第2章: 新しい世界への扉

1. 未知の扉を開く時


入学から一週間が過ぎ、桜ヶ丘高校の日常が少しずつ形作られていく中、千紗たちのクラスで初めての量子コンピューティングの授業が行われた。


教室に入ってきた村上先生は、にこやかな表情で生徒たちを見渡した。「さて、みなさん。今日から量子コンピューティングの基礎を学んでいきます。これは現代社会において非常に重要な技術です」


千紗は身を乗り出すようにして、先生の言葉に聞き入った。隣の席の浩介は、少し困惑した表情を浮かべている。


村上先生は黒板に複雑な方程式を書き始めた。「量子コンピューティングの核心は、量子の重ね合わせ状態を利用することです。古典的なビットとは異なり、量子ビット、つまりキュービットは...」


説明が進むにつれ、千紗の目は輝きを増していった。複雑な概念が、彼女の頭の中でどんどんつながっていく。一方で、クラスメイトの多くは戸惑いの表情を隠せずにいた。


「ねえ、こーちゃん」千紗は小声で浩介に話しかけた。「これって、すごくない? 私たちの知っている世界の根本を覆すような...」


浩介は苦笑いしながら答えた。「正直、難しくてついていけないよ。でも、ちーがそんなに興奮してるの、初めて見たかも」


千紗は少し照れながらも、再び先生の説明に集中した。授業が進むにつれ、彼女の中で新しい世界への扉が開いていくのを感じた。


「そして、この技術を応用すれば、現実世界のシミュレーションも可能になるかもしれません」村上先生の言葉に、教室全体がざわめいた。


千紗は心の中で呟いた。「現実世界のシミュレーション...? それって、どういうことだろう」


授業が終わると、千紗は興奮冷めやらぬ様子で自分のノートを見返していた。複雑な数式と概念が詰まったページを見つめながら、彼女の心は新しい可能性に満ちていた。


「ちー、昼食の時間だよ」浩介の声に我に返る。


「あ、うん」千紗は少し名残惜しそうにノートを閉じた。「ねえこーちゃん、この授業すごく面白かったと思わない?」


浩介は首を傾げながらも、優しく微笑んだ。「難しかったけど、ちーが楽しそうだったから、きっと面白いんだろうね」



2. 知識を超えて繋がる心


量子コンピューティングの授業から数日後、千紗は図書館で関連書籍を探していた。興味をそそられた内容をもっと深く理解したいという思いに駆られていたのだ。


本棚の間を歩いていると、思いがけず将人と鉢合わせた。


「あ、将人くん」千紗は少し驚いた様子で声をかけた。


「やあ、千紗さん」将人はいつもの静かな口調で返事をした。彼の手には既に数冊の分厚い本が抱えられていた。


千紗は将人の持っている本のタイトルに目を向けた。「え?これって...全部量子力学関連の本?」


将人は少し照れくさそうに頷いた。「ああ、村上先生の授業を聞いて、もっと詳しく知りたくなってね」


「私も!」千紗は思わず声を上げた。「でも、こんな難しそうな本...全部理解できるの?」


将人は微笑んで答えた。「まあ、少しずつだけどね。実は中学の頃から独学で勉強していたんだ」


千紗は驚きを隠せなかった。「すごい...私なんて、まだ基礎の基礎も怪しいのに」


「よかったら、一緒に勉強しない?」将人が提案した。「僕も誰かと議論できたら嬉しいんだ」


千紗は目を輝かせて頷いた。「うん、ぜひお願い!」


二人は図書館の一角に座り、将人が持っていた本を開いた。将人の説明は、村上先生のものよりもさらに深く、時に難解だったが、千紗は必死についていこうとした。


「ここでね、量子もつれという現象が起きるんだ」将人が熱心に説明する。「二つの粒子が離れていても、瞬時に影響し合うんだよ」


千紗は目を丸くした。「え?離れていても?でも、それって光速を超えちゃうんじゃ...」


「そう、アインシュタインも不思議がった現象なんだ」将人は楽しそうに続けた。「でも、実験で証明されているんだよ」


