜祭は初めてね」

「うん。何をすればいいの?」

「みんなで神様たちにお祈りするの。そのあとケーキを食べながらお喋りして、ちょっとしたパーティみたいなこともするのよ」

「……!すっごく楽しそう!」

「ふふ、まずはお祈りからよ」

「……僕がいてもいいの?」

 何処か必死に、何故か切なく歪んだ青紫色に見つめられ、シスター・グレースは思わず一瞬黙り込んだ。レイの瞳に映し出された光には、幼い彼には不釣り合いなくらい深い不安が滲んでいる。だから、安心させるようにレイの柔らかい黒髪をくしゃりと撫でた。

「いいのよ。神様は全てを受け入れてくださるわ」

 孤児院は神の家。神々の加護を賜り、行き場のない子供たちに恵みをもたらす。レイが何処から来ていようと、聖夜は皆で祈るべきものなのだから。

「う、うんっ!」

 目を輝かせて顔を上げたレイに、ルチアが安心したように微笑んだ。そんな二人を見守りながら、シスター・グレースは二つの小さな手を取って礼拝堂へ歩み出す。切り取った絵のように、世界で一番幸せな聖夜祭だった。

 しかし、平穏な日々は雪崩のようなもの。突然崩れて、何もかもを奪い去ってしまう。

 その日は朝から快晴だった。凍て付くように凛と張り詰めた空の下、止まない雪はくっきりと足跡が出来るくらい分厚く積もっている。

 だから、忍び寄る足音が聞こえなかった。

 ようやく気付いた時にはもう遅い。

 死角から現れた大柄な男が二人、ルチアの細い腕をがしりと鷲掴んだ。

「……ッ⁉」

 万力で握られた腕がおかしな方向に捻じ曲がり、ギリギリと耳障りな音を立てる。痛い、やめてと本能が泣き叫ぶ。だけど、同じくらい強く湧き上がった恐怖がそれを許さなかった。声にならない叫びがヒュウヒュウと、喉奥から意味もなく漏れ出て消えていく。

 生まれて初めて、心の底から怖いと感じた。

「あなたたち!どういうつもりですか⁉ここが神の家と知っての狼藉ですか⁉」

 シスター・グレースが声を荒らげる。どんな時でも穏やかな彼女が大声を出すのは、きっとこれが初めてだ。視界の端ではレイが何とかルチアを助けようと、小さな体で懸命にスカートを引っ張っている。そんなに強く掴んだらお気に入りが伸びちゃう。いつもなら文句を言うけれど、必死に力を振り絞るレイにそんな言葉はぶつけられない。でも、どれだけレイが縋り付いてくれていても、掴まれた右腕は不気味なくらい動かなかった。

「お迎えに上がりました、ルチア・ヴァレット様」

 黒で覆われた男のうち、一人がゆっくりと口を開く。聞き慣れない名前で呼ばれ、ルチアは思わず固まった。ルチアは捨て子だ。物心つく前に孤児院の門の前に置き去りにされている。ヴァレットなんて家名は聞いたことすらない。しかしシスター・グレースは違ったようで、大きな栗色の瞳が零れ落ちそうなくらいに両の目を見開いていた。

「ヴァレットですって?この子が、私たちのルチアがヴァレット家の人間だって言うの?」

 鈴を転がすような声に鮮やかな怒りと焦燥が混じる。常に優しく垂れていた眉を引き上げ、シスター・グレースは掴みかからんばかりの形相で男たちに詰め寄った。

「お前らのではない。ルチア様はヴァレット家現当主の落胤だ。早急に引き渡せ」

「いいえ!たとえ彼女がヴァレット家の血を引いていたとしても、本人が望まない限りは決して渡さない。それにあの家には黒い噂だってあるじゃない、そう簡単に信用する訳にはいかないわ!まずはマザーに掛け合ってくださいな!」

 毅然とした態度で言い切り、きつく睨んだ視線を外そうとはしない。そのまま男たちの方へ距離を詰め、レイの手に重ね合わせるように後ろからルチアを抱き込む。その強さも厳しさも普段の温和な笑顔からかけ離れていたけれど、ルチアの目に映る彼女は惚れ惚れするほど美しかった。レイはポカンと口を開けたまま呆然としている。でも、シスターの言葉に突き動かされたように、精一杯声を張り上げて叫んだ。

