真・元寇戦記

龍淵灯

第1話 鷹島の少女いね

 文永十一年一二七四年十月十六日。

 それは島の少女、いねにとって生涯忘れ得ぬ日になった。

 玄界灘に浮かぶ、肥前国ひぜんのくに松浦まつら郡の鷹島がいねの住む島の名である。 


「いね、何ば見よるんか」


 島の北西、阿翁あお浦を見下ろす丘に立ついねに、若者が話しかける。


「海ば見よると。明日見る海ば、今日と違うんやろうか、太一しゃん」

「海ば変わらん。変わるとはおいといねぶぁい」


 太一と呼ばれた若者は、照れくさそうに微笑んだ。


「そうやね。明日から夫婦みようとばなる。爺も、十五になったらよかって言うたもん」


 いねも頬を染めてうつむく。


「明日の祝言ば、みんな集まって、爺が縞鯛ば釣って」

薄縁うすべりば敷いて、ハレの着物ば着て」


 ふたりの身体が近づく。視線が絡み合う。

 いねは、太一の胸に顔をもたれかける。いつもなら、すぐに逞しい腕で抱擁されるのだが、太一は像のように動かなくなった。


「太一しゃん……?」


 いねが見上げる。太一は、いねを見ていなかった。その眼は海へと釘づけになり、顔がこわばっていた。


「何や、あれは」


 振り返ると、玄界灘の水平線を見たこともない船が埋め尽くしていた。いねも、その異様な光景に息を飲む。


松浦まつらの船やなかと……?」

「あがん船ば、見たこともなか」


 いねの声が震えていた。その圧倒的な威容は、凶事をもたらすものとしか思えなかった。太宰府の貴族たちが松浦党と呼ぶ武士団は、水軍すなわち海賊を組織していたが、船の形はまるで違っていた。


「早う知らせんば」


 太一は、血相を変えて丘を駆け下りていく。海岸沿いに、ふたりの村はあった。


「ま、待たんねえ」


 風の匂いが変わっていた。嵐の匂いが、かすかにした。

 いねは太一を追いかけ、村まで戻る。すでに村人は総出で海岸に立ち、近づきつつある船の壁を見て驚嘆の声をあげていた。


「どがんするんか」

「どがんもこがんもなか」


 村人たちは、想像を超えた現実に右往左往するばかりだった。


「あれは、元ち言う国の船やなかじゃろうか」

「爺、元ち何か?」


 太一が、老人に問いかける。


「地頭殿どんが言うとった。こん日ノ本に、いくさば仕掛けよる国のあると。やけん島でも戰に備えて御館おやかたば作りよるし、博多にゃ九国やけでのう東国からも侍が来とるそうや」


 いねは、明日の祝言はどうなるのだろうかと思ったが、そのようなことを口に出せる雰囲気ではなかった。


「うちら、どうすりゃよかと?」


 太一にすがりつく。爺が、声を張り上げた。


「今日ば、外に出たらいかん。船ばおらんごとなるまで、家におれ。太一は、見張りぶぁい」


 太一がうなずく。

 混乱していた村人たちは、ひとつの指針が出たことで気をとりなおしたのか、いそいそとそれぞれの粗末な家へと戻っていく。残ったのは、いねと太一だけだった。


「太一しゃん、祝言ばどうなるとやろうか」

「祝言がどがんなっても、おいといねが夫婦ばなるのは変わらんぶぁい」


 いねの身体を、太一がそっと抱く。身体に染みついた潮と汗の匂いが、ほんのりと鼻をくすぐった。


「うん……」


 いねは安心して、太一の腕に抱かれた。しばらくして、ふたりの身体が離れる。


「いね……気ば強う持っとれよ」

「判っとる。あいばねえじやあね


 いねがきびすを返す。早足でしばらく歩いて振り向くと、まだ太一は立って微笑んでいた。いねも笑みを送る。

 それが、太一の最後の笑顔だった。


 村が、時ならぬ喧噪に満たされたのは夕方のことだった。爺から家の外には出るなと言われていたが、いねは屋外で起こる騒ぎにじっとしていることが耐えられなくなった。

 がたつく木戸を開けて、外に出る。


「何ね……」


 何十もの小型の船が、浜に乗り上げていた。そして、肩から膝の下まである長いよろいを身につけ、槍を構えた兵が次々と上陸していた。いねは、そのような甲は見たことがなかった。松浦の侍が着る鎧や胴丸とはまったく違う。

