第5話 矢合わせ

「起きんとか、今からいくさど!」


 能虎が声を張り上げると、いびきをかいていた侍たちは、一斉に跳ね起きた。すでに払暁である。まだ空は夜の黒を濃く残していたが、空の端が薄紫色になっている。

 陣屋が騒然とし始める。鎧を身につけ、武器を用意する武士たちや、馬を曳きに厩へ走る郎党たち。下女たちが腰兵糧こしひょうろうを炊く匂いも漂っている。


「え……」


 いねはさすがに眼を覚ましたが、誰もいねを気にする余裕もなく、ばたばたと床を踏みならして戰の準備をしていた。そうしているうちに、準備のできた者から陣屋の外へと飛び出していく。

 静かになった屏風の向こうから、能虎の達磨顔がぬっと顔を出した。


「なら、行ってくるけんね。万が一異賊ば来よったら、飯炊きの婆っぱと一緒に逃げなっせ」

「うん……怪我ば、せんごと神さんにお願いばしよるけん」


 そう言われた能虎は、ちょっと驚いた顔をした。


「ぬしゃ、ちゃんと喋れるやなかや」

「ん……」


 いねは、硬い表情でうなずいた。能虎は、にっと笑って兜をかぶり、庭へと降りていった。

 庭は、能虎が率いてきた菊池一族の郎党であふれていた。しかし、これでも全軍ではない。菊池一族すべてを束ねているのは、当主の菊池次郎武房たけふさだった。


 能虎は騎乗し、武房があらかじめ指示した集結地へ前進を命じた。続くのは、騎馬が十騎とそれを補佐する郎党が四十名ほどの、約五十名の部隊だった。

 竹矢来たけやらい逆茂木さかもぎで固めた防御陣地の前に出る。菊池一族が、鎮西総司令官の小弐資能しょうにすけよしから命ぜられたのは、赤坂一帯の防衛線の確保だった。

 干潟に近い赤坂は、湿地が多く戦闘に適した地域は限られている。その中の数少ない野原に、すでに二百騎以上の軍勢が集結していた。


「能虎、早う来んね」


 暁の原野に、凜々とした若者の声が響く。


「やれんばい。おいどまがどべこす最後たい。殿が呼んどらす」


 能虎は苦笑して、馬の腹を蹴り部隊を急がせた。本隊に合流すると、騎馬と郎党合わせて千人以上の武士たちの前に、葦毛あしげの馬に乗り赤糸縅あかいとおどしの鎧に大薙刀おおなぎなたを提げた、若々しい武者が立っていた。菊池武房である。


「こいで揃うたな。よかか、百道原ももちばるから異賊の来たど」


 軍勢から勢い込んだどよめきが起こる。百道原とは、赤坂から北西の槌型をした半島のことである。 


「物見の話だけんが、異賊の船ば海を埋め尽くすほどだげな。今津と息の浜、箱崎、ほんでここ百道原に分けて進みよる。太宰府ば目指しよるんやろう」


 今津は、能虎がいねを発見した海岸である。受け持ちは、松浦まつら党と土豪の原田一族であった。息の浜は、博多に近い海岸で、三方を海に囲まれ防御が困難な地形であり、鎮西軍の本隊が担当している。指揮官は、総司令官小弐資能の長男、景資かげすけであった。箱崎は、箱崎宮を砦として構えた海岸沿いの強固な陣地である。


「こん戰ば、侘磨たくま別当どんもおいの采配に従うてもろうとる。菊池が、つまらん戰ばしよるち笑わるるごた、許さんど」


 侘磨氏は菊池と同じく肥後の豪族であり、約半数の百騎を率いていた。


おいがおるけん、菊池の意地が萎えるこつばなか」


 能虎が、武房の言葉を遮って叫ぶ。


「せからしか、能虎。その元気ば異賊にぶつけんね。まあよか。策戦さくせんば言うど」


 武房の言葉に、千人の武士は顔を引き締める。


「異賊ばさしよりとりあえず上陸さすったい。ほいでここから西の鳥飼とりかいの湿地で討ち取るど。ぬしゃどま、散々ここの地勢ば知りよろうもん。異賊ば物見も出しよらん。沼におる鳥んごた、矢ば射込んで首ばひねってやっど」


