第2話 来寇

 眼を覚ましたとき、すでに森には朝日が差し込んでいた。十月の肥前は、外でも眠れる程度には寒くはない。寝ぼけまなこをこするとすぐに、昨日の出来事が夢ではなかったと思い出される。


「……行かんば」


 足の爪が割れて流れた血が、赤黒く固まっていた。いねは歩きだす。喉の渇きは限界だった。元の来襲を知らせるのはもちろんだが、村に立ち寄って水を飲まなければ今日にも死んでしまいそうだった。


「太一しゃん」


 おそらく、もう太一は生きてはいない。何のために自分が今、苦しい思いをしているのか判らなくなった。太一のいない世界で生きていたくはない。けれども、太一は自分を逃がすために犠牲になった。そうやって救われた命を、投げ捨ててしまうことはできなかった。


「ううっ……」


 涙が眼にあふれる。死ぬよりも、生きる方がつらい。

 いねは元兵に見つからないように、山を下りることなく海沿いに山地を南に進んでいた。太陽が中天にかかるころ、三代村が眼下に見えた。


「あっ……」


 喜びの声をあげたのは、一瞬だった。

 三代村の海岸に向かって、何十隻もの小舟が兵を満載して進んでいた。海の彼方を見れば、阿翁浦で見た軍船が水平線を埋め尽くしている。そこから、上陸用の小舟に乗って元兵が迫ってくるのだ。


 そこへ、横合いから追撃をかける船が何隻も現れた。元の船に比べると質素で朴訥だが、水夫かこは素晴らしい勢いで船を操っていく。松浦党の水軍だった。

 船の上には、武者ひとりに郎党数人が乗っていて、それが一列になって元の小舟を追う。元の上陸用舟艇の一部が、松浦水軍を阻止すべく方向を変えるが、近づく前に海上でぴたりと動かなくなった。


 浅瀬に乗り上げたのだ。初めて日本近海に訪れる元軍と比べ、松浦水軍は地形も海流も知り尽くしている。

 そして動かなくなった船へ向け、船上の武者たちが一斉に矢を放つ。揺れる船での戦闘は、松浦の侍たちにとっては地上と同じだった。驚くべき命中率で、元兵たちは身体から矢を生やし海に落ちる。


「がんばりんしゃい……!」


 いねが握った手に、汗が湧く。

 しかし、残りの元船は三代村の海岸へと近づいている。座礁した船を片付けた松浦の船は、背後から上陸部隊を追いかけた。三代村の南側は、海岸線が西へと伸びている。


 そこから上陸しようとする船の群れを追いかけ、矢を射かける。元側も射返してくるが、船上で弓を射ることに慣れていないのか、矢はあらぬ方向へ飛び、船上も混乱して何もせず落ちる者もいる。

 松浦党は、そういった者を見逃さず射貫いた。


 船を反転させるのは時間がかかり、松浦に大きな隙をさらすことになる。元船は、少しでも早く上陸しようと速度をあげた。海岸まであとわずかの距離までに近づいたとき、この船群も浅瀬に乗り上げた。