時間が経つのも忘れて、二人は量子の世界に没頭していった。千紗は将人の知識の深さに圧倒されながらも、新しい発見への喜びに胸を躍らせていた。


「将人くん、本当にすごいね」千紗は素直に感嘆の声を上げた。「こんなに詳しく教えてくれて、ありがとう」


将人は少し赤面しながら答えた。「いや、千紗こそ。こんなに熱心に聞いてくれる人は初めてだよ」


その時、千紗は将人の目に、何か特別な光を感じたような気がした。しかし、すぐにその思いは消え、再び量子の話題に戻っていった。


図書館を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「また一緒に勉強しよう」将人が言った。


「うん、絶対!」千紗は嬉しそうに答えた。



3. コートの輝き


入学から2週間が経ち、部活動が本格的に始動し始めた頃のことだった。浩介は以前から話していた通り、バスケットボール部の入部を決めていた。


「ちー、今日の放課後、バスケ部の初練習なんだ」浩介が少し緊張した様子で千紗に告げた。


千紗は明るく笑顔で答えた。「そうだったね!頑張ってね、こーちゃん」


「あのさ」浩介が少し躊躇いながら続けた。「もし良かったら…見に来てくれないか?」


千紗は少し驚いたが、すぐに嬉しそうな表情になった。「うん、もちろん!応援に行くよ」


放課後、千紗は体育館に向かった。体育館の中に入ると、既にバスケットボールの音と靴が床を擦る音が響いていた。


千紗は観覧席の一角に座り、練習を見守った。新入部員たちがコートを走り回り、ドリブルやシュート練習をしている中、浩介の姿を探す。


すぐに浩介を見つけた千紗は、その真剣な表情に見入ってしまった。中学時代から運動神経が良かった浩介だが、高校の部活となるとレベルが違う。それでも、必死に食らいついていく姿に千紗は胸が熱くなった。


練習の後半、ミニゲームが始まった。浩介のチームが攻撃に転じ、パスを受けた浩介が力強くシュートを放つ。


「入れーっ!」千紗は思わず声を上げていた。


ボールは見事にリングを通り抜け、綺麗に決まった。


「やった!」千紗は小さくガッツポーズをした。


その瞬間、浩介と目が合った。浩介は少し照れくさそうに手を挙げ、千紗に向かってにっこりと笑った。千紗も大きく手を振り返す。


練習が終わり、汗だくの浩介が千紗のところにやってきた。


「ちー、来てくれてありがとう」


「うん、こーちゃんカッコ良かったよ!あのシュート、すごかった!」


浩介は照れくさそうに頭をかく。「いやぁ、まぐれだよ。でも、ちーが応援してくれてたから、頑張れたんだ」


その言葉に、千紗は胸がドキリとするのを感じた。


「これからも…時々応援に来てもいい?」千紗が少し恥ずかしそうに尋ねる。


「ああ、もちろん!」浩介は嬉しそうに答えた。「ちーが来てくれると、絶対にもっと頑張れるよ」


二人は笑顔で見つめ合い、そして一緒に帰路についた。春の夕暮れ時、桜並木の下を歩きながら、千紗は浩介の新しい一面を見た喜びと、胸の奥で大きくなっていく感情を噛みしめていた。


この日以降、千紗は時々バスケ部の練習を見学するようになり、それが二人の新しい日課のようになっていった。



4. 揺れる心


ゴールデンウィーク前の金曜日、放課後の教室。千紗と佳奈は二人で残り、週末の予定について話していた。


「ねえ、千紗ちゃん」佳奈が少し躊躇いがちに声をかけた。「明日、ちょっと時間ある?」


千紗は佳奈の様子が普段と少し違うことに気づき、心配そうに尋ねた。「うん、あるよ。どうしたの?何かあった?」


佳奈は深呼吸をして、決意を固めたように言った。「実は…話したいことがあって」


翌日、二人は近くの公園で待ち合わせた。満開だった桜は散り始め、ところどころに花びらの絨毯ができていた。


ブランコに腰掛けた佳奈は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「千紗ちゃん、ごめんね。こんな話、本当はしたくなかったんだけど…」