 すでに、村の家に火がかけられている。村人が、背中から槍で貫かれた。

 元の兵だと、いねは直感した。


「太一しゃん……!」


 見張りで残った、太一はどうなったのか。

 海を見れば、水平線を埋めていた元の船はほとんどが西の平戸の方へ進んでおり、この阿翁浦に上陸してきたのはその一部だったが、丸腰の村人を殺戮するには十分な数だった。


「あ……あ……」


 元兵は、村の粗末な家の扉を蹴破り、中に侵入する。逃げ出した村人には、男も女も構わず槍で突き刺す。家から出てきた元兵は、赤ん坊の首筋をつかんでぶら下げていた。赤ん坊が、全力の泣き声をあげる。慌てて出てきた母親が、元兵の足にすがったが蹴り飛ばされた。


 赤ん坊が空高く放り上げられ、その下には槍の穂先が待っていた。血袋が破れるように、穂先が赤ん坊の血で濡れた。泣き声は止んでいた。

 元兵は笑っていた。船の中に押し込められていた鬱憤を、爆発させているようだった。


「あああっ」


 ついにいねは悲鳴をあげた。何人もの元兵が、いねの方を振り向く。


여자가있다女がいるぞ


 いねが知るよしもないが、この文永十一年に日ノ本を襲った元の部隊は大部分が高麗軍であった。

 高麗兵は、飢えた男が女を見る下卑た笑みを浮かべ、いねに向かってくる。逃げようと思っても、膝が笑って足が動かなかった。

 高麗兵の手が、いねの胸元に伸びようとしたとき、悲鳴があがった。鉈が、甲の上から高麗兵の首に打ち込まれていた。


貴様きさんおいの嫁に何ばすっとや」


 太一が、息を荒げて前に立っていた。


「太一しゃん!」

개새끼クソ野郎!」


 高麗兵はひとりではない。左右から、太一の脇腹を槍が貫いた。その穂先は、背中から飛び出ていねの眼の前に突きつけられる。


「あ……!」


 眼の前で起こっていることを、頭が理解しようとしなかった。太一が、苦痛に歪んだ表情で後ろを振り返る。


「早う、逃げれ」


 絞り出すような声を聞いて、いねの膝に力が戻った。


「許して、くれんね」


 いねの声が崩れ、太一の顔が涙でぼやける。きびすを返して逃げようとするいねを見て、高麗兵が騒ぎだす。


「行かさん……!」


 いねが振り返ると、太一は二本の槍に貫かれたまま、三人の高麗兵を抱き留めて抑えていた。


「ううっ……」


 いねは泣きながら、東の宮地岳へ向かって走った。


「いね!」


 太一の絶叫が、背中から聞こえた。見たくなかった。見ればきっと、走れなくなる。太一の眼の前で、異国の兵に犯され殺される姿など絶対に見せたくない。


「太一しゃん……」


 いつしか草履は脱げ、着物の裾は割れて、腿が藪に引っかかれて傷ついていた。森の中にいた。


「はあっ、はあっ、はあっ」


 心臓が、壊れそうなほどに打っている。肺が痛い。身体が感覚を失ったかのように痺れる。

 山の斜面を登って、高麗兵は追いかけてはこない。森の木立の中から見下ろせば、生まれ育った村は煙が上がっている。


 明日は祝言だった。

 昨日までとは違う世界になった。

 命以外のすべてを失った。

 これからどうすればいいのか。


「助けば……」


 島の中央部西岸には三代村、南端には船唐津村がある。助けを呼んでも、もう間に合わないかもしれない。しかし、急を告げることはできる。いねは阿翁浦を右手に見ながら、山林の中を南へ歩き始めた。


 すでに黄昏が迫りつつあった。森の中は、外よりも早く暗くなる。歩くたびに重なった落ち葉が音をたて、いねを怯えさせた。喉は貼りつくように渇き、足は一度腰を下ろしたら立てそうにないほどに力を失っている。

 しかし、いねは歩き続けた。やがて完全に夜のとばりが落ち、梟が鳴き始める。下弦の月は消え入りそうなほどに細く、森の中は星明かりでかろうじて見えていた。


「あっ」


 いねは木の根につま先を引っかけた。激痛とともに、落ち葉の上へ倒れる。

 身体を起こす力が残っていなかった。いったん身体を横たえてしまうと、猛烈に眠気が襲ってきた。


 祝言の前日だった今日。

 元兵が襲ってきた今日。

 太一が、貫かれた今日。

 あまりに多くのことがありすぎた。


「う……」


 まぶたが滑り落ちる。いねが眠りにつくと同時に、涙が頬を伝った。

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