 松浦党は地形や干満を熟知していて、ここに追い込んだのだ。そして弓の稽古のように、船上の元兵を次々と射ていく。


 だが、松浦党の奮戦も上陸部隊の一割程度を撃破したに過ぎない。すでに、正面の海岸に最初の小舟が達着していた。

 阿翁浦で見た元兵と同じ、長い甲を身につけた男たちがぞろぞろと上陸していく。ざっと数えても、二百人以上はいる。そこへ、二十人程度の侍が到着した。

 矢合わせもせず、いきなり討ち合いが始まる。鎧を着た侍は、矢の雨に耐えながら射返しているが、下半身は下帯一枚の郎党たちは、矢を受けて次々と斃れていく。


「あ、あ……」


 いねは膝をついた。

 えびらの矢がなくなったのか、騎馬武者がひとりまたひとりと弓を捨てて、刀を振りかざし数十倍の元兵に向かって斬り込んでいく。

 だが、すべての侍は何百本もの矢を浴びて、馬ごと海岸に倒れ伏した。元の槍兵が殺到し、動かなくなった侍たちの死体に何本も何度も槍を突きこんだ。


 一方、背後を突こうとしていた水軍は、船上から陸へ矢を射かける。しかし今度は、元の弓兵は地上にいる。元兵の放った矢が、幾筋も松浦党の船に突き立つ。

 熟練の水夫が、矢をかわそうとじぐざぐに船を漕ぐが、武装していない彼は元兵の矢に射られて海に次々と落ちていった。


 そして、漕ぎ手を失った水軍は、ただ海上の標的となった。陸上から正確な弓術で撃ち込まれ、三代村を守ろうとした松浦党は全滅した。

 そして、阿翁浦と同じ暴虐が始まる。


「好かん……!」


 いねは顔を覆った。

 太一を殺した高麗兵の、奇妙な言葉や冷たく細い眼が鮮明に思い出される。村の家々から、火の手があがる。元兵が、男たちを殺し女子供を追い回す。

 もはや鷹島は、地獄と化していた。逃げる場所は、ない。

 いねは、ふらりと立ち上がる。


「もう、どがんでんよか」


 喉の渇きが耐えがたい。いねは、混濁した思考のまま山を下りていく。一杯の水が飲めるなら、高麗兵に陵辱されてもいいと思っていた。

 夢遊病者のように、ふらふらといねは三代村に足を踏み入れた。すでに、血の生臭い匂いが周囲に漂っている。村はずれの家に入る。血臭がぐんと濃くなった。


 土間には背中を斬り裂かれた女の死骸。囲炉裏の灰の中に、老人が顔を突っ込まれていた。肉の焼ける匂いが漂っている。囲炉裏にかけられた鉄鍋の中には、赤ん坊が煮込まれていた。

 そのような光景にも、いねの心は動かなくなっていた。土間にあった水瓶みずがめに、顔を突っ込んで馬のように水を飲む。一心に飲んだ。


 渇きが満たされても、生きる気力は沸いてこなかった。耳鳴りがひどい。頭の中は砂嵐が吹き荒れている。

 いねが小屋の外に出ると、ばったりと高麗兵に出会った。

 四角い顔の、目の細い高麗兵は泥鰌どじようのようなひげを生やしている。息をするたびに、ドブのような口臭が漂った。


이쪽으로 와こつちに来い


 いねはぼんやりと、高麗兵が口を動かすのを見ていたが、いきなり突き倒された。景色が揺れ、空が青いことが判る。

 高麗兵が馬乗りになっても、重いと感じるだけで恐怖も嫌悪も砂嵐にかき消されていた。


 高麗兵が短刀を抜いた。このまま殺してくれればありがたいと思った。

 手首をつかまれ、いきなり掌に激痛が跳ねた。一瞬、砂嵐が消えるほどの衝撃だった。


「ああああっ」


 叫んだのは、身体の反射だった。高麗兵の短刀が、いねの掌を地面と縫い付けていた。もう片方の手も、短刀に貫かれる。


「ぎいいっ」


 高麗兵に、思い切り頬を張られた。脳が揺れ、目玉が飛び出そうだった。腰にくくりつけていた縄をほどくと、高麗兵は短刀で開けた穴にぐいぐいと縄をねじこんでくる。傷口を荒縄で擦られる痛みは太一の死をも忘却しそうだった。

 両手の穴に縄を通すと、縄にべっとりと赤黒い血が染みた。

 高麗兵は立ち上がり、力づくで縄を引く。


「痛か! 痛かあっ!」


 そのまま引きずられていると、掌の肉を裂かれそうだった。あまりの痛みに、いねは立ち上がってついていく。高麗兵が振り向くと、卑しく満足げな笑みを浮かべた。

 見れば、いねと同じように掌に穴を開けられ、縄でくくられた者が何人かいる。すべて女か子供だった。大の男をこのようにするのは難しいのだろうと、いねは痛みで朦朧とした頭で思った。


 上陸用の小舟が乗り上げた、海岸へと連れて行かれる。このまま海の果てへ連れ去られるのかと考えたが、今はただ苦痛から一刻も早く逃れ太一の元に行きたいと思うばかりだった。

 高麗兵たちが小舟に乗り込んでいく。しかし、いねが乗る場所は空いていない。それに構わず、兵は船を沖の軍船へと漕ぎ出した。


「えっ……!」


 縄に引かれて、いねの身体は海へと入っていく。腰まで入ったところで船の速さに追いつけなくなり、足が海底を離れた。

 縄をぐいぐいと引かれ、いねは船縁に結わえつけられた。鼻から口から、海水がごぼごぼと入ってくる。かつて太一が、大物の歯鰹はがつおをこうやって船縁ふなべりに提げていたと、いねの脳裏にわずかに浮かんだ。


 やがて沖の軍船にたどりつく。高麗兵は、縄ばしごを使って母船に戻っていく。軍船には、見せびらかすように十数人の日本人が舷側にぶら下がって海水に漬けられていた。いねも、そのひとりになる。

 もはやいねの意識は混濁し、軍船が動き出したということしか判らなかった。


 結び方が緩かったのか、船が速かったのか、いねの身体は船の後方へ流されていく。縄が手の穴を擦って、海中に鮮血を散らせていくが、いねの身体はもう痛みを感じなくなっていた。手の穴から綱が、ずるりと抜けた。

 そしていねの意識は、闇の中に落ちていった。

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