「ルチアは何処にも行かない!このクオーレの家がルチアの居場所だ、お前たちの好きになんてさせて堪るか‼」

 冷え切った頬を真っ赤に染めて、連れ去られるように手を引かれたルチアに全身全霊でしがみ付く。いつも無邪気で優しいレイの必死な姿に、ルチアはただ驚くことしか出来なかった。

どれだけ必死に縋り付いても、所詮は大人と子供の綱引きだ。ルチアの体はどんどん門の方へと引っ張られていたし、レイも半ば引き摺られつつあった。シスターの焦りも募っていく。だから、彼女は助けを呼ぼうと声を張り上げた。


 腕力では叶わない。だから、人を集めようとした。

 彼女の判断は正確だった。誤りだと詰るのはあまりにも酷だろう。

 しかし、結果的にはその行動が運命の分かれ道となってしまった。


「誰か‼誰か来てください!子供たちが攫われてしまいます‼」

 聖女然とした若い乙女が、涙ながらに助けを求める。物語のような一幕だった。だからこそ、男たちの方も焦燥を募らせ始めていた。人が集まるほどに分は悪くなっていく。それが理解出来ないほど、彼らも愚かではなかったのだ。

 重ねて言うが、彼らは愚かではなかった。むしろ、シスターの方が短絡的でさえあったかもしれない。

 手段を選ばざるを得ない人間と、そうでない人間の区別を付けられなかった。それが彼女のミスであり、この場においては最悪のトリガーになってしまった。

「騒がれては困る。仕方ない、黙らせるか」

 刹那、火薬が爆ぜる音が虚空を裂いた。

 ドンッ、ドンッ。

 耳に突き刺さる重厚な音は二度続いた。直後、シスターの口から獣のような咆哮が放たれた。ダラダラと零れて真っ白な雪を染め上げる紅をルチアが見つけた時には、シスターが撃たれてからきっちり五秒経っていた。ドサリと重い音がして、シスターの全身が雪の上に倒れ込む。右腕は完全に千切れ、脇腹にも風穴が空いていた。

「シスター……‼」

レイの心臓が凍り付いたのと、男たちが白煙を吐き出す鋼の筒を仕舞い込むのはほとんど同時だった。

「……どう、して……?ねえ、どうして、どうして、シスターを」

 凍り付いた喉から零れ落ちた囁きは誰にも届かず、白銀の世界に虚しく溶けた。

呆然と呟いたルチアの口を男が慣れた様子で塞ぐ。その傍らで、シスターの華奢な身体をもう一人が容赦なく蹴り飛ばしていた。失血と衝撃で糸が切れたように目を閉じてしまった彼女を、男は路傍の石でも眺めるように見定める。ついでに意地だけで縋り続けていたレイを蹴って無理矢理引き離すと、男たちはルチアをまるで荷物のように脇に抱え込んでしまった。

「死んだか?」

「さあな。どうでもいい。早いとこ娘も黙らせるぞ」

 ルチアを持ち上げている男が懐から端切れを取り出した時、地面に転がされながらもレイは必死に手を伸ばしていた。男が何をしようとしていたのか、レイにはよく分かっていたから。

 でもどれだけ足掻いても抗っても、小さな身体は悲鳴を上げるだけ。彼の悲痛な叫びを叶えてくれる存在は、この世界の何処にもありやしなかった。

「やめろ!ルチアを離せ‼」

 何度蹴られても、何度地を這っても諦めない。大好きな人が泥に塗れているのに、ルチアは何もできないのだ。口元に押し当てられた端切れから漂う甘い匂いに充てられて、視界がぼんやりと霞んでいく。やがて泥のように沈み込む意識の底で、言葉だけが零れ落ちていた。

「レイ……だめ……あなたはにげて」

「ダメだ、ルチア!ダメだ、君はこの家で、このままずっとしあわせに、」

「だいすきよ、だから、あなたは、にげ……」

「いやだ、やめてくれ、ねぇ、いかないで、」

 ああ、あの子が泣いてしまう。拭ってあげたいのに、もう手足は動かない。

好きだった。大好きだった。ずっと一緒にいられると、明日も笑っていられると信じていた。

どれだけ希っても、どんどん遠ざかっていく。

 ああ、もう間に合わない。

 消えていく視界の端で、世界で一番美しい青紫色がポトリと落ちた。

 

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