千紗は不安そうに佳奈の顔を覗き込んだ。「佳奈ちゃん…?」


佳奈は深く息を吐き、決心したように言った。「私ね、浩介くんのこと…好きなの」


その言葉に、千紗は一瞬言葉を失った。心の中で何かが軋むような感覚があった。


「え…いつから…?」千紗は小さな声で尋ねた。


「中学の終わり頃かな…」佳奈は空を見上げながら答えた。「でも、私にはわかってたの。浩介くんの目に映っているのは、いつも千紗ちゃんだってこと」


千紗は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。親友の告白と、自分の中で芽生えつつあった感情。それらが複雑に絡み合い、言葉が出てこない。


「私、ずっと言えなかった。だって、千紗ちゃんと浩介くん、幼なじみで特別な仲だから…」佳奈の声が少し震えていた。


「佳奈ちゃん…」千紗は佳奈の手を握った。「私…何て言っていいかわからない…」


佳奈は微笑んで首を振った。「ごめんね、急に言って。私、これからも千紗ちゃんの親友でいたいの。だから、正直に話しておきたかったんだ」


千紗は佳奈をそっと抱きしめた。「うん…ありがとう、佳奈ちゃん。私も、ずっと親友だよ」


二人は長い間、黙ったまま寄り添っていた。春の風が二人の髪をそっと撫でていく。


「千紗ちゃん」佳奈が静かに言った。「私ね、諦めるつもりはないの。でも、千紗ちゃんの気持ちも大切にしたい。だから…公平に、頑張ろうね」


千紗は複雑な思いを抱えながらも、微笑んで頷いた。「うん…」


その日の帰り道、千紗は自分の気持ちと向き合わざるを得なくなった。浩介への想い、佳奈との友情、そして自分の本当の気持ち。全てが交錯し、彼女の心は揺れ動いていた。



5. 友情と恋の狭間


佳奈との会話から数日が経ち、千紗の心は落ち着きを取り戻せないでいた。教室で浩介と話すたびに、佳奈の告白が頭をよぎる。そして同時に、自分の中で芽生えつつある感情にも戸惑いを覚えていた。


放課後、千紗は一人で校舎の屋上に立っていた。春の風が髪を揺らし、遠くに見える桜並木がぼんやりとピンク色に染まって見える。


「どうしよう…」千紗は小さく呟いた。


浩介の笑顔、優しさ、そして彼との思い出が次々と蘇ってくる。同時に、佳奈の真剣な眼差しと「公平に頑張ろう」という言葉も忘れられない。


「私…こーちゃんのこと、どう思ってるんだろう」


千紗は自問自答を繰り返していた。幼なじみとしての親愛の情なのか、それとも特別な感情なのか。境界線が曖昧で、自分でも分からない。


そんな時、ふと将人との会話を思い出した。量子の重ね合わせ状態。0でも1でもない、どちらの可能性も持つ状態。


「私の気持ちも…そんな感じなのかな」


しかし、いつかは観測されて、どちらかの状態に収束する。そう考えると、千紗は少し怖くなった。決断を下すことで、何かを失ってしまうのではないか。浩介との関係、佳奈との友情。どちらも大切で、失いたくない。


「でも、このままじゃダメだよね…」


千紗は深く息を吐いた。佳奈の勇気ある告白を思い出す。親友は自分の気持ちに正直に向き合った。だから、自分もそうしなければいけない。


「よし」


千紗は空を見上げ、決意を固めた。まずは自分の気持ちをしっかり見つめ直そう。そして、浩介のことをもっとよく知ろう。佳奈の気持ちも大切にしながら、自分の本当の想いを探っていこう。


