落日の眩耀 / 望郷

麻生 凪

決して来ない時

 また同じ夢を見た。

 不思議なことに夢の中に居ても、夢を見ているという意識がある。夢と認知して見る夢というものは、大抵が、日常との違和感を察知したときにそう気付くものだが、私は夢の世界に入った瞬間からわかる。

 落日が枯れ葉を透かしながら山々に漆黒の訪れを告げていたあの峠に、どのような経路で辿り着いたかなどはどうでも良いことだ。ただ、遠い昔、 子供の頃から脳裏に焼き付けられていたのか、初めて見る景色ではなかった。

 山道には枯れ葉が積もり、踏みつける度にガシャグシャと音をたてた。場所によっては膝近くまで埋まるほど落ち葉が積もっているため、歩みは慎重でやけに重い。気を付けなければ、底に貯まった水気のある枯れ葉に足をとられて滑りそうだ。

 下って行くと右手に大きな白樺があり、それを過ぎると脇道があった。入り口には、風と雨水にやられたのか、やけにいびつな顔つきをした地蔵が立っていた。木々のあいだから差し込む夕日に照らされた地蔵の影は脇道に沿って長く伸び、その影に導かれるまま私は道を逸れて行った。ゆったりと右にくねる、勾配の浅い下り坂は手入れがされていて、葉や枯れ枝はまったく落ちていない。先には平屋が一軒建っていた。平屋の裏は断崖なのか、西陽に照らされた雲がオレンジ色に耀き、遠くの山々迄見渡せる。山に映る陽は徐々に暗闇に支配され、上空に星々がうっすらと姿を現し始めると、私は急に不安になり、来た道を振り返った。

 そこには女が佇んでいた。背中越しの夕陽が眩しくてその人の顔がわからず、手のひらで光を遮りながら細目で凝らすとわずかに唇が動いていた。何か話し掛けている様子だ。なんですかと声を掛けても返事がない、じっとこちらを見つめている。私は少しいらつきを覚えながら一歩踏み出した。女が消えた。刹那、人差し指と中指の間から西陽がもろに突き刺さり、目を閉じると瞼には朱色の楕円が広がる。そして徐々に焦点があってくると、それがデジタル時計の表示だと気づき、目覚めたのだと理解する。

 あの景観。……そうかあれはこどもの頃に遊んだ裏山、松崎町の高通山だ。冬になると険しく細い山道は枯れ葉で埋め尽くされ、道の窪みに貯まった枯れ葉の中に飛び込んで、遊んだ記憶がある。小一時間程かけて登って行くと展望台に着く。逢魔が時、そこから見える雲見海岸、急傾斜で立ち上がる烏帽子山、千貫門の彼方に控える富士山。そしてなによりもこれら一大パノラマの奥、駿河湾の水平線に沈む夕日がこどもながらに素晴らしく思えたものだ。たぶん、デフォルメされたその景色が夢に出てくるのだろう。だが、裏山には地蔵はないし民家などなかった。白樺が自生する環境でもない。しかし、それこそが夢の夢たる証し。全ては、脳の記憶がクロスオーバーして創られた世界なのだと納得はできる。が、平屋の家には何があるのか。そしてあの女性は、私に何を話したのか……

 今夜こそ夢を進ませなければならぬ。謎が解けさえすれば、こんな奇妙な夢は見なくてすむはずだ。


 落日の山道、見た夢の足跡を辿るように慎重に進む。

 一本の白樺、歪んだ顔の地蔵、手入れされた小道……よし。崖の手前に平屋が見えた、不安はない。

 綺麗だな……。玄関ドアの上部にはステンドグラスの細工が施され、室内の灯りが漏れている。ガラス細工の赤い花、真っ赤な彼岸花を模しているようだ。

 これは漆喰なのか、床も壁も天井も全て塗り尽くされている。ふと松崎が生んだ偉人、入江長八の名を思い出した。古の左官職人、長八美術館が建てられた昭和五十九年、娘が生まれた。

 ん……、風が入る気配を感じた。振り返ると、黒い喪服を着た女がステンドグラスのドアの前に立っている。白の中に浮かび上がる黒衣の女、山道のあの人だ。どこかしら若き日の、出逢った頃の妻に似ている。また、なにかを話している。悲しげな眼差しでゆっくりと、同じ言葉を何度も繰り返している。

「お前なのか? なぜここにいる」

 問いかけても反応がない。いや違う、私の声そのものが出ていない。彼女のように唇だけが動いている。音のない世界なのか……

 何を見ている。私を越した彼女の視線の先にはいつ現れたのか、奥の壁に大きな絵画が飾られており、横に真っ黒なドアがある。

 初めて見る絵ではない。絵画の下には作品の題名が記されている。決して来ない時……そうだ、妻と行った絵画展で見たことがある。確かフランスの画家だ、バルテュスと言ったか。バルテュスの絵には少女が描かれた作品が多い。なぜ少女を描き続けるのかについて、それがまだ手つかずで純粋なものだから。と、答えたのが印象深く、記憶に残る。

「決して来ない時」

 椅子に浅く腰掛けて片足を投げ出し、上半身を反り返らせるような不自然なポーズで眠っている少女。その奥にいるもうひとりの少女は、大きな窓から遠くを見つめている。窓からうっすらと差し込む陽は、その絶妙な色彩により、観る角度で朝陽にも夕陽にも想起させる。それは、観る者のその時の感情により左右されるのか、私には、夕陽にみえた。

 椅子に腰掛け微睡む少女。窓の外を見つめているのはその少女自身ではなかろうか。今、この瞬間、過ぎ去っていく時間は決して後戻りすることは出来ない。逢魔が時、夢の中の少女には窓の外に何が見えたのか、決して来ない時を愁いでいるのか。幼い頃の娘の面影が脳裏をよぎる。どういう訳だかこのまま、この絵をずっと観ていたくなった。しかし、夢を終わらせねばならぬ。黒いドア。多分これが最後のステージなのだろう。これで終わりにしよう。


 ドアを開けると朱色の世界が広がり、その耀きに目が眩む。思わず膝をついてしまった。

「私たちは大丈夫、どうぞ休んで下さい」

「さようならお父さん、今までありがとう」

 どこからか微かに妻と娘の声が聞こえた。


 そういうことか。随分と、ながい夢をみたものだ……

 落日の温みに包まれながら、私はゆっくり目を閉じた。安らぎと共に、全てが静かに消えていく。


・・・・

ショパンノクターン 遺作

https://youtu.be/WrrLraHKvZs?si=nZ_Ys6lcntZM9YTX

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