 武士たちの鯨波ときが払暁の空気を震わせた。十月の冷える朝も、戦士の熱気には心地よい。


「平八郎、おいはあん女子おなごおいの矢で異賊の船ば沈めるち約束したとぞ。鳥飼じゃ船を沈められんやなかか」

「知らんたい」


 能虎が話しかけても、初陣の平八郎は硬い表情で眼をぎらつかせている。


「なら、行くど」


 武房が、高々と大薙刀を天に掲げた。

 おう、と肥後侍の気合いが天を衝く。

 武房率いる郎党の集団を中心に、二百三十騎千人以上の武者が横隊に展開する。


「かーっ、昂ぶるばい」


 能虎が、自慢の五人張りの弓をびいんと掻き鳴らした。


「平八郎、若から離れんかったら、死ぬことはなかど」

「わ、判っとる」


 年上の竹三は落ち着いていて、わずかに震える平八郎の肩をぽんと叩いた。

 能虎が束ねる十騎五十人は、武房の南側に一団となって原野を進んでいく。ところどころ湿地があるが、有利に戦闘ができる地域は知り尽くしている。

 能虎は空を見上げた。すでに日の出は終わり、爽やかな秋空が広がっている。しかし清冽な空気の中に、戰の焦げついた臭いを確かに感じていた。


「もう始まっとるばい」

「い、異賊の来とるとや」


 平八郎が、さっと顔を青くする。


「ばってん若、いくら殿の言わるることでん、異賊に日ノ本の土ば踏ませてよかか。百道原の海岸で待ち受けた方がよかど」


 戰の始まった竹三は、普段は見せない闘争心に満ちている。


「竹三と同じこつば考えよる跳ねっ返りもおるったい。菊池じゃなかけんが、四十騎ほど血の気の多か武者が百道原で待ちよるげな」

「なしておいどまはそうせんとや」


 竹三が、不満げに眉間に皺を寄せる。


「簡単たい。大戰おおいくさばできる地勢じゃなか。引き込んで広い場所で、のびのびと首ば取ってやったらよかたい」

「ざ、残念ばい。その跳ねっ返りに一番首ば取らるるとは」


 平八郎が声を震わせて強がる。


「異賊ば甘く見なすな。対馬でん壱岐でん、城ば落としとるけんね。四十騎ばかりで生きて帰るるような相手じゃなかど。死んで恩賞もなかったい」


 能虎が、脅すように獰猛な笑みを見せる。


「油断すなちこつたい」


 ますます緊張する平八郎に、竹三はぶっきらぼうに吐き捨てた。

 能虎が騎馬の上から見回すと、菊池武房率いる部隊以外にも赤坂に陣を敷いた豪族たちが、展開しているのが見える。


 肥後は宇城の竹崎氏、肥前の御家人白石氏、そのほかに山田氏、松浦氏、原田氏、粟谷氏、日田氏が赤坂正面での布陣を総司令官小弐資能から命ぜられている。

 ざっと見るだけでも、騎兵が二千五百騎、徒歩の郎党を併せれば一万二千人の兵力となっているだろう。


 能虎が竹三に言ったとおり、これだけの人数が百道原に入れるものではない。そしてこの湿地で、闇雲に混戦を仕掛ければ自滅する。それぞれの豪族は、干潟の干満、川の水深、地盤の堅固な地域、沼の位置などを調べ抜き、担当区域を明確に決めていた。


 そうでなければ、不慣れな地形に元軍を引き込んで撃滅するという策戦に、自分たちが溺れてしまうのだ。


「あいたあ、こがん大戰ば初めてばい」


 能虎が、歌うように声をあげる。湿地帯の向こうには、ぽつんと盛り上がった麁原そはら山が見える。ひと息で駆け上がれるほどの、山というよりは丘だが、ほとんど防御力のない鳥飼の湿地帯の中では、陣を構えられる貴重な地形だった。

 と、その麁原山と干潟の間を、異様な軍勢が進んでくるのが見えた。


「あ、あいが異賊と?」


 平八郎の声が震える。


「止まれ! 足元のよか場所ば確かめるとぞ。矢合わせの距離まで、ここで待つど」


 武房が叫ぶ。菊池一族の部隊が進軍をやめ、ざわざわと細かく動き出す。全体を見れば、干潟から麁原山の南まで、弧を描いて元軍を取り囲む布陣になっていた。


「若、異賊ばここに来たち言うこつば、百道原の跳ねっ返りはやられたち言うこつだろ?」


 平八郎が、武者震いに膝を揺らしている。


「そうたい。弱か相手じゃなかったい」

「異賊ば三千ち言うところばい。百道原が空いたけん、まだまだ上陸してくるど」


 竹三の言葉に、平八郎は声を出せなかった。


「平八郎、こっちは一万二千ど。この大戰で、首のひとつも取れんなら、この能虎の郎党のきずど」


 数の有利さで、平八郎を励まそうとする能虎だったが、平八郎が薙刀を持つ手は白くなるほど力が入っていた。つまりは逆効果である。


 やがて、菊池一族の軍団は態勢を取り終わった。元軍は、その全貌を鳥飼の原野に現し始めていた。静かに昂ぶる菊池軍の上を、早朝の秋の風が吹き抜けていく。能虎の戦意が馬に伝わったのか、ひと声いなないた。


 この赤坂正面の全軍を統率する指揮官はいない。それぞれの一族がまとめている。だから抜け駆けをしようと思えば自由にできるのだが、それぞれの統領は、この干潟と湿地帯で無統制に攻めかかる愚を知り尽くしていた。


 ついに元軍は、鳥飼の原野に全貌を現した。距離は五町六百メートルというところである。装備まではよく見えないが、騎兵は少なくかちの兵が多い。船で上陸するのだから、馬を運ぶのは手間がかかるのだろう。


「ばっ、おいが矢合わせすっど。殿、よかど?」


 能虎は鏑矢かぶらやえびらからひと筋引き抜きながら、武房に問う。


「よかど。菊池の矢ば、五町ば飛ばせるるち異賊に見せてやるったい」


 怜悧な顔の武房に、薄く血が上っている。

 能虎は獰猛な笑みを浮かべ、馬上から五人張りの弓を引き絞った。常人では弦を一寸も引けないほどの強弓が、満月のように曲がる。きりきりと軋みをあげる弓を、能虎は元軍の頭上へと向けた。


 菊池一族が、おおと感嘆の息を漏らして能虎を見つめている。

 しばしの静寂が、鳥飼の原野に訪れる。

 能虎が、弓弦ゆんづるを離した。

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