「きっと答えは見つかる」


そう自分に言い聞かせながら、千紗は屋上を後にした。夕暮れ時の校舎に、彼女の決意の足音が響いた。


帰り道、千紗は空を見上げた。夕焼けに染まる雲が、ゆっくりと形を変えていく。その様子を見ながら、千紗は思った。


「私の気持ちも、きっとゆっくりだけど、形を変えていくんだろうな」


まだ答えは出ていない。でも、それを探す旅が始まったことは確かだった。千紗の高校生活は、まだ始まったばかり。これからどんな展開が待っているのか、誰にも分からない。


ただ、千紗は自分の気持ちに正直でいようと決意した。それが、佳奈への、そして自分自身への誠実さだと信じて。



6. 父と語る夜のひととき


夕食時、千紗の家のダイニングテーブルには、いつものように温かい料理が並んでいた。千紗は学校での出来事を家族に話しながら、食事を楽しんでいた。


「今日ね、学校で量子コンピューティングの授業があって、シュレーディンガーの猫の話が出たんだ」千紗は少し興奮気味に語り始めた。


父の健太郎は興味深そうに箸を止め、千紗に目を向けた。「そうか、シュレーディンガーの猫か。で、どんな風に話してたんだ?」


千紗は少し困った顔をしながら答えた。「なんか、猫が生きてるのか死んでるのか分からない状態があるって言うけど、そんなこと本当にあり得るのかなって思っちゃって」


健太郎はうなずきながら優しく笑った。「そうだよな、ちょっと不思議な話だよな。実際のところ、それは量子の世界でしか起こらない現象なんだ。日常の大きな物体では観測できないけど、小さな粒子の世界ではよくあることなんだよ」


千紗は少し理解が進んだように頷きながらも、まだ疑問が残っている様子だった。「じゃあ、お父さん、実際にそういう実験ってどうやってやってるの?」


健太郎は少し考え込むようにしてから、笑顔で答えた。「実際の実験では、猫の話みたいに分かりやすくはないんだけど、例えば小さな粒子を使ってその状態を再現してみたりしてるんだ。ちょっと専門的になるけど、こういう研究が進むことで、今のコンピューターとは違う新しい技術が生まれてくるんだよ」


千紗は感心した表情で、「へえ、そんなことまで分かってるんだ。お父さん、すごいね」と言った。


美佐江がキッチンから微笑みながら話に加わった。「お父さん、昔からこういう科学の話が大好きだったのよね。図書館でもよく難しそうな本読んでたわ」


健太郎は照れくさそうに笑って、「好きこそものの上手なれってやつだよ」と答えた。


千紗はさらに興味を引かれたように質問を続けた。「ねえ、じゃあ量子テレポーテーションってどういうものなの?」


健太郎は少しおどけたように、「それはまた難しい話だなあ。でも簡単に言えば、情報を瞬時に遠くに送る技術だと思ってくれればいいかな。まだ研究段階だけど、いつかそれが普通に使える日が来るかもしれないね」と説明した。


千紗は父の話を聞きながら、少しだけ夢見るような表情を浮かべた。「そんな未来が来たらすごいね。お父さんの知識ってほんとに面白いなあ」


健太郎は少し照れながらも、「ありがとう。お前が興味を持ってくれるのが何よりうれしいよ。もしわからないことがあったら、いつでも聞いてくれ」と言った。


夕食後、千紗は自室に戻り、父との会話を思い返していた。健太郎の話はいつも興味深くて楽しいけれど、同時にどこか機械的な正確さも感じてしまうことがある。でも、それは父が大好きな科学の世界を心から楽しんでいるからなんだろう、と千紗は思い直した。


「お父さん、昔から本当に好きなんだなあ」と、千紗はベッドに横たわりながら呟いた。窓の外には、柔らかな月明かりが優しく差し込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る